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何のために?


我々は、遺伝子として知られる利己的な分子を保存するように盲目的にプログラムされた、機械的な乗り物としての生存機械(ロボット)なのだ。これは、私の心を驚きで満たしてしまう真実である。

- R.Dawkins(1976)

 とあるボレジョがこんなことを言っていた。曰く――推しが好き!じゃなくて推しを推してる自分が好き♡みたいなやつ見ると反吐が出る。なるほど。ここで嫌悪感を抱く前に、なぜそういう発言がなされたのか(なぜそういう思考に至ったか、ではない)を考えるのが人類学の宿命である。
 人間の究極的な目標は、生存すること生殖することだ。およそすべての行動は、還元するとそのためにある。たとえば喫煙は、直感的には生存のために役立たないように思えるが、積極的に有害な物質を摂取できる自身の強さを誇示することで、それが結果的に生殖に有利だと解釈される。もっともそれが勘違い(遺伝子のバグ)であれば、やがて淘汰(デバッグ)されるだけだ。積極的に毒物を摂取する遺伝子が必要であれば生き残る。

 件のボレジョは、その発言をすることで何らかの利益を得る。そう本能的に考えたからしたわけだ。ではどんな利益があるだろう。再度眺めてみる。

推しが好き!じゃなくて推しを推してる自分が好き♡みたいなやつ見ると反吐が出る。

 これを分解すると、推しが好き!(=自分)に比べて、推しを推してる自分が好き(=誰か)は劣っている、そう解釈できる。彼女にとってその誰かは敵であり、本能的に排除したい相手なのだ。人が人に敵意を向けるときは、例外なく排除欲求が奥底に存在する。
 あるいは、自分はそういう人間(推しを推してる自分が好き)ではない、という表明ともとれる。その場合、そういう人間だと思われると損だと考えていることになる。いずれにせよ、彼女は純粋に推しが好きだというポジションの方が価値が高く、それを表明することで本能的に利益があると捉えているわけだ。

 何かを純粋に応援することは、不純な動機で応援することよりも褒められる。偽善という概念と似ているだろう。純粋な気持ちで募金をすると素晴らしい人間だと思われる。しかしその行為をツイートした瞬間、その人は偽善者のレッテルを貼られる。人は行為の内容だけでなく、それが為された心理も評価する。
 推しを推すという行為に差がなくても、推しを推す動機に優劣を見出す。それが、件のボレジョが本能的に行った価値判断だった。
 しかし残念なことに、自分が思っている動機がどうあれ、推しを推すという行為に純粋もクソもない。推しを推すことで何らかの得があるから推すのだ。それは生存に役立つ精神的な得かもしれないし、生殖に役立つ肉体的な得かもしれない。その本能から、自分だけは目を逸らすなんて蛮行は許されないのだ。

「私にはそんなやましい本能ありませんよ」という表明は、このようにむしろ背後にある本能の匂いを際立たせてしまう。
 女に興味なんかねーよ!と叫ぶ中学生男子から感じる雄の匂い、優しい男性が好きと宣う女性から感じる雌の匂い。その発言が何のためになされたかを考えると、例外なく本能的習性に行き着いてしまう。
 そうであると分かってされた発言に、私は好感を覚える。本能に自覚的な人の方がむしろ理性的で、自分にとって有益な結果をもたらしてくれると信じているからだ。本能に無自覚な人とはそりが合わない。そりが合わないからといって、別に攻撃はしない。

 というようなこの文章は、いったい何のために書かれたのか。




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