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私が予想屋ではない理由


 TwitterというSNSで予想屋に苦言を呈していると「いやお前も予想屋じゃん」というツッコミがたまに寄せられます。そのたびに、いったい私は何なんだろうと考えてしまうのです。
 こういうときに言葉の定義を明らかにしたくなるのは、哲学に傾倒した人間の面倒な性癖ですが、しばしお付き合いください。

予想屋(よそうや)とは、公営競技の場内において競走(レース)の着順を予想し、その情報を販売する人である。

予想屋(Wikipedia)

 ほら、やっぱり予想屋じゃん。たしかに私は公営競技で競走の着順を予想しているように見えます。まぁこの際場内であるかどうかは置いておいて、ネットで活動する予想屋である点に異論の余地はなさそうです。
 しかし、実は私は競走の着順を予想なんかしていません。むしろそんなのどうでもいいとすら思っています。

 競艇のレースの着順を的中させると、お金が何倍かになって返ってきます。外すと、賭けたお金が消えます。馬鹿にしているわけではありません。それが競艇というギャンブルです。
 でも、人はそのレース限りで競艇を終えるわけではありません。何回も何回も繰り返します。そうすると、一定期間耐え抜いた勝者と、資金が尽きてドロップアウトする敗者に分かれていきます。当てているのにお金が増えない。控除という名のテラ銭が引かれているわけです。回数を重ねれば負けやすくなるようにオッズはコントロールされています。

 「オッズ×事象の発生確率」が期待値と呼ばれるものの中身です。
 分かりやすすぎる例を出すと、3艇立てのレースで1号艇が峰、2号艇がルーキー、3号艇が初出走のルーキーだった場合。1-2-3になる確率は100%に近いです。しかしオッズが0.75倍だったら期待値はマイナスですね。いくら「これがこうなる!」と「予想」できても、オッズが安かったらお金はどんどん減っていく。分かりきったことです。

 私は、そもそも「これがこうなる!」という意味での「着順予想」を放棄しています。
 その代わり、継続的に勝つために、つまりオッズ×事象の発生確率をプラスにするために、定量的なアプローチを採り入れています。それは、どんなときに参加者がミスをするかという視点です。
 ありていに言えば、予想屋や参加者がレースの着順を予想しているとき、私はその「着順を予想している人々の行動の予測」をしています。といっても、毎レース毎レースそれを精密にやっているのではなく、おおまかな傾向としてこうなりやすいよね、という戦略をいくつか持っていて、それを当てはめて投票しています。
 その買い目をオープンチャットやnoteで公開しているので、言うなれば「戦略紹介」なんです。着順予想ではない。

 ここで、キングof競艇予想屋のkさんの予想を見てみましょう。

 申し訳ありません、例を間違えました。でも彼は、彼なりに頑張って「当てよう」としています。当たらないとフォロワーにドヤれませんもんね。当然の心理です。誰も彼を責められない。
 そう、予想屋はとにかく当てないと話にならないんです。顧客は短期的で刹那的な「勝利」を求めています。それはさながら川で藁を掴むように、予想屋という脆弱で愚かな存在を頼るわけです。仕方ない、次々!と元気よく叫ぶ予想屋の背後に、溺れて死んでいった参加者の霊がたくさんいます。彼らは死ぬべくして死んだと言わざるを得ません。だって、予想屋は当てようとしているだけで、勝つことなんてさらさら考えていないんだから。

 私が対象としているのは「勝ちたい人」です。そして彼らに公開しているのは「勝つための戦略」です。1レースごとに繰り広げられる1800mの顛末は、単なる1ユニットに過ぎません。それが一定数集まったときに、貴方のバンクはどうなっていますか、という点にのみこだわっています。
 これを予想屋だなんて言ったら、真剣に当てようと頑張っている祈祷師予想屋の皆様に失礼です。彼らは未来を必死で推測しています。私は未来に興味ありません。これまで人間がこう振る舞ってきたから、そしてそこにはこういう規則性があるから、オッズはこうなって、本来の発生確率と比べてこうで、それならこの目には張る価値がある。そう述べているだけなのです。

 予想屋とは、やっているゲームがまるで違います。どちらが上とか下とかではなく、当てようとして参加している人とは「違う」のです。ここまではっきりと異なるのであれば、同じカテゴリーに身を置かない方がいいでしょう。
 斯くして、私は予想屋ではありません。猫と料理が好きな日常系アカウントです。お見知りおきを。



私のフォロワーで彼のことを知らない方はいらっしゃらないでしょうが、一応盟友なので紹介しておきます。


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