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Extr@Stage////Live F@ckin Streaming with F@ckin Suside////

【stage2:選ばれなかった人】

「●REC」


その日Yourplayの急上昇ランキングトップに駆け上がった動画は、ホームパーティを撮った父親が間違えてつけたようなタイトルだった。

ただ『録画(●REC)』と名打たれたこの動画は、激しいビートを打ち鳴らすEDMと共に、主観視点の映像から始まる。
眠らない首都、東京の夜景。そこに次々と上がる爆炎。そして、明らかにこの撮影者のすぐ近くであがっていると思しき、子供じみた歓声。

映像は動き出し、笑顔のマスクを被った高校生たちが振り返る。

『君もバックライトのメンバーなんでしょう』

『グッドフレンドになりたい、今はまだ"普通でしかない人"なんでしょう?』

『僕らは仲間を歓迎する。フードパーカーの君よ! さぁ笑顔を見せておくれっ』

そしてそこから始まる、殺戮の旋律。

 主観視点の『何者か』は次々とバールを振り回して笑顔を切り裂き、蹴り倒し、踏みつけ、断末魔を塗りつぶす。

 yourplayの画面枠に覆われたその残酷な映像は、しかし軽やかで楽しげでリズミカルだった。見事なタイミングで切り取られた殺害の瞬間は心踊るEDMと軽やかな男性ボーカルの歌声に彩られているし、バールが当たった瞬間舞うのは血しぶきではなく色とりどりのカラーパウダー。ご丁寧にも画面にへばりつく血はライトグリーンのペンキのように塗り替えられ、さながらストリートアートだ。

 動画の再生数は次々と繰り上がっていく。
 グッドボタンとバットボタンは互いに競うように乱行高下を繰り返す。
 さながらイカれたクラップダンスのように。


「映画見てるの?」
 ちょうどディスプレイが暗転した時に 、母親の顔が映った。
衣乃はスマホのスリープボタンを押す。
「彼氏と通話中だった?」と母親は冗談めかしてテーブルに皿を並べていく。アボガドとチキンのサラダ、あさりのアクアパッツァ、ラザニアにクリームパイ――
「……ちょっとママ、豪華すぎじゃない?」
「だって衣乃、好きでしょ」
 母親は長いまつげを伏せてナプキンを膝にかける。確かにテーブルに並ぶ料理は好きなものばかりだった。思わずため息が出た。
「ママ、やめて」
「なにが? 温かいうちに食べてちょうだい」
「悪い知らせでしょ。わかってるから」
 母親が顔を上げると、寂しそうな顔をしていた。衣乃が昔からよく見る顔だった。
「この間のオーディションの結果が来たの」
「落ちてるんでしょ、たいしたことないわよ……はい、出して」
 手を差し出すと、母親は伏せっていた瞳を持ち上げて、ナプキンの下から封を開けた手紙を差し出した。
嘆息交じりに手紙を開けてみると、丁寧に落選を告げる紙切れが入っていた。この手紙を印刷する人ってなに考えてるんだろ? 丁寧な文面であればあるほど、それが紙切れ一枚で収まってる事実がむなしいって気づかないもの?
「好きなの揃えてくれてありがと。でもここでバカ食いしたらダイエットの意味がないから……サラダだけもらうね」
 アボガドをつまみながら日記帳を開く。
 スクラップブックから手作りしたこの手帳は、日記帳でもあり、アルバムであり、スケジュール帳でもある。表紙に少しだけ貼ったマスキングテープを撫でてから開くのがお気に入りだった。次のオーディションの日取りを書きこむ。
「衣乃」
 母親の荒れた白い掌が、衣乃の視線を遮った。
「……同じ事務所を何度も受けたって、受かるはずないわ」
 声音は柔らかかった。
 顔を上げた衣乃はじっと母親を見つめてから、小首をかしげて笑って見せた。
「スターライトプロモーションにはカナトカエデっていう有名な音楽プロデューサーがいるって言ったでしょ? 変な事務所に所属すると思いつきのコンセプトでデビューさせられたりして、ダサい衣装でバカっぽい歌を歌わされるんだって」
「スターライトはお姉ちゃんの事務所よ」
「知ってるよ。……やっぱりアクアパッツァだけ食べる」
 二の句を遮るように依乃が身を乗り出すと、酒蒸しよ、これ。と母親はかすかに笑った。衣乃は眉をもちあげて、フォークをあさりにちょんと刺した。「…おいし。腕上げたね」と感心する。母親は少しの間衣乃の顔を見てから、ふぅと小さく息を吐いた。ひじをついて、顔をのぞき込んでくる。

 シャワーを浴びて自分の部屋に戻ると、電気もつけずに落選通知書をもう一度眺めた。
 落選通知書。
 じわ、と嫌な気持ちが胸に染みてくる。
 両手で絞るように手紙を破る――破りかけた。ふと二段ベッドに目が向いて、通知書をつまんで上のベッドに投げ込む。そこは手紙だらけで、虚しい紙切れが雪崩のようになっていた。また一枚、雪崩に手紙が加わった。
 下のベッドからパッド端末を取り出す。ホームボタンを押すと、動画アプリを起動する。
『なに見てんの?』
 急にきれいな声がした。
した気がした。
 ディスプレイを眺めると、”彼女”はいつも上のベッドから降りてきて衣乃のベッドにもぐりこんできていた。彼女お気に入りのシャンプーはイチゴの香りがしていて、隣にもぐりこまれるとくすぐるような香りにいつもドキドキしていた。
 中学生の頃、好きだったアニメの動画を見ていたら彼女が潜り込んできて
『オタクだなぁ』
 と笑った。
 クラスの仲の良かった友達も同じセリフを言ってから自分と口をきいてくれなくなったので、いやな気持が胸に広がった。
『私、この子好きだよ』
 オープニングで舞うように飛ぶキャラクターたちの一人を、あの時彼女は指さした。金髪の、王子系の男の子だった。
『……衣乃と被ってないよね?』
 彼女は耳元に口を寄せてきて、クスクス笑っていた。好みはすっかりかぶっていたので、衣乃もクスクス笑った。

 激しいEDMが鳴り響く。

 ボリューム調整を忘れていた。爆音がパッドから吹き出す。ぼんやりと「●REC」の文字を眺めてから、音量を下げる。

衣乃は一人で動画を見ていた。
今は一人で、楽しげな人殺し動画を見ていた。

 見上げた天井の向こうには、彼女の代わりにむなしい手紙が積み重なっている。

 女の悲鳴が上がった。動画はちょうど、フルフェイスヘルメットにバールが突き刺さったところだった。
 階段を転がり落ちた女が、四肢をだらんと垂らして虚空を見上げる。
 ヘルメットに口紅で書かれた不気味な笑み。壊れたバイザーの隙間から真っ黒な瞳がカメラを見上げている。そこで映像は途切れ、再生バーが端までたどり着く。

 ディスプレイから光が失せ、衣乃はパッドを胸の隙間にもぐりこませた。

 液晶ディスプレイが放つ光が失せても、衣乃の目は光をたたえていた。
 湖畔に浮かぶ月のように。
 それは、死者の光だ。

◼️

 朝のホームルームが始まる前から霧野のテンションは高かった。振り返るなり衣乃の鼻先をちょんとつついて
「●REC……!」
「動画の話でしょ」
 衣乃は嘆息して興味なさげにふるまった。ニヤついていた霧野はぽかんと口を開けて
「人類を罰しに来た天使が、急上昇ランキング見てるよ……」
「動画くらい見るわよ。……天使ってなに?」
「Your streamからは動画消されたけどさ、ツイストにまだ『●REC』の動画が流れてるよ」
「それより、天使ってなに?」
「私も昨日、見ちゃった…」
 トボトボと窓際の席からやってきた柚葉が、消え失せそうな声でつぶやいた。二つのおさげも心なしか元気をなくしてるように見える。
「ツイストのタイムラインに流れてきてて、気づいたら全部見ちゃってた……」
「なんか見ちゃうんだよね~、流れてる曲と映像がキマっててさ、カッコよすぎ」
「人が死んでるだよ、そんなこと言っちゃダメだよ」
 身をすくめる柚葉に霧野がクックと笑って
「あのさぁ、柚葉。それはあんたが――」
「死んでるからなんなの?」
 刺すような依乃の声。
 びくっと柚葉が胸の前で腕をすくめた。一瞬霧野が衣乃を眺めて、ホームルームの雑然とした会話が三人の間に漂った。

「昨日のYour streamでさ……」「俺の友達がメッセで流してた。見たよ」「バックライトは大学のヤバいサークルのやつがやったんだって……」「ツイストで特定始まってる」「ケーサツが立ち入り禁止にしてるって」「ここであったんだって。ストリートビューにのってる」「えっ、帰り道なんだけどここ」「今日半休になんないかなぁー」

「……あんた、どうしちゃったの?」
 恐る恐る、といった様子で霧野が話しかけてきて、衣乃はハッとした。自分が何を言ったのか思い出せなくて、一瞬ひるんだ。「……あはは、どうしちゃったんだろね」と柚葉に笑いかけると、彼女は困ったような、ほっとしたような、変な笑顔を浮かべて見せた。
「……天使が堕天使になったのかと思ったよ」
「さっきからその、なんなの? 天使とか」
「霧野ちゃん、その話はダメだよ、男子が勝手に言ってるのだし……」
「ちょっと、なんで隠すのよ」
 霧野が大きな口を開けて大笑いする。黙っていればモテそうなのにあごを持ち上げて大笑いするようなところが好きだ。柚葉も控えめな笑いで口元をおさえる。三人の笑いがホームルームを控えた教室に馴染んでいく。
 教室中の誰もが、●RECについて騒つく中、笑い声が鈴なりのように鳴る。


◼️


 空は夏色、陽は高くそびえ、校庭端のプールはさながら陽炎に浮かぶオアシスだ。

蝉の大合唱。コンクリの上は焼きごてのように熱く、生徒たちがその場駆け足でなんとかやり過ごしている。目の前のプールに飛び込む瞬間を、を今か今かと心待ちにして。
どよ、と男子生徒のうろたえる声があがった。

長い緋色の髪をキャップの中にしまい、紺のスクール水着に身を包んだ依乃が現れた。
恐ろしく胸かでかい。
男子生徒はただただ煩悩と戦いながらその豊満さに結局目を奪われていたし、女子生徒はそのスタイルの良さに劣等感混じりのため息を密かに漏らす。
しかし当の本人は恥ずかしがる様子もなく、わずかに顎をあげて周囲の好奇の目線になんでもない目をくれてやるだけで、しかし長い睫毛でゆっくりと瞬きさせて見せるのは忘れなかった。誰もがその瞬間を、夏がこぼす一瞬の輝きだと思って記憶に刻みこむ。
彼女は確かな自信を身にまとっていた。澄ました顔や、少しつまらなさそうに尖らせた唇がそれを物語っていた。それがゆえに、人群れを割って霧島が急速接近しているのに気づかない。
「……いーのっ!」
 きゃぁ、と悲鳴が上がった。
 依乃の澄まし顔が飛び上がって、すらりとした肢体はぎゅっと縮こまって宙を飛ぶ。
人差し指を突き出した霧島が、ニヤニヤしながら両胸を抱えて真っ赤な顔の依乃を見上げた。大笑い。そして、男子の大歓声があがった。

「依乃さん、狙ってやってるのかな? あれって」
 夏も間近だというのに、羽織った学ランに手を突っ込んで一ノ瀬はベンチに座っていた。そして話しかけられて初めて、隣に高野が座っているのに気がついた。
「なんだか依乃さんって、心配じゃない?」
 高野の表情は言葉通りだったが、その後に続いたのはギリギリ悪口に引っかからない、しかし悪意だけは明確な話の羅列だった。「あんな風に男子の注目を集めるのは良くないよ」「女の子同士だからわかるけど…」「女子ウケ悪いよ、実際」「もっと大人しくしておけばいいのに。目立ちたがり屋なんだから」
「……ねぇ、一ノ瀬君もそう思うでしょ?」
「思わない」
 一ノ瀬の返事は明瞭だった。一呼吸も挟まない。
「その人がどう生きるかは、その人が決めることだ。失敗も破滅も。僕はそれに口出ししない。無意味だから。勝手に生きて、勝手に死ねばいい」
高野は一瞬絶句して、それからゆっくりと頬を膨らませた。
「……一ノ瀬君って、意外と冷たいんだね」
「うん」
 会話が途切れた。
 高野が慌てて言葉をつなぐ
「一ノ瀬君って、子供の頃、どんな子だった?」
「背が小さかった。これくらい。声も今より少し高かった」
「……それって、どんな子にも当てはまると思うけど」
「ユウー!」

 ざっぱーん!!!!!

 と、プールサイドから白い影が飛び出した。
 水着姿の愛莉がはしゃぐイルカみたいに飛び上がり、目の前にいる一ノ瀬に元気よく手を振る。高野はギョッとして、一ノ瀬にしがみつく。
「ユウ、今日は見学なの?」
 一ノ瀬はわずかに微笑み
「うん」
「びょ、病気とか……⁉︎」
「違うよ」
 心配そうな愛莉の顔に
「水泳の単位は五回休んでも取れるから」
「え!? それで休んでるの!? もったいないよ!」
「愛莉にとってはそうだろうね」
 一ノ瀬の微笑みを見ていた高野は徐々にむっと口を曲げていき
「ねぇ、今私が話してるんだけど」
 愛莉は立ち泳ぎしながらキョトンとする。まさに水面に顔を出したマナティーだ。
「……そうなんだー!」
 考えたけど、よくわかんなかったー! と変わらない叫びだった。
 愛莉は高野の嫌味など瞬き一つでぶっ飛ばしそうな笑顔で
「今日私、2000メートル泳ぐルールだったんだ! 私も休んでる暇なかったよ! じやーねー!」
 ざぶん、と水面に消えていった。後には彼女の白い肌とライトグリーンの髪の"魚影"だけが残った。
「……あの髪、なんで校則違反で取り締まられないのかしら」
 さっさと取り締まられろ、と言外に言ってるも同然の声音だった。返事もせずに一ノ瀬は魚影を眺めていた。
その白い顔に、影がかかる。
「やっぱり、吸血鬼だから陽の光には弱いのかしら?」
 その顔に降りかかったのは、依乃の凜とした声だった。彼女は結い上げた髪の先からポタポタと雫を垂らしながら、ゆったりと一ノ瀬の逆サイドに腰掛ける。紺の水着が体の線に沿って水でキラキラと輝いていた。
 一ノ瀬は返事をせず、する気もないのに高野が先手を打つように冷たい口調で言った。
「依乃さん、授業中でしょ? 泳がなくていいの?」
「一ノ瀬君、メッセのID」
 依乃の肌は陽光の下でもきらめくほど白かった。顎から垂れた雫が喉元へと滑り落ちる。
「614321223652」
 一ノ瀬はそれを見もしなかった。彼の口から滑り落ちた12桁もの数字を、高野は異様そうな顔で呆然と見つめる。
「……一ノ瀬くん、高野さんっていい子だから、ちゃんと今晩からメッセしてあげてね」
 依乃は夏の日差しよりもとろけそうな笑顔を高野に向けた。
「わかったよ」
「……あ、ありがとう。依乃ちゃん」
「依乃『ちゃん』? いいよ、依乃『さん』で。私、呼び方なんか気にしないから、前みたいに呼んで。その方が気が楽。そうよね、一ノ瀬くん」
「そうだね」
 二人の会話を見た高野は一拍だけ硬直し、まじまじと二人の顔を見比べた。それから黙ってその場を去っていった。敗北者の背中だった。それ以上口を開けば致命的な反撃を喰らうという女子的直感が、彼女の肩を落とさせていた。
「いい感じよ、一ノ瀬くん」
 依乃は長い睫毛を陽光にキラキラさせながら笑った。決して目を合わせずに。
「そうだね」
 1ミリもそう思ってなさそうな顔で一ノ瀬は返事する。
「あなたはなんだって、どんなことだって……私の言う事を聞く。ペットみたいに、奴隷みたいに……私の言いなり」
依乃はクラスの誰にも見せたことがないような笑顔でクスクスと笑った。
「動画をYourstreameにあげたのはなぜ?」
ひとしきり笑いを聴き終えた一ノ瀬がつぶやいた。
「あら、気に入らなかった? でも文句は受けつけないわよ、だってあなたの顔は映ってないし、それに…」
 一ノ瀬は最後まで聴き終えず、立ち上がった。
見上げた依乃の顔に陰が落ち、冷たい二つの相貌に見下ろされる。
 あの夜、垣間見たときのように、彼の瞳は真っ赤に煌めいているように見えた。
「いいや。気に入らなくなんかないよ」
 その声音に、依乃の口元は笑ったまま動かず、ただ、肌は震えた。
 太ももが震えて、水着から滴った雫が股下へ滑り込んだ。
「……それじゃ、問題なし、ね」
「そう言ったよ」
 依乃はすん、と鼻を尖らせて笑みをかき消すと、遠くを見つめて言った。
「命令したいことが山ほどあるの。更衣室のロッカーに収まりきらないくらいよ」
 彼女の頬は、紫かがるほど紅潮している。
「日記に収まりきらないほど、じゃなくて?」
「……命令よ。次、日記について口を出したら、この世で一番酷い方法で自死なさい」
 一ノ瀬は微笑みを浮かべたまま、ただうなずく。

そこからは依乃は、もうやりたい放題だった。
まず「一ノ瀬が修学旅行の積立金を持ってきた」とクラス中が大騒ぎになった。唖然とする担任岡田を前にして、依乃は『一ノ瀬 優』と書かれた封筒を差し出してニッコリ笑うのだ
「『クラスのみんなで行くことに意味がある』……そうよね、一ノ瀬くん?」
「依乃さんが相談に乗ってくれて気持ちが変わりました」
スーパーコンピュータが弾き出したような平坦な声と一ノ瀬の微笑みを、みんなはポカンと眺めていた。岡田は口の端についた明太おにぎりのかけらをパクパクさせながら
「……いやぁ、すごいなぁ。いや一年の頃の先生にも聞いてたんだけどな? 依乃は本当に頼りになるなぁって」
 依乃は爽やかな笑みを浮かべ、言った。

 私は完璧なの。
 今更それに気づいた? 一般人さん。

「……いいえ、そんなことありません。先生の言葉を伝えただけですから」
胸中とは違うことを依乃は吐き出した。みんなの目が、背中に向けられる眼という眼が、羨望に変わるのがわかった。

「……なんで王子がここにいるわけ?」
お昼休み、依乃のランチグループには弁当も用意せずにただ座る一ノ瀬の姿があった。霧島は眉間にシワを寄せているし柚子は怯えきっている。
「一ノ瀬くん、なぜだったかしら」
「僕が依乃さんたちと食べたいなと思ったから」
「いや思ったからって、あんた弁当持ってないじゃん……」
「まぁいいんじゃない? 彼がそうさせてほしいってお願いしてるんだから、心良く受け入れてあげましょ」
「こ、こころよく……」
柚子は肩をすくめながらおずおずとつぶやき、一ノ瀬はそれに無機質な笑みをむけた。ギョッとした柚子はの手からスプーンが滑り落ち、甲高い音を立てる。
「……はい、柚子ちゃん」
そのスプーンを拾い上げたのは高野だった。目の下にクマを作り、和風美人風だった髪は般若のように乱れていた。
「た、高野さん、あの……大丈夫?」
「一ノ瀬くん、メッセなんだけど」
高野は電池切れになった機械仕掛けのぬいぐるみのようにぎこちなく笑みを浮かべて言った。
「『うん』とか『そうだね』とか、何を言っても3パターンくらいしか返信がなかったんだけど、あれってもしかしてBOT(自動返信ソフト)?」
「うん」
一切悪びれた様子はなかった。
「…………どうしてそんなことしたの? 私は一生懸命、二時間も話しかけてたのに、それってどうなの?」
……やば、一生で一回見られるかどうかって修羅場じゃん、と霧野が困惑と野次馬根性を足して割らずにそのままにしておいたような顔をして呟いた。柚子は返事もできずに二人の顔を見比べるとことしかできない。
一ノ瀬は微笑んで、言った。
「僕は依乃さんに言われた通り、ちゃんと返事『は』したけーー」
「一ノ瀬くんはシャイなのよ」
依乃はお弁当をつつきながら、澄まし顔。
「高野さんは大切な『お友達』なんだから、ちゃんと返事しなきゃダメじゃない」
「そうなんだ」
「今日からちゃんと返事するといいと思うわ」
「ちゃんとって?」
「『うん』『そうだね』『そうなんだ』以外の言葉よ」
「わかった。だいたい六文字以上ならよさそうだね」
間違いなくコイツはぴったり六文字で返す、と霧島と柚子は思ったが口には出さなかった。なるべく高野の方を見ないようにして。
依乃は最終的にこのように話を締めくくった。
「あなたってとってもシャイだわ。高野さんには見合わないんじゃないかしら」
その言葉を高野は目を剥いて、霧野は唖然として、柚子は身をすくめて眺めていた。
「どうしたの? さ、食べましょ。美味しいランチの時間なんだから。よかったら高野さんもご一緒する?」
わずかに顎をあげてお弁当をつつき始めた依乃に、柚子はおずおずと付き従う。霧島はパックジュースをずるずる鳴らす。
高野は唇の端をゆっくりと噛み締めてから、何も言わずに足音高らかに去っていった。
彼女の背中を見送った霧野は、ストローを咥えたまま高野が消えたドアと依乃を見比べて
「……王子さぁ、最近の都市伝説で『人類を罰しに来た天使』ってのがあるんだけど……アレってマジらしいんだよね。あんたなにか知ってる?」
一ノ瀬はマネキンのような笑顔で応えた。
「知らない」


そこから二週間、クラスは一ノ瀬の『奇行』でもちきりなった。

「授業中に手を上げて発言した」「水泳の授業に出て、しかも泳いでいた」「昼休みに依乃さんと談笑していた」「お昼ご飯を持ってきて、しかもお弁当を食べていた」「今日は10回以上口をきいた」「昼休みに立ち上がってトイレに行った」

……一つ一つを見ればごくごく普通の事ばかりなのだが、これらの頭に「一ノ瀬が」をつけるととんでもない事態として教室中に静かな衝撃が走る。
それまでは窓際に飾ってある絵画みたいだったやつが動き回って口をきくようになったのだ。一ノ瀬が何かする度に誰もが唖然とし、その度に依乃の完璧さを意識せざるを得なかった。
一ノ瀬がおかしく……いや、真っ当に学生をやり始めたのは、依乃が彼を手なづけたからに他ならない。一ノ瀬を中学から知る生徒はこれを奇跡か天変地異の前触れだと吹聴したし、そうでない生徒も「これをSNSにあげたらバズるんじゃないか」と錯覚して先生の質問にハキハキと答える一ノ瀬に一度はフラッシュを焚いたりしていた。
そして誰もが依乃に一目置くようになった。
他のクラスにも、果ては学年を超えて依乃は注目の的となった。元々雑誌に載ったことで有名ではあったが、それとは別の次元へ。超然的な人として嫉妬は消えて羨望だけが集まった。

そして依乃は完璧な存在となった

せせこましい学校の中を手懐けたのだ

そうしたら、そう、次はーー


翌日、天気は嫌味ったらしい曇天で、さらに嫌味ったらしいことに一ノ瀬と依乃は校門から1.2キロの十字路でばったりと出くわした。
「おはよう、一ノ瀬くん」
「おはよう」
二人はこっそり宇宙人を捕まえようとするエージェントのように目線も合わせず十字路を曲がった。
「私たち、ここから通学路被ってたのね」
「うん」
「朝から最悪の気分だわ。あなたなんかと登校するなんて」
「そうなんだ」
「しかも今日は曇り? 最悪も最悪ね」
「僕にはわからない」
「……あーダメ、どんよりしてると気分が良くないわ。一ノ瀬君」
ちょいちょい
と依乃はしなやかな指を曲げてみせた。
「なに」
「なにじゃないでしょ」
立ち止まって、胸を張りあげる。これについては一ノ瀬は間違いないと思っているが、依乃は自分を完璧でなんでもわかっていると思い込んでいる一方で自分の胸のデカさには全く気づいていない。シャツのボタンが弾け飛びそうになっているが、気にした風もなく彼女は言った。
「天気を変えて」
一ノ瀬はゆっくりと立ち止まり、そして微笑んだまま噛みしめるように尋ねた。
「どうやって」
「どうやってもよ。動画、警察に持ち込むわよ」
「わかった」
一ノ瀬は返事に一呼吸も置かなかった。まるで相手がなにを言うのかを最初から知っているかのように。静かに天を見上げ、厚い雲に開いたわずかな光へと閉じた目を向けるーー
「無理だった」
しかし彼は神ではない。人殺しに施しを与える神もいない。
「……まぁ、いいわ。君って使えない男ね。」
「うん」
「じゃあ一ノ瀬くん、今日の計画(プラン)はこうよ」
「毎日計画なんてたててたの?」
「うるさい黙れ口挟まないで死んで。いい? 今日の2限はクラス委員を決める日よ。委員長は当然あたし。高野さんはたぶんゴミ掃除係とかになるんじゃないかしら? それで、委員長が女子なら副委員長は男子にしようって話になるはずよ。バカな男子は大騒ぎするでしょうね、一斉に副委員長に立候補よ。私はそれを当然のように見回しながら少し恥ずかしそうに身悶えするわ。そしたら教室中の男子は熱狂してさらに全員手を挙げる異常事態になる。困った岡田先生に私がこう言うわ『みんな目的を見失ってます。これから責任をもって副委員長をやってくれる人じゃないと私困ります。だから、私が副委員長を指名していいですか?』」


「おぉ、あーまぁ、依乃がそう言うならなぁ」
教室中の男子が熱心に手を振り回し、女子が白けを通り越した顔でそれを眺めているのを見つめる担任岡田は、とりあえずその場しのぎな返事をして決定権を依乃に明け渡した。

高野は清掃委員になっていた。

二時限目、学活の時間は恐ろしいことに全て依乃の計画(プラン)通りに進行していた。
熱狂して必死に自分アッピする男子が依乃に詰め寄り、中には白けた女子もいて、清掃委員の高野は全てを諦めた表情で目を閉じていて、困惑する岡田が呆然とそれを見守り、全ての中心には世界を見透かしたような顔で教卓に両手を開く依乃が立つーー
まさに教室はイエス・キリストを描いた『最期の晩餐』と化していた。
最期の晩餐を知らない? だったら画像検索でもすればいい。そんなことをしなくても、まさにこの教室を見ればだいたいどんな絵かはわかるわけだが。
「みんな、ちょっと……一旦落ち着こ」
『恥ずかしそうに身悶えしてから』依乃がゆっくりとそう言った。大騒ぎする周囲を見渡す。喧騒は次第に収まり、みんなの目が、依乃の『次の言葉』を待ち始める。
依乃は爽やかな笑みを浮かべた。
唖然として事の成り行きを見送っていた岡田にさっと向き直り、その表情は真面目そのものに変幻。
「……『みんな目的を見失ってます』」
ここがアカデミー賞会場なら、オスカー像が自ら意思を持って依乃の胸に飛び込んだだろう。彼女の声音はその場の誰をも釘付けにした。
「もう一度確認させてください。『これから責任をもって副委員長をやってくれる人じゃないと私困ります。だから……私が副委員長を指名していいですか?』」
「おお? あぁ、まぁだから……よし! 副委員長は依乃に決めてもらうぞ、それでいいな! ……おい男子ども席につけ! さっさと戻れってほら! ……高野、お前なんでそんなとこ立ってんだ? 席戻れホレ」
教室はいつもの平穏を取り戻した。多少の緊張はあれ、小さなざわめきを残しつつ自分席に着き、みんな素直に待つ。
誰が選ばれるかを。
彼女は少しだけ考えるふりをしていたが、やっぱりと頷いて、依乃はまっすぐに指を伸ばした。最初から、決めていた人物へと。
『最期の晩餐』騒動に描かれなかった、人物。大騒ぎをよそにただ窓際の席で空を見上げていた生徒に、指先はピタリと合った。
「一ノ瀬くん」
一ノ瀬は変わらぬ微笑みを浮かべたまま、依乃に向き直った。
「副委員長、やってくれるわよね?」
「……ぅえ? なんで王子が副委員長?」
霧島の当然の疑問に、依乃はたった今考えたような口ぶりで言った。
「一ノ瀬くん、最近変わってきたと思わない? 少しずつだけど、クラスに馴染もうとしてくれてる。だからここでチャンスをあげたいの。きっと彼は生まれ変わってくれるわ。このクラスの大事な一員としーー」

派手に椅子が転がる音が響き渡った。

その瞬間、催眠から解けたようにクラスの耳目は依乃から離れた。
突如立ち上がり、机に手をついてじっと『なにか』を見つめている一ノ瀬に。
クラスの誰にも、それこそ唖然としている依乃にもわからなかったが、一ノ瀬は腕時計を見ていた。スマートウォッチだ。液晶ディスプレイに表示されたツイストのつぶやきを、じっとーー
「早退します」
バックパックを背負って一ノ瀬は変わらぬ平坦な声で宣言した。依乃は慌てて
「ちょ、待ちなさ…計画(プラン)!」
を放棄するのは赦さないわよ! と続ける前に一ノ瀬はドアの向こうに消えた。まるで突風のように、まるで霧のように。最初からいなかったかのように彼は姿を消した。
教室に漂う静寂の中、依乃は両手を宙に彷徨わせたり、その唇をアワアワさせてから
「……どうしたのかしら一ノ瀬くん! 私心配だから付き添います! なぜってすごく心配だから、すっごくすっごく心配で、私って完璧だから優しいんです!」
いらんことを物凄い早口で言って、岡田がンアア? と大口開けるのを尻目に依乃は教室を急いで飛び出した。
「……堕天使と吸血鬼……あ、なんか都市伝説できそう」
霧島が頬杖ついてボヤき、柚子があわあわと滝のように汗を流す。


校門をくぐった瞬間から一ノ瀬は突然駆け出した。
速い。
普段からは考えられない運動能力で一ノ瀬の背中は急速に小さくなっていく。道も信号も車道もへったくれもない。ガードレールは片手をついて一瞬で飛びこし、垣根は片足をかけたと思った瞬間アニメのように縦回転して向こう側へと姿を消す。依乃が必死で垣根によじ登った頃には信号無視して歩道に飛び出し、突っ込んできた車のボンネットを滑ってクラクションを置いてけぼりにして走り去るところだった。
依乃の脳裏にマップアプリが浮かんだ。
アプリのマップに引かれた一直線の青い線。経路も道路事情も知ったことかと引かれた線の上を、彼は青い点(ダット)になって猛然と突き進んでいるのだ。彼にとってはマップも経路も意味がない。もし道の途中に川があったら彼は迷わず泳いで渡るだろう。
この世界のルールに則った道順など、今の彼には必要ないのだ。
行ってしまう。
あの背中を、見失ってしまう。
「……あたしをなめないでよねッ!」
依乃は毒をひと吐き、家主にどやされて垣根の向こうに転がり落ちていく。

郊外の建て売り住宅のドアに手をかけた一ノ瀬はようやくそこで足を止めた。まるでセンサーに反応した機械が急ブレーキをかけたようにピタリと止まり、即座にキーリングを振り回して取り出し、そのうちの一本を鍵穴に差し込む。
「待ちなさい」
その手に真っ白な手が覆いかぶさった。見ると、依乃が涼しい顔をして
「あたしの命令を無視して、その上置いていって説明もなしとは……いい度胸だわ」
「よく追いつけたね」
「あたしをなめないで。あなたに走って追いつくなんて簡単よ」
すん、と鼻を上向かせた彼女の背後で、ちょうど『誰か』を降ろしたタクシーが走り去っていった。
「『走って』追いついたんだ?」
「ええ、しかも息も切らさずにね。あなた程度の足、追いつくのはわけないわ。ダンスにバレエもしてるし体育成績はA +なの、しかもこう見えてあたしは射撃部よ」
「ごめん、最後だけ意味がわからなかった」
「気に入らなかったらいつでもあなたを撃ち殺せるってことよ! なに慌ててたのか説明しなさい、さもなければあなたを気に入らないフォルダに入れるわよ」
なるほど、と一ノ瀬は感心しているようだった。
「気に入らなければ、いつでも殺せる」
まるで子供のように純真な声音だった。
「だったら、僕らは同じだね」
一ノ瀬は扉を開けた。

開いた扉の先は、異様の一言だった。

見た目はただの建売住宅。
だがその中は、廊下中にゴミ袋が散乱し、リビングでは窓という窓に目張りがされ、ゴミ袋が床を覆って壁へと山を作り、叩き割られたテレビが転がり、埃を被った皿には乾燥して毒毒しい色を放つ料理らしき残骸が載っていて、枯れた水槽で乾いて死んだ魚、ダイニングカウンターで仕切られていたはずのリビングとキッチンはありとあらゆる「生活の残骸」で埋め尽くされ、もはやどっちがキッチンでリビングなのか区別がつかない。

ただ、ほんの僅かに見える床が一筋、奥の通路へと繋がっていた。

「ちょっと嘘でしょ、ここに住んでるの、あなた……」
「うん。寝るのは地下だけど」
僅かなゴミの間を一ノ瀬はスタスタと歩いていく。彼にとってこれはいつもの光景で、いつもの帰宅となんら変わりないのだろう。
唾を一つ飲み込んで踏み出した依乃はいきなりぐにゅ、と何かを踏んだ。それは食い物の残骸らしき形容不明なペーストで、依乃はお気に入りだったこの紺のストッキングを捨てることを青い顔で決意した。
「……さすが吸血鬼。光の当たらない柩の中で眠るわけ? 」
強がって吐いた言葉にも力がない。
聞こえなかったのか、一ノ瀬は返事もしなかった。
もう一度、その背中に言ってやろうかと思ったが、『うん』と答えられたら怖い気がする(気がするだけよ)のでやめておいた。
「……いくらなんでも、もうっ、ひどい臭い。掃除もできないの、あなた」
「あぁ、また今度するつもりだよ」
『今度』?
その『今度』、いつくるんだろう。
いつまでもやってこない『今度』の結果がこの惨状じゃないの、と依乃は眉間にしわを寄せて鼻をつまんだ。
口にはハンカチを当てたけど、それでも腐臭は忍び込んできそうで、嫌。あとこのハンカチ高いやつ。

ゴミの壁で覆われた通路の先は階段へと繋がっていた。驚くことに、階段の中ほどにつくと突然ゴミはなくなった。ワックスのツヤすら見える。
ほっとした依乃の眼前に、『何か』が差し出された。
「これ」
いや、それが『何か』はわかっていた。映画やドラマでもよく見るし、好きなアーティストのMVでも目にしたことがある。
でも、現実で見るのは初めてだった。

「ハンカチなんかじゃ、死んじゃうよ」

ガスマスクだった。

「つけて」

こいつは、なにを言ってるのか。
こいつは、なんなのか。

地下への入り口は大型のビニールカーテンで仕切られていて、くぐった感触は恐ろしく重かった。
一ノ瀬は迷うことなく、二つ並んだビニールハウスの間をくぐっていく。コンクリートむき出しの無機質な地下室はいくつも並んだ照明で煌々と照らされ、モデルが立つ写真スタジオのようだった。
「……ねぇ、あの、ちょっと、このビニールハウスの中に見える緑の葉っぱみたいなのってーー」
「アツミゲシ、ハカマオ、ボードレール」

ガスマスクごしでも、依乃の困惑顔はわかったらしい。変わり映えしない微笑みを向けて、一ノ瀬は言った。

「ジオセパム、プロロエチロ酸、サンカルロ塩酸、デクロノムを精製する素になる材料だよ」

それって、麻薬?

と依乃は聞かなかった。声に出した瞬間震えるのはわかっていたし、そんなことは聞かなくてもわかることだ。
ガスマスクは地下二階を降りるのにも役立った。どうやって搬入したのかわからない製造機器が無造作に立ち並ぶ。鉄粉にまみれのそこは、思うに武器製造工場だったのだと思う。
実際、映画やドラマで見慣れた形状の『アレ』が輪切りにされているのをいくつか見かけた。もちろん、黄金色の弾丸も。
もう声をかけるのも諦めたとき、ローファーのかかとが硬いものを踏みつけた。
足をあげると、銀の弾丸が転がっていた。
依乃の細いのどが、ごくりと嚥下した。
一ノ瀬の背はさらに奥へと遠ざかり、奥にポツリとあった螺旋階段へと消えていく。

一階はゴミ溜め、地下に降りたら麻薬製造場、さらに降りたら武器工場。
そしてさらに下る階段。

ローファーのかかとが捻れた金属片を強く踏みつける。
お次はなに?
もういい。もうなんでもいい。かかってくれば?
学生服のポケットに手を突っ込んで、螺旋階段を降りる一ノ瀬の背に、視線を突き刺す。

今さらこいつが何を『ご披露』してきてももう怖くはない。確かにここはどうかしている。どうかしてるやつが作った、どうかしてる狂気の要塞だ。だけどこいつがどうかしてるのなんて、最初からわかってた。だいたい、こいつとの出会いはもっともっと最悪の現場だったんだから。こいつが、ちょうど

ーーちょうど、人を殺していた時に、出会った

『気に入らなければ、いつでも殺せる』

この、家とも言えない"要塞"の扉に手をかけた時、こいつはそう言った。

『だったら僕らは、一緒だね』
そう、言ったのだ。

「ついたよ」

一ノ瀬の言葉は生暖かかった。
このコンクリート詰の冷たい部屋の空気よりは。
最下層。螺旋階段の下にあったのは、水槽から放たれた青白い光にぼんやりと浮かぶ、無機質な『牢獄』だった。
生活感が全くない。ちっぽけな空間。
でも、今まで見たどの部屋よりも、彼が暮らしている気配がした。
地上に飛び出た建て売り住宅は、一人で暮らすには手に余るほど大きかったが、この部屋はたった一人で生きていくのにちょうど収まる。
まるで『生きたまま死んだ人間のため部屋』だ。
「マスク、とって」
一ノ瀬は自分のマスクを剥ぐと、そう言って依乃に手をさし出す。じっとしていると、彼は黙って依乃の後頭部に手を回し、マスクを剥ぎ取った。彼の胸元からは、鋭い柑橘類の匂いがした。
「……ご家族の方は?」
「いないよ」
一ノ瀬は2つのガスマスクを壁にかける。そこには、あの夜見た鬼面も飾られていた。漆塗りの艶々した、和彫の面。食いしばったその口は、剣歯だけが異様に突き出ている。まるで吸血鬼のように。
「いつ帰ってくるの」
「いつまでも帰ってこない。死んだから」
一ノ瀬は部屋の片隅のモニターに向かった。水槽の青に、モニターのブルーライトがフィルターのように重なり、おどる魚の煌めきが暗闇に静かにひるがえる。
「だったなあなたは、誰と暮らしてるの」
「一人。たぶんこっちが聞きたいことだと思うから言うけど、保護者は母方の祖母だよ」
「お婆さまはどこ」
「別の街で暮らしてる。……この質問に何か意味ある?」
「あるでしょ! あなたは正常な暮らしをしてない、人を殺して平然とこんなテロリストみたいな家でーー」
「『のうのうと暮らしてる』」
一ノ瀬はキーボードだけで真っ黒な背景に白い文字を叩き込んでいく。コマンドライン(CUI)が生き物のように蠢き、プログラムを次々と操っていく。依乃の目にはなにが起きてるか一つも理解できない。
何一つ、理解できない。
「その通り。依乃さんが通報しなかったおかげで僕はのうのうと暮らしてる」
青白く照らされる彼の横顔を見て、依乃は息をつまらせた。
現実。
現実なの、これ?
彼の口から吐き出された言葉は見えない壁となって依乃に猛然と迫り、直撃し、そして背後へとかき消えていった。一ノ瀬の声はいつもと同じ。でも救いも逃げ場もない言葉を選んでぶつけている。それがわかった。
よろめきそうになる両足に力を込める。
こいつは私を試してる。
「……そうよ、全部、私のおかげ」
声は震えなかったと思う。
キーボードを叩いていた一ノ瀬の指が静止した。
つかつかと歩み寄り、ディスプレイを覗き込む。
「命令よ。今何をしているのか、これから何をしでかそうとしてるのか、説明しなさい」
「……いいけど」
一ノ瀬の指が、エンターキーを叩く。
一面の黒に呪詛のように白文字が刻まれていたディスプレイに、新たなウィンドウが現れた。ローディングの白い円が回り、そして、ストリーミング動画が始まった。
依乃の白磁のような眉間に、深いシワが刻まれる。
「……なんなの、これ」

「依乃、結局帰ってこないじゃん」
お昼時の教室、いつものざわめき。
霧島はズルズルとパックジュースをすすりながらボヤいた。
いつも三つ連なっている机は今日は二つ。向かいに座った柚子はただただ心配そうにスマホをいじっている。
「どうしたんだろう、返信もこないし……」
「王子とイチャイチャしてるのかもよ?」
「依乃ちゃんは、そんな子じゃないよ……」
はあああ、とでっかく霧島はため息をついた。そんなのわかりきったことじゃん。
「依乃はいっつも『完璧だー』って顔してんじゃん。そんな奴が簡単に体を触らせたりなんかするはずない。札束を積まれても絶対に無理。なんでって完璧ってことは最高ってことで、最高の価値あるものにはお金なんかいくら詰んでも意味がない。だって最高なんだもの」
「じゃあ」
「冗談に決まってんじゃん。……修羅場だねぇ」
霧島は教室の片隅で黙々と購買パンを口に含む高野に目をやった。クラスのヒエラルキーから転がり落ちたやつに女子は容赦ない。一人で食べる寂しい姿にも、誰も目をくれてやらない。楽しそうな喧騒だけが教室に溢れていて、高野はまるで、不用品のゴミだ。実際、このあと教室を掃除するのは清掃委員の高野のわけだし。
「……ユーキューブでも見よ。なんか面白い動画ないかな〜っと」
「霧島ちゃん、こんな時にそんな」
「こんな時だからでしょ。返信ないならほっといてってことじゃん。私たちにできるのは今を楽しむこと」
「そうかもしれないけど……」
「ユズ、この動画しってる? 『なんでも粉砕チャンネル!』」
動画を開くと、柚子の返事も待たずにスマホを見せつける。
「このチャンネル主バカでさ、超面白いの。毎回テーマに沿って二つのものを並べるんだよね。リンゴとミカンとか、スマホとタブレットとか。で、どっちを粉砕するか視聴者に投票させるわけ」
嬉々として語る霧島の前で、眉を八の字に垂らしていた柚子がピタリと静止した。
「どっちかを『粉砕』する……?」
「そうそう! んで、毎回チャンネル主が色々小賢しいことすんのよ。例えばスマホはすっごい高い最新のやつだけどタブレットは中華製の安物とか。コメント欄でなんとかして安物のタブレットに投票させようとするんだけど、結局視聴者にバレてスマホに大量投票が入んの! んで、絶叫しながら高級スマホをミキサーにかけんの。ついでに『こんな安物いらねー!』とか言って中華タブレットも泣きながらミキサーにかけたりしてさ……ユズ、どうしたの?」
柚子は死体でも眺めているようにスマホに釘付けになっていた。おぞましいものを目にし、彼女は目を細めている。
「……あんた、感受性高すぎんじゃない? びびんないでよ、パソコンとかカメラが壊れるくらいで」
そう言って霧島はスマホを手元に戻した。

違和感

動画の雰囲気はいつもと違った。
いつも明るい部屋の中で馬鹿げたトークを繰り広げるチャンネル主の姿はなく、画面の中は薄暗く、ただオレンジの光が時を刻んでいる。そして馬鹿げたフォントで描かれた『今回の粉砕物』の、その後ろーー


「なに、こいつ……イカれてる」
どっちを粉砕するか選んでね!
とダサいフリーフォントで書かれた後ろには、ずた袋を被された人影が二人、もがき苦しんでいた。
さらにその背後には、豚を丸ごとミンチにできるような巨大なミキサー。
「スマイリーマーク」
一ノ瀬が指を指す。
動画の端に表示されたチャンネル主のアイコン。それは真っ赤なスマイリーマークだった。
「一時間前、なんでも粉砕チャンネルの投稿主は『犬か猫か』『どっちを粉砕するか選んでね!』って動画をあげてた。誰もが引き止める中、本気にしなかった誰かの投票も同時に始まった。最終的に彼は犬をミンチにした。後ろの粉砕機に投げ込んでね。そして、チャンネルアイコンを真っ赤なスマイリーマークに変えたんだ」
一ノ瀬が指を動かした先には、馬鹿げた大きさの鉛筆削りのような機械が薄暗闇に鈍く輝いていた。ほんの少し指先が動き、螺旋状の部分を指す。
機械からは、赤黒い液体が滴っていた。
「ちょ、ちょっと待って……どういうこと、整理できない」
「落ち着いて。簡単なことだから」
「だったらあなたが説明しなさいよ!!」
依乃の叫びに、一ノ瀬はピクリともしなかった。ただ、ほほえんでいた。そして、スマイリーマークのアイコンを指差しながら、言葉を吐き連ねる。
「彼はバックライトになった。画面に表示された時間……残り二時間四十五分で映像に映ってる男女二人のうちどちらかがミキサーにかけられる」
「なんでそんなこと……どうかしてる、人殺しじゃない。これじゃ、公開処刑だわ⁉︎」
「理解できたみたいだから、説明を終えるね」
「ちょっと待ちなさいよ、こいつを野放しにするつもり⁉︎ こいつもバックライトだって言うなら、なんとかしなさいよ! あんたはこういう奴らを皆殺しにするんでしょ? 私に豪語してみせたわよね?」
「もうやってる」
一ノ瀬はそれだけ言うと、依乃の足元に潜り込んだ。驚いて飛び退くと、床にあった取手を引っ張り、収納を開けた。
そこには大量の携帯電話がぎっしり敷き詰められていた。
依乃は息を詰まらせる。
一ノ瀬は無造作に一台を手にすると、耳に押し当てた。数分の間、彼はずっと微笑んだまま、コールし続けていた。
「……Hi,Evan.it's me」
異様に長い沈黙の末、一ノ瀬は突如別人のように滑らかに口をきき始めた。それも流暢に。発音が適当なのは依乃にすらわかったが、電話相手にそれは関係ないようだた。
「you know who i am.if you are in the other side or even if you were trembling in the toilet.…… ya.i don't like talk about football and everything else.i just ask you.and you just answer me.We must make deal or Fucking rain will come down on your heads.you can understand what i tallking.……sure.it's so easy.we like simply code」
会話を続けながら、彼はキーボードを凄まじい速さで叩き続けていた。
通話を終えると、彼は静々と立ち上がった。水槽に向かい、観賞魚の間にスマホを捨てた。
「…………」
依乃の瞳の中で、水槽にスマホが沈んでいく。
水底には、無数のスマホが沈んでいた。
……なんなの、これ。
依乃は震えた声で尋ねそうになったのをごくりと飲み込んだ。平静そうな声で
「……それで? 今、誰に電話してたの。まさかとはおもうけど、『ハッカーのお友達』に電話してたとか言わないわよね?」
「ハッカーの友達?」
一ノ瀬は少し笑う
「それって、ちょっとだけ面白い。Evanに言ったら喜ぶんじやないかな」
彼の口元の半分はいつも通りの微笑み。そしてあとの半分は、真っ直ぐな平行。
左右非対称の、奇妙な笑みだった
「Evanはハッカーとは違う。自分で手を下すタイプじゃない」
そこから一ノ瀬は、おそらく彼以外にはまったくわからないであろう話を始めた。

壊れた蛇口のように。とめどなく。

おそらく『ハッキングについて』の話を、瞬きもせずに、つまりもせずに、向けられた依乃の奇異の視線も構わず、ただ平坦な声で語っていく。

「彼はソーシャルエンジニアとか、ライブラリアンとか呼ばれる人だよ。Torでゴミ同然の値段で買った情報をストックしたり、管理してるワームからの情報をまとめて整理してるんだ。クレジットカード番号とその暗証番号、SNSアカウントのログインIDとかね。その情報を紐づけして売ってるのがEvanだよ。
例えばクラックしたSNSアカウントからメールアドレスを抜き取って、同じアドレスで登録されている他のサービスを調べる。運良くECサービスにログインできたら、そこから購入履歴を調べて、同じアドレスにメールを送る「10月7日にご購入のこちらの商品のお支払いが完了しませんでした。つきましてはこちらのURLからカード情報を再度入力して下さい」。購入日や具体的な商品名が書かれてると不意を突かれた人はスパムメールを疑うのを一瞬忘れて『本物だ』と錯覚してしまう。指定されたURLにカード番号と暗証番号を入力したら、それで終わり。Evanに情報を抜かれて、確実性の高いネタとして一件5万円程度で売り払われる。買った人がどう使うかは知ったことじゃない。Evanは儲けた金で薬を買ってハイになってまた『クラックショッピング』をつづける。それだけならまだいい。もっと悪いのはメーラーアカウントなんかに入り込まれた時。メールの中身からその人がどんな人かはほぼ完全に推測できる。一件十分程度の調査でも重要な情報は簡単に見抜けるから。持ち主が有名サービスの社員だったりすれば、アカウント情報を抜いた瞬間から社内の機密が全部筒抜けになるんだ。もちろん抜いた情報からさらに情報を抜き取ることもできる」

◾️

『今回は同じアカウント名を大学の仲介名簿から見つけられた。孤立して退学する学生が多いから、お互いを結びつけるために名前や趣味を登録したSNSアカウントをつなぐソーシャルサービスを大学が用意してたみたいだ。バカげたサービスだと僕も思うよ。もちろんセキュリティホールだらけだしね。そこで特に孤立してるアカウントを見つけた。Eje(c)tとかいうカルト小説の話をずっとしてるやつで、他のアカウントからのアクセスは極端に少ない。友達は一人だけ。その『友達』とももうずっとやりとはしてないよね?  喧嘩でもしたのかな? このアカウントのメールアドレスをEvanから買ったECサイトの情報と照らし合わせると同じアドレスのアカウントを見つけた。十二冊も同じ『Eje(c)t』って本を購入してた。SNSアカウントでこの本の題名を調べると延々と一人でEje(c)tについて語ってるアカウントを見つけた。そこにはテラスから撮った写真が貼ってあって、これで住所はある程度特定できた。写真にはGPS情報が添付されたままだったからね。神奈川県春日井市豊山北4丁目。そして窓から見える「サンスーパー」の特徴的なロゴ。このスーパーは3丁目にあり、写真の角度から"君の家も、部屋番号も、何もかもすべてわかったよ"』

もう何年も放置されてきたと思しき、シャッターも閉め切ったガレージ。
粉砕された機械の残骸に満ちたそこで、男は震える手でスマホを握りしめていた。

後ろには、手足を縛られ頭巾を被せられた男と女がもがいている。
『神奈川県春日井市豊山北4丁目22-3に在住の、2年前に退職して以来ずっと家に引きこもって、「Eje(c)t」を十四冊も購入してずっと読みふけりながら、"なんでも粉砕チャンネル"を運営しているザ・ミキサーこと……高田拓郎さん?』
男が立ち上がると、足元に積み上げられていた本が崩れ落ちる。
床のあちこちに、Eje(c)tの題字がばら撒かれる。
「そんなのは、は、はったりだ……」
彼は突然駆け出すとカメラの前に飛び出し、荒い息を繰り返す。カメラの無機質なレンズには、ずた袋にクレヨンで描いた裂けるような笑みが描かれていた。
だけどその双眸は、幼い子供のように泣き出しそうに震えていた。
「俺は、バックライト……俺は、バックライトの"ザ・ミキサー"……ッ!」
"ザ・ミキサー"はオレンジの光を放つ真空管時計を鷲掴みにする。ストリーミングの映像にクレヨンで描いたふざけた調子の笑みが映り、動画にはコメントが濁流のように流れる。
画面に向けて、大口を開けて叫んだ。
「もう手遅れなんだよお前たちはなぁ!!」
残り時間、01:24秒。
「場所が分かったくらいがなんだ⁉︎ そうさ、時間は繰り上げたっていいんだ! 今からこいつらまとめてミキサーにぶち込んでやる!  血飛沫撒き散らして、世界にこの光景を叩きつけてやるよ! "お前らの世界はこうなんだ"ってな‼︎ これはグーーーードアイディィィィィアアアアア!!!! アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!!!!」


『いや、そうでもないよ』


は? と返事をする余裕はなかった。

次の瞬間全てがひっくり返った。

轟音、衝撃、シャッターがブチ破られる音。直後に身体は特急列車にでも突っ込まれたようにメキメキと音を立てて地面を転がる。固い床が胸を穿ち、押しつぶされた息が喉から吹き出る。鼻がへし曲がり血が蛇口を抑えたように流れ出し、鼓膜が引き裂かれて消えない高音が耳孔に響き渡る。薄暗闇は日差しと噴煙にに照らし出され、まるでクラブシーンのよう。淀んだ空気はキャノン砲でも撃ち込まれたように吹き飛ばされ、警報とクラクションの爆轟が破片と共に辺りに撒き散らされる。

衝撃で床に転がったスマホが、冷酷な宣告を告げる。

『もうついたから』

シャッターを突き破ったのは巨体を誇る四輪駆動車(SUV)だった。装甲車両の扉が蹴破られ、土煙の中から人影が現れる。ゆっくりと、車の前に歩み出る。

二本のバールを携えた男が一人、揺らぎ立つ。
口元の仮面は憎しみに牙を剥き。
双眸に微笑みをたたえて。

------------●REC------------

一ノ瀬の胸に取り付けた小型カメラに赤色光が灯った。

"ザ・ミキサー"は転がるように立ち上がり、椅子に縛りつけられた男女に飛びついた。
二人は見えない異常事態にもがき、ザ・ミキサーはその首根っこを掴んで巨大な粉砕機へと引きずっていく。
一ノ瀬はその様を眺めていた。バールを回転させて弄ぶ。二回転。三回転。
直後、カメラでも捉えきれない速さでぶん投げた。
ザ・ミキサーの腕に鋭い先端がめり込み、悲鳴を上げてのけぞった次の瞬間には一ノ瀬は刺さったバールをひっつかんで腕の肉を剥ぎ取るように毟り取った。

吹き出したのは、ライトブルーの血飛沫だった。

それを見ることなく一ノ瀬は身を翻し、バックフィストの要領でザ・ミキサーの後頭部をフルスイング。

カラフルなブルーの血飛沫が宙を染める。

ザ・ミキサーの口からこっぽ、と涎が飛沫のように舞い、その色もマカライトブルー。

ずだ袋の双眸が極彩色にグルグルと色を変え、ずだ袋に描かれた笑顔から真っ赤な舌が吐き出され、ベロベロと宙を舞う。

よたよたと体制を整える"ザ・ミキサー"の姿は一瞬だけブレて、直後に一ノ瀬の肩越しに獣のような前傾姿勢になっている。
その手には、拳銃。
「ふ、ふ、ふ、ふーーッ」
息も荒々しく、極彩色の目をギラつかせる。空間の中で、一ノ瀬の黒い姿だけが静止していた。
「ーー少しはビビったらどうなんだ⁉︎ ああ⁉︎」
ザ・ミキサーは両腕を広げて、ギラついた拳銃を床に撃ち放った。衝撃波が空間に轟き、黄金色の閃光が床に跳ねる。
「こっちは拳銃持ってんだよ‼︎ なんで笑ってんだ、強がってんのか⁉︎ ああ⁉︎」
一ノ瀬は鬼面を持ち上げた。
その眼は少しも、おかしそうじゃなかった。
「君が拳銃を構えて、狙いをつける。そして引き金を引く。その間に、僕は君を15回殴りつけられるから。最後には床に叩きつけることもできる」
ザ・ミキサーはブチギレた。
そして一ノ瀬の言った通りになった。

拳銃が持ち上げられた瞬間、一ノ瀬はその場から高さ1.2m、前方1.4mもの跳躍をしてみせた。彼の視界は縦回転する体に反して一時もザ・ミキサーの驚愕顔から離れることはなく、着地と同時に向けられようとしていた拳銃をバール一閃、跳ね飛ばした。

と思う間もなくザ・ミキサーのアゴを猛烈なフックが襲った。
直後、身体のありとあらゆる急所に次々と拳のラッシュが降り注いだ。その度に世界はカラフルな色が弾けた。腹を殴りつけると真っ赤に染まり、頬にフックが入るとライトイエローに。股間に縦フックが決まると極彩色に煌めいてカーンと鐘を突く音だって鳴り響いた。

朦朧としてよたよたと後退するザ・ミキサーは、その首根っこを万力のような腕に挟まれた。
両足を凄まじい速さで蹴り上げられ、意識が消失した直後、コンクリートの硬い地面に背骨を叩きつけられる。

「あ、が……」

ずだ袋の眼は間抜けにもグルグルととぐろを巻き、頭には星が舞う。

「僕は思うんだ。なにも、みんなにいつも選ばせる必要はないって」

一ノ瀬の声がガレージに響く。彼は転がっていた椅子を丁寧に置き直し、車から引きずってきた女をその上に乗せた。あらかじめ装備していたプラスチック錠で手早く女の細腕を縛り上げると、椅子の背に手をやって、言った。

「今度は君が、選ぶ番」

椅子の上にくくりつられたのは、コンビニ袋を被された、少女だった。

「大学時代、君にはたった一人友人がいたね。なにが原因かは知らないけど、仲違いしてしまった、SNSでやりとりしてた『あの』"お友達"だよ」

ザ・ミキサーの目が見開かれる。
身を起こした彼の目に、椅子の上でもがき苦しむ少女の姿が映る。

一ノ瀬は、全く平坦な声で言った。
「『どっちを粉砕するか、選んでね!』」
鬼面の下、微かに微笑みながら。
「君か、この子か。どちらかを、殺す」
ザ・ミキサーが絶句する前で、一ノ瀬は真空管時計を拾い上げた。
残り時間、00:30秒。
「ーーま、待てよ…待ってくれ!」
「君が選ぶんだよ」
一ノ瀬は時計を両手に抱えたまま、微動だにせず言った。
「僕はどちらでも構わない。両方でも構わない」
「待て、待てって……!」
「たしかチャンネルだと票が集まらなかったら両方ミキサーにかけるんだったね。じゃ、彼女と一緒に死ぬ? 」
「待てって言ってんだろ‼︎」
「待たない」
冷酷な声。その場にいる誰もが、視界すら奪われた者たちですら泣き叫ぶのをやめるほど。
「君はキャンキャン泣き叫ぶ犬をミキサーに放り込む時、『待って』あげたのか?」
絶句。静寂。
一瞬の間だったが、それは恐ろしいほど長い一瞬だった。
忍び寄るように、鬼面の下から呪詛が溢れる。
「僕は間違っているかもしれない」
笑ってない。もう彼は、笑っていない。その場にいる誰もがそれをわかっていた。
「世界が正しいのかもしれない。みんなが言うように、本当は中世の死刑と代わり映えしない見せ物みたいな死刑のニュースを眺めながら、自分は善良だと信じながら生きるべきなのかも。君みたいな人を『傍観する』人間の側に立ち、狂った人間の狂った所業を、炎上する人々の姿を見て笑って『スワイプ』するべきなのかも。ただ君は」
最後の一言だけは、穏やかだった。
「殺す」
彼の掌で、時計がカタカタと踊った。
「さぁ、タイムリミットが近いよ」
残り時間、00:15秒。
微笑みすら消し飛ばした表情で、一ノ瀬は言った。
「思い上がるなよ、君は神さまじゃない。ただの、趣味の悪い男だよ」
一ノ瀬を見つめていたザ・ミキサーの瞳に、一ノ瀬の姿が映る。
その眼はもう、嗤ってはいない。
「僕と、同じ」
ミキサーは愕然とした表情でゆっくりと上体を崩した。
「お、おれ、おれは……」
声がこぼれる。顔をだけを上げ、極彩色の瞳で叫んだ。
「俺は、本気で殺す気はなかった!」
一ノ瀬は答えなかった。
残り時間、00:11秒
「ただみんなに知ってもらいたかったんだ!」
よだれを撒き散らしながら、頭をかきむしりながら
「みんな『選んでる』……選ばれなかった方がどうなるかなんて、考えもせずに!」「平気な顔して選んでるんだ!顔、容姿、学力、趣味はなにしてるとか、金をいくら持ってるとか、そんなどうでもいいもので、俺を選別して! そして捨ててるんだ! 俺はーー」
最後に絶望の淵に身を沈めるように、ザ・ミキサーは体を抱えた。
「ーー俺は、選ばれなかった」
残り時間、00:5秒
「選ばれ、なかったんだ」
こくり、と一ノ瀬はわずかに首を傾けた。
「……それは『彼女』に選ばれなかったってこと? だから彼女との連絡を断ち、SNSも閉ざして一人カルト小説に没頭する道を選んだ?」
はっとしたザ・ミキサーに、一ノ瀬は告げる
「じゃあこの女を殺そうよ。全てはコイツが始まりなんだから」
バールが高々と振り上げられる。
椅子の上で、息もできずにもがく少女の頭上で、切っ先が煌めく。
その瞬間、ザ・ミキサーは叫んだ。
めちゃくちゃに這いつくばって走り出し、転がっていた拳銃に飛びついた。
一ノ瀬に銃口を向ける。
そしてずだ袋の双眸のその真ん中に
バールは叩き込まれた。
「あぁ、確かに君は違う」
投げつけた姿勢のまま、一ノ瀬は笑っていた。男の体がゆっくりと崩れ落ちていく様を見つめる。
「やっぱり、僕とは大違いだね。いい『選択』だ」
一ノ瀬は振り返り、手にしたクリッカーを握り込んだ。
ザ・ミキサーの頭が火花を散らして大爆発を起こした。色とりどりの光が煌めき、ガレージの暗闇も、悶える人影たちも、一ノ瀬すらも飲み込んで、全てが真っ白に染め上がった。
光が収束した時、一流のマジシャンがするように、一ノ瀬は椅子に縛り付けられた少女からコンビニ袋を剥ぎ取った。
「ーーーーぷっっっっは‼︎‼︎」
長い髪を振り乱し、顔あげたのは依乃。
彼女は豊満な胸を揺らしてプラスチック手錠を外させると、イラだたしげに立ち上がる。
そして両手の親指と人差し指を立てた。二つを継ぎ合わせる。

カメラには、依乃が作った四角形が大写しになった。

------------◼️ STOP------------


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