見出し画像

16_「わたしは、前もって自分のなすべきことを知らないまま、御霊に導かれて行った。」(1ニーファイ4:6)

父親からエルサレムに戻って先祖の記録を手に入れて来るように命じられた息子たちは、その記録を持っているラバンに何度か渡してくれるように交渉しますが、相手にされません。それだけではなく、命までとられかけますが、ニーファイが信仰を持って、御霊に導かれてエルサレムの街に入っていくと、ラバンが道に倒れており主によってニーファイの手に渡され、ついに真鍮の版を手に入れることができ、その上、ラバンの召使のゾーラムをともなって荒れ野の父のところへ戻ることができました。

ヘンリー・B・アイリング管長はニーファイたちの経験と私たちの生活の関係について次のように語っておられます。

「わたしは…ラバンの版を手に入れるためにエルサレムへ戻るよう求められた、ニーファイの記述にも励まされてきました。…ニーファイがその用向きにおいて経験した聖霊との交わりは、主からの割り当てであるとは理解しながらも、自分の過去の経験や持てる能力をはるかに超えていると思われる務めに取りかかろうとするときに、何度もわたしに勇気をくれました。…わたしたちは、そして皆さんも、聖霊を常に伴侶とすることが必要です。そう望んだとしても、そうすることが容易でないことは、だれもが経験から知っています。わたしたちは日々の生活の中で、自らの思いや言葉、行いによって御霊を遠ざけてしまうのです。そのようなことがあると、そして実際にあるでしょうが、主のとがめを感じるかもしれません。そして自分は孤独だと感じてしまうかもしれません。ですから毎週、悔い改めて聖餐にあずかる際にわたしたちが受ける、『いつも御子の御霊を受けられるように』という確かな約束を思い起こすことが重要なのです。もし今日、聖霊の影響力を感じたのであれば、自分の生活に贖いの力がおよんでいる、すてきな証拠だと考えてよいでしょう。」

(『リアホナ』2023年11月号,p.)

「御霊」の教義は教会の中で最も大切な教義の中のひとつですが、十分に理解されていない教義のひとつであるかもしれません。御霊とは、広い意味では、「神会(天父・イエスキリスト・聖霊)からの影響力」のことですが、狭い意味では「聖霊からの影響力や直接的な交わり」のことをさしています。聖典の中やわたしたちが「御霊」という語句を使うときに、ある場合は、広い意味での「神の導き」「キリストの光」「良心」「インスピレーション」などの天父やイエスキリストからの影響力のことをさし、ある場合は、直接的な狭い意味での神様やイエス様、神聖な主の業について証する「聖霊」ご自身からの影響力や交わりのことを表しています。これらすべてをまとめて私たちは「御霊」と呼んでいます。

「御霊」の定義

確かに、わたしたち教会員にとって毎日の導き手として「御霊」を受けられるということは大きな特権です。ラッセル・M・ネルソン大管長の次のように述べておられます。

「導き、指示し、慰める、変わることのない聖霊の影響力がなければ、これから先、霊的に生き残ることはできなくなるでしょう。」

(『リアホナ』2018年5月号,p.96)

ゴードン・B・ヒンクレー大管長は「御霊」を受けた時の感覚を次のように述べておられます。

「その促しは善を行い、立ち上がり、背筋を伸ばし、正しいことを行い、親切であり、寛容であるよう人に勧めているでしょうか・そうであれば、それは神の御霊から与えられたものです。…あなたは御霊の促しを御霊のもたらす実によって識別することができます。すなわち啓発し、築き上げるもの、積極的、肯定的であり、心を高め、より良い思いと言葉と行いに導くものは神の御霊によるのです。」

(Teachings of Gordon B. Hinckley, p.260-261)

また、デビッド・A・ベドナー長老はわたしたちが毎日の生活でどのくらい「御霊」を受けることができるか次のように述べておられます。

「・・・・毎日,毎時間,毎分,毎秒,聖霊とともにいることができないのは分かっています。それでも聖霊に,ほとんどの時間とまではいかなくても,多くの時間をともにいていただくことはできます。そして確かに,御霊を受けている時間を,受けていない時間よりも多くすることができるのです。絶えず主の御霊の中に沈められるようになるとともに,わたしたちは,導きを受けたときにそれを認識するように努め,また聖霊から身を引かせるような影響力や出来事についても認識するように努めるべきです。」

(『リアホナ』2006年5月号p.30)

*あなたが最近「御霊」を受けたのはいつですか?


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?