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【イースターアドベント④】水曜日:香油を注がれる 

この日のイエス様のされた業については何も書かれていませんが・・・ベタニアのシモンの家におられた時に一人の女性が高価な香油をイエス様の頭に注ぎかけたことが記録されています。(マタイ26:7)

この高価な香油は、ナルドの香油と呼ばれ、オミナエシ科の植物で甘松(カンショウ)という植物の根から抽出する、ヒマラヤ原産の油です。当時、イスラエルでは非常に高価で、マリアがこのとき用いた油は、300デナリもの値打ちがあったと福音書には記されています。300デナリとは、当時の日雇い労働者のほぼ1年分の賃金に相当する値段でした。
 
イエス様の弟子たちのある者は、このように高価な香油を浪費してしまった女性に憤慨しますが、イエス様は「全世界のどこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この女のしたことも記念として語り伝えられるだろう」(マタイ26:13)といわれました。
 
弟子たちが憤慨したように、ある人々は、イエス様に高価な香油を惜しげもなく注ぎかけた行為は、ある意味もったいないこと、無駄なことだと考え「浪費」だと考えました。高価な香油を売ってもっと有効にもちいるべきだと考えました。でも、イエス様にとってはどうだったでしょうか。この後、週末にイエス様は十字架におかかりになられるのですが、イエス様が「この女が、わたしのからだにこの香油を注いだのは、わたしの葬りの用意をするためである。」(マタイ26:12)と仰っていますように、イエス様はその意味をご存知でした。もしかするとこの女性も自分のしている行為が意味するところを知っていたのかもしれません。この行為は「浪費」ではなく、まさに「聖なる浪費」だったと言えるのではないでしょうか?
 
わたしたちの生活の中にも「聖なる浪費」と呼ばれるような事柄があります。
 
例えば、ある青少年は、受験生であったにもかかわらず、毎朝、セミナリーに出席し、日曜日には一切、受験勉強をしませんでした。受験生のためには「浪費」のように見えたかもしれません。また、ある人々から見ると「祈り」や「日曜礼拝」「神殿参入」の時間は「浪費」のように感じられるかもしれません。でも・・・それは確かに「聖なる浪費」です。もっともっとイエス様に心を向けて「聖なる浪費」をしたいと思います。

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