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【イースターアドベント⑤】木曜日:最後の晩餐・ゲッセマネの園での祈り・捕縛

この日、ユダヤ人は「過越の祭り」でした。「過越の祭り」は、イスラエルの民がエジプトでの奴隷状態から解放されたことを記念する特別な日です。イエス様も弟子たちと共に過越の食事をされました。このとき、イエス様は、種入れぬパンをさいて言われました。「とって食べよ、これはわたしのからだである。」(マタイ26:26)また、杯をとって言われました。「この杯から飲め。罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である」(マタイ26:27-28)このとき以来、わたしたちもイエス様の贖いの業をいつも覚えておくために「聖餐」の儀式を毎週行っています。
 
「最後の晩餐」の後に、イエス様は、弟子たちを連れてゲッセマネの園に出かけて祈られました。

「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさってください。」(マタイ26:39)
 
四福音書の筆者の1人であるルカは「イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた。そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた」(ルカ22:44)と記し、壮絶なイエス様の贖いの様子を描いています。

以前、何かのレッスンで、十二使徒のオーソン・F・ホイットニー長老がゲッセマネの園で祈るイエス様を示現でみられたことについて学びました。

「わたしはゲツセマネの園にいて、苦悩される救い主を目撃し…た。わたしが前方の木の陰に立っていると、イエスが…ひざまずいて祈られた。…祈っている間、こちらを向いておられる救い主の頰には涙が流れ落ちた。わたしはその光景に感動し、純粋な同情の気持ちから自分も泣いた。心はすっかり救い主に注がれ、わたしは魂のすベてを込めて救い主を愛し、ほかに何も要らない、ただ救い主のそばにいたいと切望した。 …わたしは救い主の表情や御姿や動作などをつぶさに見ることができた。」

(Through Memory’s Halls『思い出の広間』p.82)

このレッスンの間中、とても強烈な印象があったことをよく覚えています。そのとき、わたしもホイットニー長老と同じようにイエス様をもっともっと身近に感じ、愛し続けたいと思いました。

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