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「最終日駆け込み鑑賞」

 師走に入った最初の土日は、あちこちで秋の展覧会の最終日だった。
コロナが五類に入り、各美術館や博物館の力を込めた秋の催しが、いよいよ入れ替えになる時期である。始まった頃はまだ暑く、薄い布の服を着ていたのに、この日曜日は薄いダウンのコートを引っ掛けて、見逃していた二つの展覧会へと早朝から向かう。

 紅葉真っ盛りの日曜に京都へ向かうには作戦が必要だ。まず、九時半から開館している京都国立博物館(以下『京博』)の「東福寺展」へ。八時台にもかかわらず、京阪特急はいそいそと乗客が乗り込む。無事に座席に座り七条で下車し、東へなだらかな坂をのぼる。この辺りは学生の頃よく通った道だ。「わらじや」の前で修学旅行生たちが集まっているのが微笑ましい。

 開館より少し遅れて、十時前に京博に着く。チケットは事前にコンビニで発券しておいたのですぐ入場できる。ロッカーに荷物を預けて、身軽になり、会場へ足を踏み入れる。
 東福寺の由来についての書物や、多くの物作りと思想と建築技術が伝えられ、寺院という学問の場が大陸文明の恩恵によって出来上がったものであり、且つ交流を続けることで発展した歴史がよく表された展示だった。

 「東福寺」という名前が「東大寺」と「興福寺」から一字づつ組み合わせて名付けられたことも、この寺院の建立が一大事業だったことがわかる。
開山の円爾は径山万寿禅寺の無純師範のもとで、六年の求道生活のち、中国禅師として認められた当時の極めて優れた禅僧であった。鎌倉時代から室町時代にかけて、円爾に始まり、留学僧たちが持ち帰った事物が今につながっる不思議を感じつつ、三つのフロアに跨った壮大な展覧会の鑑賞を終える。

 さて、京都国立博物館のマスコットキャラクター「とらりん」こと「虎形琳ノ烝」のトートバックに重い図録を入れて次の場所へと向かう。

 いつも素通りする蓮華王院三十三間堂。もう何十年も入ってないなと思い、横断歩道を渡って入堂する。中央に座すのは「千手観音坐像」。左右対称に「千体千手観音立像」が居並ぶ側に沿って細い廊下をゆっくり歩く。    釈迦を守護する二十八部集と風神雷神の姿は、インドの神々らしく体格が菩薩や観音とは全く異なる。鎌倉彫刻と一言ですましてしまうことが勿体無い。二十八部集の異なるキャラクターは、各々決まりごとがあるものの、衣装や装備品、紋様の細部が際立っている。

 千体観音立像が居並ぶこの廊下は端まで歩くともう一度見ようと、最初まで戻る気にならない。なぜかはわからないが、始まりと終わりがつながっているような感覚をもたらす通路。反対側の障子越しに差し込む柔らかい光の面が、圧倒的な宗教美術の奥行き感を少し和らげてくれる。現実の光と仏の世界の金色の光。対照的でありながら、その間に立つことが博物館では味わえない空間体験になる。

 三十三間堂を後にして、再び七条駅へとくだり坂を歩く。駅前のお店でコーヒーとハンバーガーで少しクールダウン。明るい空から地下の乗り場へ降りる。このまま帰宅と脚がささやいたが、もう一件今日までの展覧会があった。しかも、私が好きな作家である。前後期で作品の入れ替えをした、中之島美術館での「長沢芦雪展」へ向かうことにした。
 
 京橋駅で中之島線に乗り換えて渡辺駅で降りる。うねうねとビルの地下道を通って、目的地に到着すると昼飯時も過ぎた午後二時半。券売機の前に列ができているが、結構早く進んでいる。運よくロッカーが一つ空いていたので、重い「東福寺」図録と荷物を入れて、身も心も軽く会場に入る。

 前期と違う大小様々な作品が、展示されていた。ああ、見に来てよかったと痛くなってきた足も軽くなってくる。一旦さっと終わりまで見て、もう一度最初に戻る。美術館ではいつもこの鑑賞の仕方が癖になっている。

 最初と最後のあたりで人は立ち止まってしまうものだし、集中力もある。
映画でも、本でもそうかもしれない。でも、中頃に展示してある作品は、展覧会が一つのストーリーだとすれば、一番波が動いている場面だ。見る側もその中に入っている状態のところでしばらくじっと見る。その辺りにはベンチが置いてあることも多いので、休憩も兼ねて。

 真ん中の部屋でゆっくり目を慣らしてから、最初の入り口に戻る。少しまばらになった人の隙間から覗き見る。そのうちに、ポツンと誰も見ていない絵ができると、その前でしばらく佇む。石の上をポンポンと飛んで移動するように見る順番も変える。
 そのうちに、お客さんもどんどん増えてきた。余白と細部、墨の色と連動した筆致の豊かさを持つ芦雪の画面は、一点を凝視するための絵ではない。人が多くても見えるもの、見たものを組み合わせて自分の目で確認できるのが愉しい。

つくしに、すずめ、虫に亀に、猿、子犬に龍虎、咲きはじめの草花。

 芦雪が好んで描いたものは、どれも小さきもの同士の会話が聞こえてくるような世界だった。精巧にコントロールされた濃淡の墨の色合いの世界は、見るものの欲望を浄化する。見えない部分が絵の中に含まれているのだ。そういう作品は見終わった後に、描く気持ち、あるいは情景をもたらしてくれる。

 帰り道、私は空腹と足が疲れたまま墨の匂いを思い出した。久しぶりにゆっくりと墨をする。硯と墨の音。

 
©️松井智惠                   2023年12月5日 筆
 
  

 

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