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生きている限り止まらないもの

日曜日、いつものように開いたwebページに「母の日」がテーマの記事が並んでいた。「もうすぐ母の日か」とすぐにスクロールした数時間後、この日が当日であることを知る。自らに関係のないイベントだと、完全に気を抜いていた筆者なのである。

人は誰しも

筆者の母は変わっている。「自分以外はみんな変人」の世の中において、筆者の人生で群を抜いて変わっている。

彼女と出かける際、偶然会った知人から私を指し、「娘さん?」と尋ねられると必ず「こんな子、産んだ覚えはない」と言い切る。その一方で、自身が関わる催事には、積極的に参加を勧奨する。こうした動作は、筆者5歳の頃から続き、成人後もなお変わることはなかった。
前者を見れば筆者が疎ましく、できれば同じ組織内にいることを知られたくないように見える。後者を見れば、自身のゲストとして周囲に主張したそうに見えなくもない。要するに、わけがわからん。

こうして育った筆者は、17歳で小児科に入職するまで気づいていなかったことがある。

人は誰しも、誰かの子である。

どんなに偉そうな政治家や、頭がかっちんこっちんの先生だって、結局は誰かの子。乳児期には母を追いかけ、転んで号泣した時期があるのだ。母なくしてこの世に生きている存在などない。
このことに気づいた瞬間、「なんだ」と思った。それまでの筆者は、目の前の生き物は遙か彼方昔から現状を維持してきたものと認識していたのだと思う。

相手不在の記念日に

出先で土産を選ぶのが好きだ。渡す相手の顔や趣味を思い、ああだこうだと悩む時間が好きなのだ。同じ理由で、試着室の中も嫌いじゃない。

しかし、父の日・母の日は相手不在で、何一つ楽しくない。

いや、嘘である。
花屋やスーパー、街中がギフトで彩られるのを見るのは楽しい。きっと、自分の母に渡すのであろうプレゼントを選ぶ人々の表情は明るく、他人事ながら嬉しく思うこともある。どのように渡すのか、通りすがりの筆者の知るところではないが、プレゼントをもらう相手が知らない横顔に、ひそかにエールを送るなどしている。

それでもやはり、相手がいる土産やプレゼントを選ぶ楽しみと比べると劣るのは本当だ。

更新

生きていると、色々な物事が更新される。
特に顕著なのは記憶で、自分が不要だと判断したものは、たった数時間で消失する。となれば、筆者など誰の記憶にも残りはしない。

反対に、覚えようと意識せずとも覚えていることはある。こういった記憶は衝撃が大きく、感情が高ぶった内容である場合がほとんどで、記憶として保存される期間は長い。周辺の記憶がいくら更新され、衰退し、消失しようともそれだけは残るのだから、内容によりタチが悪い。

けれど、このように黒い記憶もじわり、じわりと衰退する。気づかぬうちに色褪せ、思い出す度に自動補正を加えている。生きることは更新の連続で、結局、絶対的なものはいつだって「自分」だけなのだろう。
筆者は今日も、筆者自身なのであった。

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