活動
努力をしてきた人は自分の努力量で人の努力量をはかるだろうか?
努力をしてきたから、自分の努力量に達していない人は努力してないと、
断じるだろうか?
それは人によると言ったらそうなのだろう、
ただ言えることは、なんでもかんでも努力を指標にされると、
どこまで努力したらがんばったと言ってもらえるのか、
努力すれば報われると信じての言葉だとは思うものの、
やっぱり努力してないと言われるのは厳しいものである。
僕の家庭に努力を求め続けることは、
家庭を破壊してまで努力しろというのと等しい、
実際、僕が一番努力していた時期の事は、
結果として、周りの皆に我慢を強いてた時期に等しく、
現在進行形で僕が存在することによって苦労を重ねさせてるのも確かだ。
それを僕が努力すれば全て報われるかのように、
言われるのは辛いところである。
僕がもっと働けば、僕がもっと凄い人間ならば、
僕がもっと賢ければ、僕がもっともっと努力していれば、
失敗などしなかったのだろうか?
答えは分かってる、未熟なうちに努力を求められると、
人はその未熟な答えを出して、未熟な形で努力を果たそうとする。
多くの人が言ってる努力とは成熟した上で背負う重荷のことであり、
成熟してないうちは何をやっても努力とは認められず、
言うこと全てがわがままだと断じられる、子供の様に扱われる。
それは間違っている。
未熟な人間に何を努力しろとも言わずに、
ただ努力を求めたなら、失敗するのも目に見えているのに、
人は努力だけ重ねれば成功できると嘘を平気でついている。
実際は違う、向かうべき場所に行き、
そこで努力を重ねることで始めて開花する、
貴方は努力してないというのはたやすいことである、
相手の我慢も忍耐も工夫も努力も全て認めなければいい、
だが僕は相手の努力は認めている、その上で話しているのだ。
どうあってもこれ以上の発展は難しそうだ、と。
お互い努力は重ねてきた、ただ、発展を望んだときに、
狭量になってる視界を少し開く必要が絶対にあって、
全てを自分たちの世界だけで論じるのは危ういのである。
常に第三者の視点を入れてみることが大事なのだが、
そこを分かってはもらえない、あくまでも未熟な僕しか見えてない、
恐らく人の格式や成熟した人間の発言であるなら、
受け入れるのだろうが、僕を未熟である未成熟であると、
理解しているから、努力が足りない、成熟しろ!
と言うのだろうけれど、
問題は違うんだ、もし成熟できるなら、
全ての人間はあっという間に成熟して全てのことに挑戦している。
しかし現実は違う、成熟できないからこそ僕は生きている、
中途半端な欲求や様々な感情を抱えて生きている。
それを努力不足、何でも人に頼るな求めるなと、
言うのであれば、僕の欲求や衝動はどうなる?
いつだって思うのは一見して障害者の事を認めているようで、
実際は労働者として成熟させることしか目に入っていない。
そうやって労働者を増やすことが一番だと、
会社の理念をフルに発揮してくれるのは社会に貢献する為の、
素晴らしいことなのかもしれない、
ただ僕の心は委縮し、結果として僕が会社の利用者であった、
全ての事が意味が無く、絵描きがいたということさえ残せない、
それは辛い状態である。
そして僕は求められた努力に答えるために、
社員さんの言った、個人で政治家に取り合うなり、
活動をするなりしなさい、というのを通所と並行してやることになる。
区役所に駆け寄ってみなさいという話も、
もっと努力しなさいという言葉のとおり動くことになる。
未熟者が未熟なままである。
納得は、いかない。
おしまい
いただけるなら、どこまでもおともしますとも!