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おもうこと

 永遠に向上し続けられたら何事も終わりが無くて良いかもしれない、
ただそういうやり方は本当に限られていて、限られた世界の話なのだ。
 人間には節目ごとの終わりがあり、成長もし続けることが、
限られてはいるので、出来る範囲のことしかやれないし、観測出来ない。
全体のことは分からないので、個人として最低限のことを、
守るより他ないのは確かなのだが、どうしても必要以上を、
求めてしまうし、求めている。
 おもうことにはやはり自分は限界を演じたいしそこに価値を、
感じてるのは確かなのだろう、けれど限界までやりきるというのを、
ひとりぼっちから始めるのはもう沢山なのである。
 どうしてもひとりで演じる限界では到底、行けない世界があって、
自分の力をいくら信じていたとしても、ひとりぼっちでは何も、
うまく産み出せないと、分かるのである。
 体験したことの多くは一人や孤独な状態から、
限界を迎えるとどうなるのか? という疑問に答えようとして、
作品制作したり創作したりというところが多いようで、
見てくれるものを意識しては作れてないことの方が多く、
結果として内面の吐露だけで終わってるところ、
成長まで描けたかと言われると、成長できていない所のほうが、
目立つように感じる。
 それでも一人でも誰かが見ててくれるなら続けれるのだが、
より周りを巻き込めないと、作っていて張り合いが無いと、
どこかで不安や不満を抱いてるのは確かなのだ。
 自分を嘲る部分だけが残ってしまうと不完全燃焼なのは確かで、
作品を制作するにもそれをどう人に見せるのか、
どこで人に見せるのか、誰に向けて見せるのか、
そういうものを強く意識するようになっては来ている。
 徐々に一人の状態から変化してるのは確かだ、
一人遊びを継続出来る時期から変わって来ている。
 では他者を遊びに巻き込めないのか? となるのだが、
あまり人と関わりを持つのが上手くない人間ではあるので、
恐らく、自分の微妙な成長の糧に誰かを利用するというやり方は、
自分でかなり否定してるところが大きいのかもしれない、
けれど、毎回、興味を持って始める遊びの創作ってのは、
どこか人を巻き込む大きな力を求めてる所が大きく感じる。

 人に見てほしいから作るにだんだんと変化が生じ始め、
より多くの人に見てもらうにはどうすれば? と悩み、
数多く作るのか、それとも長く作るのか、迷い、
遂には自分で脚本を作りそれを興ずるやり方を拡張しようと、
色々、手を回し始めてもいる、けれどまだ空虚である。
 ディスプレイの前に座ってるときに、
それが周りの人に反映すると分かってもいるはずだが、
あまり毎日の生活の中で、対話することも少ないので、
自己表現の幅や起伏を見てもらう時に説明が必要なのも確かであるし、
何よりも、第三者に向けて書く内容というものを、
逐一精査するようなことも無かったので、
 割に人が読むときに一波乱含みでとなると考え方や思うことの、
整理が追いつかない、見られてしまうと相手の不安まで考えつかない、
一度書いてしまうと何せ人が読むのだと知れると、
果てしなく推敲してるという人の気持ちが良く分かりもする。
 ただ、自分は生で書いたもの、素で書いたものを、自分の記録だと、
思ってもいるので、直すことにはどこか抵抗がある。
 現在進行形で自分の病状を記録しているところもあるのだ、
となると、ある程度、読む人にはそれを理解してほしくもある。

 作品という形で発散されてると良いことだと言ってくれた人もいる、
また他の事をしていたら絵を描くことを大切に出来るかもしれない、
とも言ってくれた。 とはいえ絵を描くことに癒しを求めているので、
やはり絵や作品に自分の願望や想いをのせることにはなるのだろう、
ただ、苦難の道のりになることは知れている。
 作品を作るスペースの話を幾度となくしているが、
スペースは作ろうと思えば作れる、ただスペースを個人が作るのには、
限界があるという話で、そのスペースを共有してくれる他者が、
協力者が絶対に必要になるという話だが、分かるだろうか?
 要は個人のスペースはいつまでも個人のスペースで変容が無い、
それが共有のスペースになれば他者もそのスペースに加わることが、
出来るので、第三者の視点が入ることで見通しが良くなる、
そういう話でもある。 ただ理解するのは面倒臭いだろう、
 それは誰かのスペースを要求する話にもつながるからだ、
そうなると話は別になる、誰がスペースをおいそれと寄こすものか、
スペースはお金の話になる、結果として自分の領域を、
他者の物品で侵される危険よりかは、個人が個人を保つために、
自分の領域を最大限利用せよ、という話になる。

 けどそれだと意味は薄くなる、自分が求めているのは、
共有できるスペースである。 自分の情報を開示し、
ある程度、相手に理解してもらった上で共有できれば、
自然と交流出来ると思ってる節があるから、
要するに自分の持てる物を評価してほしいのである。
 だが自分の物を見てもらうにしても、
それは時間がとても掛かることは分かりきっている、
共有できない、となると社会に還元できないものを、
いつまでも保有していることになるので、不安に感じる。
 そういうものだと割り切れれば楽なのだろうが、
自分が表現したものをある程度理解した上で、
話してくれる人がいないので、どういう方向に、
どこに自分の持てるものを持っていけばいいのかも分からない。
 最終的に自分を管理してくれる人が見つかるのが、
一番いいことなのだが、それには長い道のりがいるだろう、
分かってくれたかどうかは分からないが、
自分の持ってるものを社会資本として管理してくれるスペース、
それが必要なのであって、自分のスペースはさほど重要ではない、
自分のスペースを作りたいのであれば、
自分の持ってるものをある程度減らせば、成立する。
 ただあまり自分の持ってるものを減らすにしても、
自分の才能と直結してるものを削るのは予後に関わるので控えたい、
どちらにしても自分が作ったものは資本だと思っている。

 あまり良い考え方でもないし、おもうことでもないのかもしれない、
が、それだけ共有したいという気持ちが強いのであり、
それを承認欲求だとしたとしても、自分の作品を話せる人間が、
ある程度存在していないと、作ることも継続出来ないのである。
 なんにしても他者は絶対に作品を作る上で必要になる。
 モチーフにしても、閲覧者にしても、視聴者にしても、
どのような人であっても等しく作品を作る上で必要になる。

 僕の考えてる平等は作品の上では作ることが出来るし、
割に、作品を発表する限りには見る人は皆、平等にそれを評価できるし、
また見ないという選択肢も持てるので、どんな人でも、
作品に参加し、あるいは参加しない意志を持てる。

 どんな意味があるのかは分からないが、
僕は自分の作品が社会資本だと思って作ってはいる。
 どんな作品であれ最終的に社会に還元されるのだから、
しかるべきところで管理されるのが一番良いと考えて作ってる。
 それは自分が作品を保管したり管理する限界を感じて、
日々を過ごしているところがあるからだ。
 僕は気分屋であるから、作品を処分してしまうことがあるかもしれない、
また作品の準備のためにしていた行程を破棄してしまうかもしれない、
自分の事を自分で管理しないのは自己管理ができてないと社会に、
評されるかもしれないが、人間が気分屋であることは忘れてはならない、
機会を常に損失し喪失している人間がいることを忘れてはならない、
 社会と人間の気質は切り離すことが出来ないものだ、
人間は気分屋、突然の喪失感や情熱、換えのきかない感情を抱いて、
自分の作品を評価していきなり終わらせてしまったりもする。
 分かりやすい話、作者が他者と共有できないことで、
多くの作品は眠りについているし、破棄されている。
 どんな落書きであっても簡単な殴り書きであっても、
それを膨らませることや筋書立ててみることで良作になることはあり得る、
着想のヒントは案外、雑然としてるものなのに、
人は先に完成品を求める、社会的に成功していること、地位があること、
格があること、品位が、完璧さが、緻密さが、繊細さが、
 それが本当に全部、つまらない話なのである!

 作品に求めるものは完成ではなく、継続だったはずだが、
皆が、どうしても完成品を求めるので不完全燃焼に至る。
 どうあってもどうあがいても完成した作品しか世に出せない、
それが世間の限界であり、人間の限界に近い、
終わりが近い人ほど、よりシビアな視点を持つ、
完全に出来上がったゲームの中でしか人間は生きられないのだと。
 となると誰が、上手くなろうとするだろうか?
 誰が上達を目指すものだろうか?
始めから出来てしまってるゲームの中で人間が遊んでも、
出てくる結果は常に同じになるだろう、感想も同じだろう、
完成品の中に閉じ込められた人間の末路は、
ゲームにはまり込んで製品として一緒に出荷されることである。
 玩具の一部になるしかないのが人間という結果が出力される。
なんだかつまらないぞ。

 僕は不完全なものに魅力を感じているし、
人間が完成しきった世界にはあとは破滅しかないと感じてる。

 誰が未完成品を収蔵するだろうか? と考えているかもしれない、
だが人間を収蔵する気が無いなら、この社会には人の居場所は無い、
人間を作品だと思ってくれるなら、まだ人の居場所はあるだろう、
もっと深く人間を知りたいという気持ちになる余地があるなら、
おもうことがあるなら、いくらでも人に居場所はある。

 だから言えることはいつも一つなのだ、
僕にスペースを与えてくれ、と、それが成長してない証でもあるし、
未完成の証でもある。 作品は未だ出来上がっちゃいない、
人間も未だ出来上がっちゃいない、だから結果は分からない、
いつまでも完成しないかもしれないけどいつも言うのである、
スペースを与えてくれと、それが望みだと知っているから、
君のスペースが必要なんだ、必要なのは君の心の余裕、おもうことだ、
人間を今以上に要求している、人間性がとても必要になることだ、
スペースが今以上に必要になる、それが無ければ、
恐らく、作品は完成しないし、どこにも居場所が無いままだろう、
僕がいつも要求してるものはそんなに難しいものではない、
君がスペースを与えてくれると言ってくれさえすれば、
そのスペースを何倍にもする作品を仕上げるだろうし、
人がスペースを与えてくれるというなら、僕は人間として生きてられる。
 必要なのはいつもスペースだ、個人のスペースじゃない、
共有のスペースだ、心の余裕だ、おもうことの余地だ、
君が示してくれるならいくらだって用意はある。
 どんな形でもどんな方法でも受け入れよう、
いくらでも描けるさ君の余裕があるならば、
君がいくらでも冒険したいというなら無限に、
君がいくらでも活躍したいというなら果てしなく、
際限なく付き合うだろう、君の舞台に、
僕はスペースを要求している。 永久に、無限に、拡大し続ける。
 それは宇宙のことに近しい、
結局のところ、夢に近しい、
永久機関に近しい、
 スペースが必要だ、今よりもっと共有できるスペースが、
自分という人間の全てを共有できることが何よりも望ましい。
それがあって始めて、お話が始まる、
僕がしたい話というのは、結局、君のスペースのことだろう、
君にスペースがあるというなら、そこを埋めよう、
いくらでも話したいことがあるんだ。
 僕には






おしまい

いただけるなら、どこまでもおともしますとも!