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生きやすく 2022年ふりかえり

ぼくは2022年に「生きやすく」というテーマを持っていました。

「生きやすく」するってどういうことなんだろう?
「これでいいと思えるように生活や生き方を整えていくような感じ」と1年前は表現しています。

僕は基本ずっと生きにくいなって感じながら生きています。「生きやすく」をテーマにするのは生きにくいからですね。たぶん多くの人も同じく、でも誰一人同じではない「生きにくさ」を生きていると思っています。
2022年が終わりましたね。
僕は去年もたくさんの命を頂いて命をつなぎました。生きにくいです。いろんな人にも迷惑をかけました。気づいたことで謝罪できる時にはすぐに。でも気づいた時には遅いことも多いです。さらに気づかずそのままにしてしまっていることだってたくさんあるはずです。生きにくいです。
その中でですが、幸い1年前は想像できなかったような「生きやすさ」の中で生きられています。


「生」と「死」の言葉の関係

一見ふしぎ?なこと書きます。言葉にしたらこうなっちゃうんですよね。

私たちはなぜ、「私たちは生きている」と認識しているのでしょうか?
私たちはこれまでのどこかで「死」という現象を知って、そうではない今の自分は「生」なんだ、と認識しています。

あはは(笑)
僕がMTBするのは、危ないという感覚が「生きてる」という実感をくれるからだと思います。

ここは僕の価値観なのですが、
死を知る前も生きていますが、「生きたい」とか「死にたい」とか「生きやすく」とか思うのは死を知っているからだと思うんです。
私たちは「死にゆくんだという感覚」を、「生きている」という感覚として持っているのです。

それで僕は、「生きやすく」していくには、ほどよく「死にやすく」する必要があります、という自論を持っています。ほどよく「リスクをとる」ってことです。どれくらいがほどよいのかは人それぞれ。
どんどん死にやすくすると死んじゃうので、どれくらいの「死にやすさ」にすると「生きやすく」なるのか?それを探っている感じです。

もうちょっと説明します。
なんで「生きやすく」するために「死にやすく」する必要があるのか。

僕たちが生まれるよりもずっと昔の人や、または僕たちが小さな子どもだったときは「生きようとする」と「生きる」ことができる、そういう環境だったと思います。いつ死ぬか分からなくて、生きようとしなければ死んでしまったでしょう。
僕たちが生きている時代もカンペキに死なない環境ではないですが、いろいろな生きやすい術が発展してきて、日常で死んじゃうようなことは昔よりずっと起きなくなりました。僕たちは死なないようにこの環境を作り上げ、更新し続けています。
ところが、そうして作り上げた環境のなかにそのままいると「死にゆくんだ」ということが感じられないから「生きている」と感じにくい環境になっています。
なんの専門家でもない僕なのでそういう人が言っている一意見だと思ってほしいのですが、いわゆる先進国で心の病とか自殺が増えていくのはそういう理由もあるんじゃないかなと思うんです。(心の病や自殺のよしあしを言っているのではないです)

生きやすいと生きにくいんです。
生きやすくしてきたら死にやすくなっちゃったので、
生きやすくするには、死にやすくしなきゃいけない。

言葉って不便で、でも不便なのって面白い(笑)

こどもたちに「生きる力」を、とかそういう言葉を聞くと、僕はこんな価値観をのせているので、単に学校でノートに書いたりとか、知識を蓄えたりするだけで「生きる力」になると思わないんです。

僕は仕事でバイクに乗りますが、運転を誤れば僕の実在は世界に散らばって、僕と世界の区別がつかなくなるかもしれない。そういう死のリスクを受け入れると、僕はすこし生きやすくなりました。バイクに乗るのは怖いけど、怖いから楽しいです。

ひとそれぞれちがう「ちょうどいいリスク」を、やらなすぎたり、やりすぎたりする試行錯誤の中で見つけていこうとすることが、今の僕の思う「生きやすく」することです。

遊びって命にかかわる大事なことなんです

「生きやすく」と心から願い、始めた2022年でした。
心は生きたがったり死にたがったりします。
体はずっと生きていて死にゆく。生きようとしても死にゆく。死のうとしても生きちゃう。
生きたがっても死にたがっても、どちらも心の通りにはいかないですね。
自分が自分にできることは「生きやすく」すること。
だから「生きやすく」。

今年生きやすくなったこと

きっと日常の何でもない生きにくさが、僕の生きやすさにつながっているんだと思います。家に洗濯機がないとか。そうじがめんどくさいとか。実家が遠いとか。こどもとうまく話せないとか。
一見不便だと、それをどうにかする過程で「生きる」ことができて、やれやれっていいながら明日に行けるんですよね。

ちょっとおっきい目線での生きにくくしたら生きやすくなったことでは、東京に来ました。
1~3月に不動産や賃貸契約のことを学んで、東京での住まいを決めました。
4月に東京に来て仕事を始めて、6月には新しいバイクに買い換えました。

引っ越し費用と家賃で30万円、国民年金の2年前納で38万円、バイク免許8万円、バイクの購入27万円。
これまでやったことないようなお金の使い方です。僕の貯金残高から3か月で100万円以上口座から消えていくのは、事前にある程度わかっていてもスリルありました。
仕事のために決めた出費なので事業投資であり、これを回収しながら生活を組み立てていくのが今年のチャレンジでした。

仕事にしているフードデリバリー配達員は、1件ごとの業務委託契約です。1件終わった後に次の1件が来る「保証」はないんですね。需要はいつもゆれうごいていますし、何かの事情があればサービス自体が停止することもあります。

自分がすることにどんなリスクがどれくらいあって、それが自分にとって「ちょうどいい」なのかを選び取りながら、そのリスクによって心にスパイスかけて「生きやすく」しながら生きていきます。

1年終わり、無事に投資金額を回収して、貯金をよりよい上昇軌道にのせることができました。よかった。

リスクを取ることはいいことでも悪い事でもなく、貯金があることもいいことでも悪いことでもなく、どちらも自分にとってちょうどいい「生きやすい」を見つけるための手段なんだろうと思います。
今はこれくらいが「生きやすい」ですが、年を重ねたり、何らかの新しい生きづらさが出てきたら、変わっていくことも自然なことなのでしょう。

僕のちょうどいい生きやすさ

僕には今は、上手くいくことの方が少ないくらいの生き方がちょうどいいんですよね。何かしようとしたらたいてい失敗します。でも失敗して痛いとき、辛くて苦しいけど「生きてる」って感じます。今は失敗なしには生きられない。大樹のようにどっしり生きられるようになれたらって憧れているのですが、今はそうはいかないですね、生きづらい。

時々ある、うまくいってるばかりの時は、なんだか地面を感じられなくて不安になる。足取りが欲しくなって足をじたばたして自分を落としちゃう。
変な人(笑)
 
それをちょっとずつ自覚して、うまく行ってる時はそれはそのままに新しいことにもチャレンジする(新しい失敗をする)ようになりつつあります。

こんな人、これからどうやって生きようか?
ことし2023年の抱負につづきます。