自分を大切にできない人へ

世界とつながれないと人は死ぬ。
これは僕の仮説であり、8割くらいは確信。

自分に発言権のある居場所があるとか、人として扱ってもらえるとか、大切にしてもらえるとか。
そういう風に感じられないと、人は生きていくことができないと思う。

自分を大切に思うより前に、他者から大切にされているという感覚や体験がないと自己肯定どころの話じゃない。

僕は世界とつながれなかった

おそらく多くの人が、労力を使わなくても世界とつながることができている。
学校に、家庭に、職場には規模の大きさや愛着に違いはあれど、自分が楽にいられる場所を持っている。
「自分はここに存在していい」ということに対して大きな疑念を持っていない。

ところが僕は、世界とつながることが極端に下手な子どもだった。
致命的に空気が読めない。
感情表現が分からないしできない。
集団の中でどう振る舞っていいのかが全然分からない。

中学も高校も大学も、言葉の分からない外国に放り込まれたみたいだった。
自分の周りでは、まったく意味の分からない、そしてスピードの速い言葉が飛び交っていた。

僕は世界とつながることができなかった。
だから、生と死の境界線で息を殺しながら生きていた。

貢献によって手にした居場所

そうした状況にあって、0→1に関わること、プロジェクトに参加するということは、僕が初めて人権を手にすることができた体験だった。

課題解決や論理的思考、マネジメント、ライティングなど、他の人にできないことを僕が技術や貢献として提供できたとき、それを喜んでもらえたとき、僕は生まれてはじめて生きた心地がした。

ちゃんと誰かの視界に入ることができる。
小柄で童顔で女で、みんなが難なくこなしている人付き合いすらロクにできなくて。
そんな外側だけで判断されて見下され見くびられてきたのに、ちゃんと「僕」としての自分を見てもらえる。
対等に話をしてもらえる。

役に立てる。

それではじめて、僕は自分がここに存在していいことを自分に許してあげることができた。
そこではじめて、僕は世界とつながることができる共通言語を手にした。
共通言語を持ってはじめて、世界とつながることができた。

自分は存在してはいけない

自己肯定感と自己評価が低い人というのは、ちょっとした失敗やミスで死んでしまうのではないかというくらい落ち込む。
失敗許容力が恐ろしく低い。

僕の場合もそうで、貢献する以外の世界とつながる手段や言語を持っていないから、他人にどう思われているかが分からず、読めず、常に怖くてたまらない。

つないでもらったこの手は、僕が貢献できなくなったり失敗してしまったりしたら、簡単に離されてしまうと思っている。
僕が自分につけている評価はいつも「バツ」だ。

自己肯定は無条件でいいものだといくら言われても説明されても、理屈は分かっても納得できない。

自己肯定は自己効力感の後でもいい

それでも僕が今ここに生きて存在しているということは、僕が選んできた手段は完全な間違いではなかったということではないだろうか。
つまり、貢献の代償として居場所感を得るというやり方だ。

無条件に自分を肯定できなかったとしても、貢献によって存在意義を見いだせれば、自分に対して条件付きではあっても「生きていてもいい」という許可を与えることができる。


自己否定が癖になっている人にとって、無条件に自分を肯定することはものすごく難しい。
なぜなら数えきれないコミュニケーションの失敗や周囲の人間から受けたネガティブなメッセージによって、心が固く縮こまってしまっているから。

だから最初は条件があってもいいと思う。

時間はかかるかもしれないけれど、世界とつながる体験を積み重ねることで少しずつ自己効力感を、その先で自己肯定感を取り戻すことは絶対にできる。
僕自身がそうしてきたから、そこには自信を持てる。

いつか誰もが世界とつながれるように

僕が生涯をかけて作りたいものは、誰一人置いていかない、つながることのできない人が一人もいない「場」なのかもしれない。

僕には世界とつながることができないときの気持ちが痛いほど分かる。
声の大きい人が強いみたいな風潮は本当に滅んだらいいと思う。
気持ちが分かるからこそ、つながれずに苦しんでいる人たちに対して僕ができることはきっとある。

つながるための手段も言葉も、あなたがつながれる世界も、ひとつだけじゃない。
絶対に、誰ともつながれないなんてことはない。

僕の一生を懸けて、一人でも多くの人にそんなメッセージを伝えることができたらと思う。

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礼司

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