ばあちゃんの喫茶店

その店は、カフェというよりも純喫茶だった。

手作りのメニュー。
配管がむきだしの天井。
地元を特集した雑誌を飾った本棚。

カウンタには夫婦と年配の女性が立つ。
2世代の家族経営らしい。


控えめな照明が照らす小さな店内は様々な年代の男女で賑わっている。

あたたかな会話が波の満ち引きみたいに寄せては返して、他人同士であるはずのそれぞれの客の間には親しみ深い空気が満ちる。

僕はブレンドをブラックで頼んで、そのおいしさに一人で静かに感動していた。


なんてことない店のはずなのに、なぜだかものすごく懐かしくて好ましい。
その理由は、記憶を辿ってみてすぐに気がついた。

そうか。
この店は、ばあちゃんの喫茶店に似ている。

ばあちゃんは、長野の山奥で小さな喫茶店を営んでいる。


ばあちゃんのコーヒーはサイフォン式だったので、小学校の理科実験室にありそうなガラス瓶の中でいつも茶色い液体がこぽこぽと揺れていた。

厚紙に英字が印刷されたコーヒーの回数券は、常連客の数だけコルクボードに画びょうで留められていた。

夏の時期にはブラウン管のテレビの真ん前の席にいつも同じお客さんが座って、煙草をくゆらせながら食い入るように画面を見つめていた。

そんな光景を今でも鮮明に思い出すことができる。


メニューはあったがばあちゃんの気まぐれに売り切れたし、錆びついた「営業中」の看板は孫の誕生日と運動会とクリスマスには必ず下ろされる。

看板が出ていないのに店に入ってきたくたびれた野球帽のおじさんは、「テルコさん今日休みなの?孫とでかけるんじゃしょうがねえな」とでかい声でがなってゲラゲラと笑った。


ばあちゃんの作る分厚いハムトーストもピザトーストも、卵を敷いた鉄板ナポリタンも、お母さんには内緒ね、と言ってポッキーを刺してくれたアイスクリームも、ぜんぶぜんぶ世界一おいしかった。


思い出は、どうしてこうも美しいんだろう。

あの頃、ばあちゃんは一点の曇りもなく無条件に愛してくれていた。
多分7歳くらいの、完全無欠な幸福の記憶だ。


ばあちゃんの大好きなじいちゃんは5年前に肺がんで亡くなってしまった。

去年会ったばあちゃんは小さく縮んでしまっていて、喫茶店を開ける日も以前よりもずっと少なくなった。

実家に帰る理由を無くした僕は実家より遠いばあちゃんの喫茶店にももう1年以上帰ることができていなくて、記憶は時を重ねるごとにますます鮮明に、美しくなっていくみたいだった。


人が生きて、死んでいく過程に何の意味も無い。
「100年前も100年後も私がいないことでは同じ」だ。(『永久欠番』中島みゆき)

だけど、煙草の煙とコーヒーを焙煎するときのにおい、そしてばあちゃんと相思相愛だった小さな子供がいたあの喫茶店に20年前確かに存在した時間は、何億年が経っても永遠であり続ける。

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礼司

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