さよならに季節なんかないと信じていた。
3月に泣いた記憶があまりない。
ずっと、別れの季節だと思えなかった。
4月が出会いの季節だというならわかる。でも、さよならに季節なんてないと信じていた。
さよならの季節はいくらでもなくすことが出来て、「手紙を書くよ」でも「今度会おう」でも「連絡先を交換しよう」でもなんでも、僕らはきっとそのさよならを否定することができる。
今までありがとう、と目をうるませる友達の気持ちがよく理解できなくて、それでも、またね、元気でねと声をかけて、不自然な表情でなかったかを気にしていた。
一度、何でもない場面で号泣してしまったことを覚えている。高校の卒業の日も個人的には記憶に残っているけれど、それとは比べ物にならないくらい泣いてしまった日。
中学1年の卒業式だったと思う。放課後、部活の先輩の送別会が企画されていた(学校の空き教室で、ジュースとお菓子と花束を用意していた)。
僕が入部したときには既に引退していたか、あるいはほぼ入れ違いで引退した先輩たちで、あまり関わったことはなかった。
順番に一言感謝の言葉を伝えていて、女子のとある先輩の番に、僕は何故か泣いてしまった。
卒業する先輩のことも知らない、話していた懐かしい(お世話になったのであろう)エピソードのことも知らない。なのに当事者(のふたり)の先輩より泣いてしまったから、なんでススキが泣いているのかと笑い泣きされてしまった。
たぶん僕は、お別れが苦手なんだろうと思う。
苦手だから、春がお別れの季節だなんて思えないのだ。
別れに季節なんてない、さよならを季節のせいになんかできない。
さよならに、先輩たちみたいな“物語”があることは分かっているけれど、できることならその物語に触れてしまいたくない、とさえ心のどこかで思っている。
どうせ泣いてしまうんだから。
そうは言っても、(例えば年度の変わり目をきっかけに)、どうしようもなく離れてしまう世界線というものは存在するんだろう。
物語で泣いてしまうんだけど、物語はちゃんと紡いでいきたいし、決して忘れてなかったことにはしたくないんだよ。
いっそ、忘れてしまえないからさよならが苦手なのかもしれないよね。
さよならに季節なんてあってたまるかよ。
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明日が良い一日になりますように。
最後まで読んでくださりありがとうございます。読んでくださったあなたの夜を掬う、言葉や音楽が、この世界のどこかにありますように。明日に明るい色があることを願います。どうか、良い一日を。