多様性チャンスとその期待に応える俺たち

職場、学校、催し物のみならず映画のような作品においてさえ、アメリカではダイバーシティへ配慮が段々と厳しく問われるようになっており、「色んな人種、性別、年齢、体形、見た目の人が受け入れられています」というアピールを分かりやすくせざるを得なくなっているように感じられる。

最近のアメリカのCMは登場人物がほぼ有色人種が占めており、その年齢、体形も様々。アフリカ系だけでなく中東、ヒスパニック、アジア系などなど、逆にモデル風の若く健康的な白人を見る機会が少ない。一方日本のCMではなぜかいまだに「仕事のできるビジネスマン=白人とデカい机で商談!」が主流なように、とにかく我が国では高級品のCMと言えば白人イケメンモデルと相場が決まっている中、アメリカでは最近は自動車のCMにもふくよかなアジア系の中年男性が特にお笑い枠でもなんでもなくごく自然に出演し俺などは「デブのオッサンでも堂々と生きてていい」というアツいメッセージを感じずにはいられない。

この様にダイバーシティへの配慮が様々な形でアメリカに浸透している事はCMや映画だけでなく実体験としても割と身近に感じることが多々ある。例えばうちの子供が入っているサッカーチームのパンフレットでは「アジア人もいるぜ!」というアピールなのか、全身が写った逃げようのない完全なるこの俺の写真が勝手に掲載されていてこの同じ俺の写真は最近完全にチーム内でフリー素材化しているらしく何かイベント告知があるたびにFacebook、Instagramなどで「あのアジア人もくるぜ!」とばかりにやたらと使いまわしされるようになってしまった。わしゃ行きづらいんやわ。

とあるマラソン大会でゴールした後にも大会のオフィシャルカメラマンが「おっ!多様性チャンス!」とばかりに俺に近づいてきてパシャリ、その写真は大会の公式サイトに使われることとなり、また別のマラソン大会では息子とその友達が「商品を持って写真に写ってくれない?」と、大会スポンサーである某食品メーカーのプロモーションビデオにアジア枠として唯一出演することとなった。

ダイバーシティへの配慮というその匙加減も難しく、一時期はアメリカでさえアフリカ系アメリカ人に偏りすぎているのではという逆差別のような指摘もあったほど。変に憶病になってやりすぎるのもまた思慮が乏しく配慮になっていないのかもしれない。過剰になったり、どこかに一つに偏らぬようにと、これとこれとこれは最低限埋めようとすると究極はダイバーシティシートのようなビンゴシートのようなものを作り埋めていく時代もくると悲しいものであるが、そこにはきっと「歯並びが悪い」「一重まぶた」「体型がひょうたん」(全部私の事です)といった形で全く一切の悪意はないものの細かい設定が割り振られているのかもしれない。

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