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フィルムで撮るもの。

フィルムカメラで僕は何を撮るのだろう。
このところ、ふと考えることがある。

この三ヶ月くらい気合いを入れて撮影していて、怒涛の勢いでフィルムを使った(怒涛といっても月ブローニー五本くらい。これでも倍ペース)。もちろんフィルム写真の魅力はある。その色の出方やハイライトの粘り、中判なので臨場感の出るボケ…。良いところはたくさんだ。それは知ってるつもり。

その一方、弱みもある。

マニュアルフォーカスだけに瞬間を撮りきれない、暗所に弱い、枚数が撮れない、撮れているか分からないのでその場で修正できない…。などだろうか。

最近は職人さんを撮らせてもらったりしているが、長所も短所も感じた。弱点に目がいったときはすかさずミラーレスのFUJIFILM X-T3に手が伸びた。それは僕がきっと「きれいに撮ろうとした」からではないか。そう思った。

気持ちを記録する

三年ほど前になるが、フィルムカメラを手にとった理由は、子供の写真を一枚一枚丁寧に撮ろうと思っていたから。デジタルで、スマホでバシバシ何十枚も撮るのもより一番いい顔が撮れるかもしれないが、どうも一枚が軽く感じてしまっていた。

そんな頃だったから、フィルムを使いはじめたのは、綺麗に撮ることよりも、その時に僕が何を感じていたかを記録したかったかもしれない。そしてそれをネガ、写真というモノとして残したかったのだろう。いつか子供が見て何か伝わるように。記録し、伝えていくために撮っていた。

写真をずっとやっていると、時として、自分を見失うことがある。上手になりたい、仕事にしたい、認められたい。いろんな欲求が出てくる。仕事にしよとする過程で、本来の自分の目的を見失いがちになる。

カメラマンとしてちゃんと撮ることは求められ、そのためにはデジタルの能力に頼ることは多くなる。実際にこの頃の僕はそうだった。綺麗に撮ろうという意識が強かった。それは仕事としてやっていきたいからだろう。その気持ちと、フィルムカメラを手にすることがどうもフィットしていなかったのだ。コストがかかる、失敗するリスク。どうもフィルムの悪い面ばかり目がいっていた。それは写真を仕事としてばかり見ていたからだろう。

でも、フィルムを使う理由に、本来の目的に立ち返ってきた。家族にカメラを向けることがまた増えてきた。一枚一枚に、言葉を載せるようにシャッターを切っている。フィルムを仕事写真で使わないということでもなく、その質感を生かしたいことも当然出てくるとは思うけど。
ま、語るしく考える必要もないかもしれないな。

「あ、フィルムで撮りたい」

そう、心が動いたときを大事に。



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