なぜ人は静寂を恐れるか

私たちは静寂の空間にいることに耐えられない。
静寂の中で何時間もたたずんでいることができない。
静かな空間にいると、焦燥や不安、退屈がわき起こってくる。
そして漫画を読んだり、さして興味のないテレビや音楽を閲覧する。

私たちにとって、静寂は恐怖である。

なぜだろう。

漫画やテレビや音楽は物質世界の産物である。
それ対極に、あの世界、そう、霊的世界がある。
霊的世界というとスピリチュアルに聞こえるかもしれない。
言い換えれば、生まれる前の状態。
宇宙にぶら下がった状態、宇宙の一部、いや全体と言ってもいいかもしれない。

物質世界と霊的世界の真ん中に流れているのが静寂だ。

静寂が恐怖となるのはなぜだろう。

その鍵が言葉と概念だ。
私たちは生まれてこの方、さまざまな言葉や概念を植え付けられている。
身近な例をあげれば、キリスト教文明による植え付け、マスメディアによる植え付け、高度資本主義社会の消費による植え付け。
洗脳などという言葉は使いたくないが、潜在意識に植え付けられたさまざまな概念が心の中でざわついている。
静かにしていると、生産に寄与していない不安が訪れる、がんばって生きていないという罪悪感が訪れる。生きている意味は何かなどという不毛な哲学めいた妄想に苦しめられる。そしていつもこれらの問題を抱えて、消費し、過食し、倒錯する。

自分にはインテリジェンスがあると自負している人の中には、このような苦しみが顕著な傾向がある。

一度、言葉や概念を根底から疑う必要がある。
言葉や概念を一度、殺す必要がある。
自分を解体する必要がある。
ただしこれに失敗すると気が狂う。
私は一度、失敗して社会から離脱してしまった。
だから、強くはオススメしない。
しかし、それを実践して、超越したとき、新たに見えてくる地平があるのも間違いないだろう。
下世話なアジテーションに聞こえるかもしれないが、それは事実だから仕方がない。

私たちは言葉と概念の牢獄で悲鳴をあげてる。
ただし、そこから自由になる可能性も所持している。

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