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坂元棚田の特徴-石積畦畔-

坂元棚田を訪れると、とにかく最初に目に入るのは、石積みの畦畔、石垣の迫力である。

棚田の石積は、畦畔つまり畦(あぜ)であり、法面(のりめん)と呼ばれる斜面でもある。全国の棚田には畦畔を土坡、つまり土で作ったものも多く見られる。上の水田と下の水田の高低差が比較的小さいならば土坡の畦畔でも十分だ。しかし、棚田は傾斜地にあるため、水田区画ごとの高低差は大きくなりがちである。土坡の畦畔は大雨のとき崩れやすいため、構造的に安定させるためには土台となる斜面の下側を広くする必要がでてくる。したがって、高低差が大きくなるほどこの斜面が大きくなり、まるで河川堤防のように大きな斜面(法面)を持つようになる。そうすると下の水田の一部が法面にあてられてしまうため、農地として使える面積が小さくなるという弊害が発生する。このように本来農地としたい土地が、斜面などによって使えなくなるところを潰れ地という。潰れ地が多くなると、耕作可能な水田面積が減るので、当然これをできるだけ小さくすることが望まれる。

その点、石積畦畔はこの潰れ地問題を軽減できる。つまり、斜面をほぼ垂直にすることができるため、高低差が大きくなりがちな傾斜地では石積が好まれるのである。幸い坂元地区は、もともと地滑り地であり、石材が豊富な土地である。その豊富な石材を利用した石積で区画を整えるよう設計することで、潰れ地を小さくし、少しでも耕作可能な土地を広くすることができたのである。

石の積み方には、材料となる石の用材と構築の仕方によっていくつかの様式に分類される。

用材の分類では、自然石を用いた「野石積み」と、自然石を大割小割にしたものを用いた「樵石積み」の二つに分けられる。坂元棚田の石積は、ほぼ自然石をそのまま用いているため、「野石積み」に該当する。この「野石積み」は、さらに自然石の形状によって四種類に細分される。凸凹して角張ったものを使用する「野角(のがく)」、丸味のあるものを使用する「呉呂太(ごろた)」、やや扁平で長めなものを使う「野板」、そして、大小形状さまざまな石をとくに選別することなく使う「乱石積み」である。坂元棚田の石は、凸凹して角張った角礫が多いため「野角」のように思われるが、大小、形ともに様々な石をそのまま使ったり、ときに割って使用している所もあるため「乱石積み」に相当するといえよう。

構築の仕方には、「整層積み」と「乱層積み」の二つがある。「整層積み」は、上の石と下の石の間の目地を、横一直線にきれいに整えながら石を積んでいく方法。もう一方は、凹凸のでき方は使う石に任せながらも、積みの凹部と石の凸部を合わせながら積んでいく「乱層積み」という方法である。坂元棚田では、とくに目地が整っているわけではなく、その場その場で石を組み合わせていることから、後者の「乱層積み」となる。

したがって、坂元棚田の石積は、用材と構築の仕方で分類した結果、「乱層乱石積み」と呼ばれる積み方である。この積み方は、日本の農村で最も多く見られるタイプの石積畦畔でもある。

石垣や石積は、古くは城や宅地にその姿を見ることができる。それらにはさまざまな技法が用いられるが、田畑の石積畦畔を構築する場合、城や宅地の石垣とはひと味違った注意が払われる。特に注意を要する点は大きく三点あるという。

一点目。石積は畦畔となって隣の農地との境目になるので、根石とよばれる土台になる大きな石を正しく、境目にはっきりと置くことが一番大切なこととされる。つぎに注意を払うべきはその勾配。石積畦畔の勾配は二分とし、上部は「のりかえし」に積んで仕上げることが望ましいとされている。二分勾配というのは、高さ1 mに対して、下側が20 cm前に出る勾配をいう。もしこれよりも勾配が急になると、崩壊を招きやすくなる。逆に、前に出る割合が大きくなれば、下段の農地を石積畦畔が侵食する潰れ地が大きくなるため、これも問題となる。きちんと二分の勾配で積んだ石積の最上部は垂直にして、上を整える「のりかえし」を施し、上段の農地の形を整える。この最上部の石を天端石といって、面が下向きになっている石を選んで特別に仕上げて積み、上段の農地が石積ぎりぎりのところまで耕作できるようにする。この天端石による整形が三つ目の注意点である。石積みでくみ上げる農地が水田の場合は、とくにその内側に粘土をいれてしっかりと締め固め、脱水を防ぐことが大事である。

坂元棚田に見られる石積畦畔は、日本の多くの農村で見ることができる「乱層乱石積み」のとても一般的なものである。城や宅地の石垣とは違り、水田の石積なので注意を払う点はあったものの、特別の技法が用いられているわけでもない。しかし、多くの石をたくさん積みあげるには、そうとうな人手が必要だったとされている。宮崎県諸塚村に残る石積畦畔を調査した中島(1999)によると、10 a の棚田を造成するのに延べ 400 人もの人手が必要だったと報告している。坂元棚田でも工事時の出役簿が残されており、これを調べると述べ ○ 人で石積みを積み上げていったことがわかる。

昭和3年に綴られた「近世飫肥史序」によると、江戸時代の飫肥藩は、他藩と同じように、幕府から各地の土木賦課、つまり土木工事が命じられていた。平和な江戸時代に酒谷村には、多くの足軽たちが住んでいたので、これらの土木工事に参加していたものも多くいたと思われる。加えて、寛永安政に浦賀沖にペリーの艦隊が現れたことによって、飫肥藩でも油津、外浦の海岸防備を増強する必要に迫られた。その証拠に、江戸末期に港湾の整備や砲台築設といった土木工事が行われている。港湾の整備では、防波堤等の石積工事は必要不可欠なため、一連の港湾工事を経験したもの達が飫肥藩には数多く居た。

これらの時代を経ての大正末期、昭和の初めにはじまった坂元の耕地整理事業。昔から農地が乏しかった酒谷村に、村民が待ち望んだ新しい農地を作り出そうとする一大事業が巻き起こったのだから、かつて石積工事を経験したものたちも多くその工事に加わっていたと推測される。しかし、前述のように石積工事には多大な労力が必要である。そこで、坂元地区の住民達もその工事に加わり、その工法をまねながら、次第に石積技術を習得していった。坂元棚田に住んでおられる方々に話を伺うと、耕地整理の時には多くの村民が石積作業に加わったという。実際、記録にもほとんどの住民が石積工事に携わっていたことが残っている。この時の石積技術を身につけた人々は、その後も時折崩れてしまう石積を自分たちで補修してきた。今でも、台風などの激しい雨で崩れてしまう石積みの修理は、地元農家たち自らが行っている。しかし、かつて石積工事に携わった人々の多くは、すでになくなられており、いま石積技術の継承が課題の一つとなっている。

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