坂元棚田への道-宮崎県の耕地整理史-

明治初期の田区改正の流行、耕地整理に関する法制度の整備、それに伴う技術者養成講習や上野英三郎による「耕地整理講義」の刊行という一連の流れの中で、着実に我が国の耕地整理・農業土木技術は熟成されてきた。技術の熟成とともに、全国各地で開墾、開拓、耕地整理事業が盛んに実施されるようになった。

しかし、残念ながら宮崎県の事情は全国のそれとは少し違っていた。なぜならば、明治維新直後に断行された廃藩置県の混乱が長引いていたためである。藩が廃止された当初、現在の宮崎県にあたる地域には、日田・延岡・高鍋・佐土原・飫肥・鹿児島・人吉の7県にまたがっていた。その後の何度かの統廃合を明治6年にようやく宮崎県が置かれた。しかし、そのわずか3年後の明治9年には、なんと宮崎県は廃止されてしまい鹿児島県に合併されることになる。そしてそしてさらにその翌年には、西郷隆盛を盟主にした西南戦争が勃発してしまい、宮崎県内も多くの場所が戦場となってしまった。その影響はとても大きく、人的にも物的にも大きな被害を受けてしまったため、その後の宮崎県の発展が遅れる原因となった。

明治13年から始まった「日向国分県運動」により、ようやく明治16年に鹿児島県から分離して、再度宮崎県が置かれた。ここに至るまでの行政府分属の混乱は、宮崎における経済的な空白を生み、産業開発・振興の停滞をもたらした。分県運動に奔走する有志たちが綴った嘆願書には、再配置後の宮崎県の発展策が述べられている。その中心は、温暖な気候と広大な未開地を開墾して、収益を拡大し、人口を増やすことであった。そのために、県民一体となった農業組織を整え、事業を推進していくことを目指すとした。経済的な復興を成し遂げるためにもまずは農業の基盤造りを着実に進めていこうと意気込んだのであった。

全国的には、地租改正や明治17年の地租条例の公布を受けて明治初期から盛んに開墾事業が行われていた。一方、宮崎県では先に見たように政治的な混乱のため、この流れからは完全に外れてしまっていた。明治26年頃になって、ようやく開墾への気運が高まり、県内各地で事業調査が実施され、多くの場所が開墾されていった。

この頃に酒谷村の坂元、現在の坂元棚田の地に、最初の開田計画が持ち上がっている。しかし、坂元地区はかつての大規模な土砂崩壊によって誕生した扇状地なため、大きな石や礫が多く、水持ちが非常に悪い土地であった。そのため、この地を農地として利用するためにはまず、大量の水を確保することが必須であった。そこで、まず計画されたのが近くの渓流を水源として、そこから尾根を超えて水路を開削し、この地まで水を引くことであった。しかし、まだこの当時の土木技術が未熟であったために、ついにはこの水路を完成させることができず、開墾計画も頓挫してしまった。このときの水路の痕跡を後の技術者は山中で発見し、設計書にそのことを記載している。

この当時の宮崎県における技術水準の未熟さは、他所でも現れていたようである。明治33年に、宮崎県でもようやく事業としての「田区改正」が宮崎、南那珂、東臼杵の一ヶ所ずつで実施されたが、技術的には大変未熟なものだったと記録されている。そのため事業実施による農業収入の増加はごくわずかであったようで、事業の実施効果が見込めないため、その後あとに続く事業はなかった。

翌年、延岡(当時・恒富村)で実施された暗渠排水併用の田区改正事業は、水田を乾田化することに成功し、大いにその効果が認められた。暗渠排水とは、水はけの悪い農地のなかに溝(渠)や穴の開いた管路を埋めて、余分な水分を取り除く(排水)ことである。この事業で、常に水がたまった状態なため湿害をおこし、生育不良が続いていた水田(湿田)を、乾田化することに成功した。そのため、稲の増収とともに、裏作も可能になった。二毛作が可能になったことで、さらに収入増加をもたらした。この評判はたちまち広がり、その後、県内各地で暗渠排水併用の田区改正事業が実施されるようになったという。しかしこれは、区画整理や耕地整理による農業収益の増加ではなく、あくまでも暗渠排水による農地改良である。必ずしも技術水準が上がったのではなかった。しかし、それでも排水改良によって、大幅に農作業はしやすくなり、収益も上がったことから、田区改正事業は大変注目されるようになった。

宮崎県における耕地整理法に基づく事業は、明治36年、県農会の奨励で東諸県郡木脇村(現国富町)にて実施されたのが最初である。県農会とは、農業の改良・発達と農業関係者の福利増進を図ることを目的とした地主・農民の団体である。このときも工事の主体はあくまでも暗渠排水であった。耕地整理法制定から4年後のことである。その後も、耕地整理の必要性は認められつつあったが、なかなか事業の実施には至らなかった。

明治38年になっても県内で耕地整理事業がいっこうに進まないことを、第九代宮崎県知事・岩男三郎は苦慮していた。そこで、南那珂郡東郷村長(現日南市)の郡司萬三郎を、耕地整理事業の先進地である静岡県・愛知県へおくり各地を視察させた。この視察の効果は絶大で、耕地整理事業の効果を目の当たりにした郡司は、宮崎へ戻ると耕地整理事業の重要性を説いた文書を知事に提出した。その後、直ちに東郷村内の耕地整理事業を立案し、早速事業を断行したのだった。明治39年10月にはもう起工し、41年10月に工事が開始されるほどの早さだった。工事が始まると噂を聞きつけた各地の地方官や、地主たちがどっと視察に訪れたという。東郷村における一連の展開に触発されて、この後、耕地整理事業が急激に進行し始めることになる。

明治39年。郡司の報告書を受けて、宮崎県は耕地整理を本格的に推進するための耕地整理一〇カ年計画を定めた。さらに、宮崎県農商務課に耕地整理の専門部署を設置し、専属の技術者として、耕地整理技手三名、測量手六名、測量助手六名を配置した。しかし、耕地整理の専門部署とはいえ、彼らの業務は調査・設計が主であったという。というのもこの頃の耕地整理事業は、県農会に工事を委託していたため、宮崎県が事業を実施することがなかった。しかし、その委託事業のほとんどは暗渠排水事業だった。そのため耕地整理の専門部署の設立は、大きな転機となった。このころ、耕地整理技術員養成講習が東京帝国大学農学科で開始されている。上野英三郎の著書「耕地整理講義」が世に出たのもこの頃で、耕地整理にかかわる専門技術者の重要性が地方自治体レベルでも認識されはじめたということである。

明治43年に「宮崎県耕地整理奨励規定」が制定発布された。これによって、県農会に委託していた耕地整理事業の設計・調査・工事監督を、県が実施することになった。この規定により宮崎県の耕地整理事業は著しく促進されることになる。

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