見出し画像

坂元棚田の特徴-馬の道-

坂元棚田は、この地に豊富にある石材を使って畦畔を築くことで、急傾斜地でありながら長方形区画の水田群を生みだすことに成功した。このことは、区画を整えることで作業効率を向上させることが重要だと説いた上野博士の考えを現実のものにしたことになる。石積畦畔は、長方形区画の他に、もう一つ重要なコンセプトの実現を可能にした。

それは、道の新しい配置方法である。

坂元棚田の地図を見ると、上から下までまっすぐに貫く道が三本通っていることに気付く。この道は、長方形区画の短辺に沿って配置されている。この配置方法は、馬を使った耕作のためのもので、農地にはそれぞれ小さな進入路がつくられている。道から自分の農地まで、他人の農地を通ることなく馬を連れて行けるよう配慮されているのだ。ただし、一部の農地、とくに古い田を改良したところには、一方からしかいけないところが存在する。それでも、そういったところは、他の水田よりも大きな幅を持つ畦畔が作られている。

坂元の耕地整理が計画された当時、すでに農業の先進地では機械による耕作が始まっていた。しかし、これらの農業用機械が一般に普及するのは戦後の高度経済成長期までまたなければならない。坂元で工事が始まった昭和初期の農村では、まだ人手による耕作が一般的で、馬をつかった耕作は平野部の広い農地に限られていた。しかし、この坂元では、林業に馬を用いていたこともあって、各農家は馬を保有していた。これを荷物の運搬のみならず、耕耘作業などにも馬を使えるような配慮が施されたのだ。

農地の区画は五畝もしくは三畝とし、長辺が長すぎない長方形に設計されたのもそのためである。上野英三郎の「耕地整理講義」の中に馬を使った耕作・農地のことが詳しく記載されている。それによると、馬は回転が苦手なため、なるべく往復数が少なくなるよう、正方形よりも長方形の方が良い。また、長辺が長すぎると馬が疲れてしまうので、適度な長さに抑えることも作業効率を上げるには大事なことである。

坂元地区にずっと住んでおられる坂元棚田保存会の会長・古澤家光さんにお話を伺うと、子供の頃棚田のあちこちで馬を使って農作業をする様子を見ていたという。当時、坂元地区の暮らしには馬は欠かせないものだったとか。地区に残る住宅にはかつて馬とともに暮らしていた形跡が残されている。宮崎大学教育文化学部の米村敦子教授が実施した坂元集落の調査によると、かつて農耕用の馬を飼っていた家が4 戸、林業用が2 戸、兼用が2 戸あったそうだ。それぞれ昭和 40 年代までは馬と共に暮らしていたという。中には、平成 2 年まで馬を飼われていたところもあるそうだ。この地域では棚田が開墾される前から、馬は大切な労働力だった。おもに、林業の現場で馬が活躍していた。馬とともに飫肥杉林の中に入り、切り倒した丸太を馬を使って搬出していた。棚田が開墾されてからは、農耕に利用されるようになり、坂元棚田で耕作していた農家のほとんどが、昭和 40 年代まで馬を使って耕作をしていた。

馬とともに暮らしてきた形跡は、住宅だけでなく、坂元棚田の道の中に今も見ることができる。中央の長方形区画水田の横を通る二本の道。西側の道はすでに車の通行のためにアスファルトによる舗装がされている。しかし、東側の道はまだ当時のままの姿で残っている。棚田下の駐車場から少し東側に歩くと、その道の最下端が現れる。その石垣には「馬耕の道」と書かれた札がかかっていて、そこから上の方までまっすぐに伸びる様子を見ることができる。かつてはここを馬が歩いていた。そう思うとまた棚田を見つめる視線も変わってくる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?