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坂元棚田の特徴-地形-

大正14年に宮崎県耕地整理課の松井梅次技手によって坂元棚田は設計された。松井による坂元棚田の設計の中に、当時の耕地整理学の思想がどのように反映されているのかを見ていこう。この章の内容は、日南市坂元棚田文化的景観保護・活用委員会の委員としての調査に基づいているが、その後の調査で明らかになったことも加えながら紹介する。少し詳細に、学術的な側面にも触れながら坂元棚田の特徴に迫っていく。

まず、坂元棚田の土台となっている地形や地質について見ていくとしよう。
坂元棚田の地形の全容は、展望台からみえる棚田景観の中に集約されている。棚田空間の基本構成は、最上部を頂点(扇頂)に、低くなるに従って底辺(扇端)が広がっていく扇状地である。扇央に広がる棚田付近の勾配は、1/6.7と急ではあるが、周囲の山地に比べれば、なだらかな土地である。このような山中の扇状地は、その昔この地で地滑りの発生があったことを示している。

地質的に宮崎県南部一帯は西日本外帯の四万十帯に分類される。とくにその南側の四万十南帯は新第三紀に海洋プレートによって運ばれてきた深海底の地質に、堆積した砂や泥が入り交じりながら固まり大陸プレートに追いやられてできあがった。そのため、砂岩や泥岩が相互に重なっているのが特徴である。とくに泥岩が粘土化したところは「第三紀地滑り」と呼ばれる地滑りの多発地帯となる。九州山地から宮崎側、鰐塚山地、南那珂地域は四万十累層群に分類され、とくに坂元地区は日南層群と呼ばれる一帯となる。この層の泥岩はとても、薄く、細かく、割れやすい。このような泥岩を特に頁岩といい、この地区の基盤はこの頁岩層で構成されている。くわえて棚田のそばを断層が通っているため、断層活動の度に、頁岩が細かく割れ、多数の石屑が生成されている。この基盤の上に、2万8000年前の姶良火山の噴火によって発生した大規模な火砕流の堆積物が積もっている(入戸火砕流堆積物)。この堆積物の固まっていない部分をシラスといい、その名の通り全体的に白っぽく、軽石や火山灰が多く、砕けた岩片なども含んでいる。坂元棚田から南東に4 kmほどの場所にある小布施の滝には、こういった地質的な特徴をみることができる。この滝は、河川が溶結凝灰岩を削ってできた溝から、23 mの崖を流れ落ちる水の造形である。この溶結凝灰岩は、日南層群の黒い頁岩層の基盤の上に堆積した入戸火砕流堆積物が固まったものである。

地形の成り立ちを推察すると、まず棚田の東側の山が崩れて谷川を埋めつつ盆地状の地形が形成されたと考えられる。その後棚田の北側の尾根が数回にわたって崩れ、元は谷だった部分に水がたまるたびに、土砂を流出させていった。徐々に盆地を埋めるように土砂が蓄積されていき、扇状地形が形成されたのである。この扇状地の土台になっているのは砂岩泥岩互層と泥岩層で、その上に砂岩泥岩層の崩れた岩石がのっている。この豊富な岩石が、棚田の石積みの石材として利用されている。

崩れた岩石が積もってできた扇状地形。岩ばかりで土の少ないゴツゴツしたこの場所の保水性はほとんどない。それでも、もともと谷だったため、上流から絶えず水は流れてくる。しかし、堆積物のためにはっきりとした川筋をなくしてしまった水は、わずかな低い場所を見つけながら流れていく。やがて川筋ができあがるものの、それ以外の場所は水気のなく乾燥した土地だったであろう。南側斜面にできた扇状地形のため日当たりの良さは抜群だったが、それがかえって土地の乾燥度合いを強めたと考えられる。川筋から離れた場所ほど水がなく、樹木も育ちにくいため、ごつごつとした岩があちこちに見られる荒れ地の状態が長く続いたと想像される。

濃緑の樹木に覆われた山中に、樹木もない原野が広がり、日当たりも申し分の無いこの場所をみた人々は、ここを農地に変えることができれば、と幾度となく夢見たに違いない。実際、後の松井梅次による設計書には、耕作に適した土地としてこの地を認識していたことを多くの有識者・地主たちの証言として記載している。

それにも関わらず、昭和3年までこの地を農地に変えることはできなった。農地にするには、そのままではあまりにも谷の水が少なすぎたためだ。それでも農地を求めた人々は、わずかな川筋のそばに小さな田を作り、コメを作っていたが、収量はごくわずかだった。荒れ地のなかでは、とくに区割りすることも無く、ただ地形に任せた小さな畑をつくって、雨水だけを頼りに麦や甘藷を育てていた。それもままならない場所は、茅場として、ただそこに生えるススキなどを屋根材に用いるぐらいしか、活用するすべが無かった。ここを農地に変えるには、それを可能にするための土木技術の登場を待つしかなかったのである。

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