取り残された坂元棚田

坂元棚田が完成した昭和初期、日本は食糧不足のまっただ中にあった。そのため、完成した棚田で始まった耕作で収穫されたコメは、地域の食糧供給に大きく寄与した。これは酒谷村の農村の暮らしを安定させるとともに、戦後混乱期の地域経済の安定にも、一定の役割を果たした。

しかし、世の中が高度経済成長を迎え、食生活が多様化し、米不足が解消されるようになると、状況が変わった。今度は米余りの状況へと一転し、米価格は下がり、農家所得も下がってしまった。もともと平地の水田に比べて収量の少ない棚田は、やがて所得を得るためのコメづくりから、自身と家族の食糧を確保するためのコメづくりへと変化していく。

一方で、全国の多くの農村では、農業所得をあげるために、農業生産性の向上が計られた。明治・大正期の耕地整理よりも、遙かに大規模な耕地整理、「土地改良」とよばれる農地の改良が急ピッチで進められることになった。この時期に展開された農業の近代化は主に四つある。農業の水利化、機械化、化学化、装置化である。

水利化とは、灌漑用水の整備、排水施設の整備、ほ場区画や農道の整備を示す。水利化を前提としつつ、同時に農業の機械化が進められ、耕うん機やトラクター、田植機、コンバインといった大型・中型の専用機が積極的に導入された。これら機械化の効果を発揮するには、農業の化学化も欠かせなかった。化学肥料、各種有機農薬などに加えビニール素材の農業資材などが専用の農業機械とともに農業に導入されていった。最後の装置化とは、一定の装置によって自然条件をコントロールしようとするもので、ビニールハウスやガラス温室等で温度や日照条件を制御しようとするものであった。いわゆる施設栽培とよばれる農業の展開である。これらの農地改良が1960年代後半以降急速に進められ、日本中の農地が近代化を目指して再整備されていった。

坂元棚田はこの流れに完全に取り残された。棚田が完成したのが昭和8年であることは何度も述べている。耕地整理事業によって新しく誕生した119筆の農地すべてについて、その所有者が定められ、すべての手続きが完了したのが昭和27年(1952年)だった。工事が完了してから実に19年後のことである。全国の農地が急速に近代化しはじめた1960年代にあって、坂元棚田では、大正時代の設計で完成した「新しい農地」で農家全員が、気兼ねなく、稲作をできるようになったばかりという状況だった。全国の農村では、すでに次の農地の形へと順次移行を始めていたにもかかわらず、だ。坂元で耕地整理事業を始めるにあたって、耕地整理組合では多額の借金をしている。計画通りに耕作し、農業所得を得る中でこの借金を返済していかなくてはならない。それなのに、世の流れに乗って、次の新しい農地へ変える新しい事業を始められるわけがない。時代遅れだけれども、完成したばかりの真新しい農地・棚田の機能を最大限に活用して、米作りを続けていくしかなかったのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?