ハチ公

坂元棚田への寄り道-ハチ公物語-

農業土木学の原典ともいわれる「耕地整理講義」を書き上げた東京帝国大学の上野英三郎。彼は忠犬ハチ公の飼い主としても知られる人物である。忠犬ハチ公といえば、東京都渋谷駅前の像が待ち合わせの場所として有名である。しかしこの像が建てられて80年以上も経過しているので、ハチ公の物語を知らない若い世代も多い。そこで、坂元棚田の物語からは少し横道にそれてしまうけれども、2015年にハチ公の物語を再整理して出版された「東大ハチ公物語」を参考に簡単に紹介しよう。

大正13年(1924)1月。彼が52歳の時のこと。渋谷にあった上野家に、秋田より一匹の白い犬がやってきた。その犬はハチと名付けられた。上野博士は、体の弱かったハチを、自分のベッドの下に寝かせるなど細かい気遣いをして、大いにかわいがっていた。ハチは上野博士の送り迎えを日課にしていた。この送り迎えというのは本当に送り迎えで、ハチは駒場にある大学の校門まで上野博士と一緒に歩き、主人が大学構内へ入っていくとひとり自宅へ戻り、夕方になるとまた大学まで迎えに行くのだった。学生たちは、上野博士の家を訪ねるといつも家の中にハチもいて、とてもかわいがられている飼い犬を「ハチ」と呼び捨てにするのが気が引けるため、「公」を付けて「ハチ公」と呼ぶようになったという。

大正14年5月21日のこと。いつものようにハチに見送られた上野博士は、勤務先の東京帝国大学で倒れ、そのまま逝ってしまった。わずか53歳。この日も大学に博士を迎えに行ったハチであったが、博士に会うことができなかった。帰宅したハチは、博士の最後の着物を置いた物置にこもったまま三日間なにも食べなかったという。5月26日の葬儀の朝には、博士の棺の下に潜って出てこようとはしなかったらしい。

葬儀の後、渋谷にあった家を出ることになった夫人とハチ。しかし、ハチは引っ越した先での生活になじめず、渋谷に通い、渋谷で過ごすようになっていったという。おとなしいハチは、渋谷で顔に墨でいたずら書きをされたり、ベルトを盗まれたりした。その様子を日本犬保存会の斉藤弘吉が偶然見かけたのだった。斉藤氏は、ハチの悲しい事情を人々に知ってほしいと思い、新聞に寄稿した。その新聞記事が評判となり、ハチは駅員や売店の人にかわいがられるようになり、やがて「忠犬ハチ公」と呼ばれるようになっていった。
 
ハチは上野博士の死後も、毎日渋谷駅へ通い、改札口から出てくる人のなかに上野博士の姿を探し続けた。しかし、上野博士は生前、渋谷駅から大学に通勤していなかったという。上野博士は徒歩で、ハチとともに大学まで通勤していた。上野博士が渋谷駅を使うときは、農商務省に行くときや全国各地へ調査や講演に出かけるときだけだったのだ。

あるとき、上野博士が長い出張から帰ってくると、ハチが渋谷駅の改札口で待っていたことがあったのだという。それを上野博士は大いに喜んで、ハチを抱きしめ、ご褒美に駅前の屋台の焼き鳥を食べさせたのだとか。そのときの鮮明な記憶がハチの中に残っていたのだろう。何日も帰ってこないご主人は、きっといつか渋谷駅の改札口から現れるはず。ハチはただただ素朴に博士を待ち続けたのだった。

ハチが待ち続けた渋谷駅には、銅像が作られ、人々の記憶に残るようになった。昭和10年3月8日。ついにハチも11歳でなくなった。ハチの葬儀は盛大に行われ、今は青山霊園にある上野博士の傍らで眠っている。

それから80年を経た2015年3月のこと。待ち続けたハチはようやく上野博士と再会することになる。上野英三郎が教鞭を執っていた東京帝国大学農科大学農業工学講座は、現在東京大学農学部農地環境工学研究室として、農業土木の教育と研究が続けられている。その後継者たちが有志を募り、上野博士とハチが再会する場面を描いた銅像を作ったのだ。それを記念して盛大にシンポジウムが開催され、ハチの物語も改めて出版された。

主人に会えて喜ぶハチの姿が何とも微笑ましい。その姿は東京大学農学部構内で誰でも自由に見ることができる。

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