坂元棚田への道-松井梅次-

明治44年3月13日。朝鮮総督総務部長官だった有吉忠一が、第13代宮崎県知事に就任した。有吉知事の登場は、宮崎県の耕地整理事業を大きく発展させる転機となる。他県に比べて遅れていた宮崎県の耕地整理の状況を改善すべく、有吉知事は就任早々それまで耕地整理技手と測量手に分けていた技術者を、農業技手に統一した。さらに農商務課の一部署に過ぎなかった耕地整理課を、内務部に移して独立させ、事業促進体制を整えた。そして、その二ヶ月後には県主催で耕地整理講習会を開催し、知事自らが訓辞を述べ、技術者育成に力を注ぐ姿勢を示した。

明治45年。独立してより重要性が増した耕地整理課に、29人もの大量の技術者が配属された。その中に、のちに坂元棚田を設計することになる松井梅次技手も含まれていた。松井梅次は助手ではなく、すでにこのときから技手であった。つまり一人前の技術者として配属されている。松井梅次が入庁前に、どこかしかるべき場所で耕地整理や農業土木に関する教育を受け、その技術を習得していたことを意味する。これ以前の彼の生い立ちを調査を試みたものの、入庁前の明治40年~44年頃の彼の足跡をつかむことができなかった。この時期に、どこかで耕地整理や農業土木技術に関する専門教育を受けていたと推測できるが、この当時、耕地整理の専門教育を受けれるところは、耕地整理技術員講習をおいて他にはない。農学や工学の大学、専門学校は各地にあったが、耕地整理の専門科目はほとんどなかった。耕地整理を学び、その技術を習得するには、東京高等農学校か、東京帝国大学農科大学で実施されていた講習を受けるしかない。講習の受講生に関する記録はほとんど残っていないため、松井がどちらの講習を受けたのかを知るすべはない。どちらにしても、このときすでに教科書として使用されていた「耕地整理講義」に基づいて、上野英三郎の考える近代農業の在り方、そしてそれを実現させるための耕地整理技術をしっかりと身につけたに違いないのである。

県庁の一職員である松井の素性や学歴を詳しく追うことは非常に難しい。しかし、県庁の職員名簿の中に在りし日の彼の姿を見ることができる。松井はまず、南那珂郡つまり現在の日南地域の事業を受け持っていた。その後、東臼杵などに担当が変わることがあったものの、日南地域を担当することが多かったようである。彼の名前を最後に確認できたのは昭和13年・富島農業水利改良事業所の地方農林技師として。在職期間は約25年。最初から最後まで技術者として宮崎県の耕地整理・農業土木事業に尽くした。

明治44年の有吉知事の赴任は、宮崎県の耕地整理事業史にとって、とても大きな意味を持つ。事業を大きく推進させた功績はもとより、その事業の担い手である技術者の確保と要請に力を注いだことは、宮崎県の農業基盤の確立にとっても重要なことであった。そしてなによりも、坂元棚田にとって、その運命を左右する大きな出来事であったのだ。

耕地整理課が誕生し、多くの技術者が配属された明治末期から大正期にかけて、県内各地で耕地整理にかかわる多くの基礎調査が実施された。それを契機に耕地整理組合が各地に誕生し、多くの箇所で実際に耕地整理事業がおこなわれた。この時期の耕地整理事業は、かつてのような暗渠排水主体のものから、大きく変貌を遂げている。不規則な耕地を集約して矩形化し、耕地面積を拡大して農産物の収量を増やした。農業用水や道路はそれぞれの農地に接していて、栽培のしやすさ、作業のしやすさは格段に向上した。こういった事業は、取り組みやすい地域、増収効果が得やすい地区から順に進められていった。

坂元のような、原野・山林を開拓して開田する開墾事業は、手間も費用もかかる。そのため予算の目処が立たないうちは後回しにされた。それでも、大正14年になって、ようやくチャンスが巡ってくる。宮崎県内務部耕地整理課の松井梅次技手が、この地を測量し、調査して開田の見通しを立てた。そして、この地に新たに百枚の耕地を作り出す「坂元耕地整理組合設計書」を書き上げたのである。


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