坂元棚田ができてからのこと

耕地整理法が施行されてから、農地に関する事業を実施するためには受益者、つまりその事業で恩恵を受ける住民たちで構成される耕地整理組合を設立する必要があった。坂元棚田の開田にむけた坂元耕地整理組合が設立されたのは昭和3年であった。それ以前にも日南市内にはすでに12の耕地整理組合が設立され、大規模な耕地整理事業が開始されていた。これらの事業は、江戸時代からの不整形な水田群を整形し、農業用の水利を確保して、交通の便を良くし、耕地面積を拡大させて農業生産性の向上を目的としたものだった。

人口は農業を取り巻く環境に大きく影響する。酒谷村の周辺の人口は、明治期に停滞していたが、大正・昭和初期にかけて急激に増加した。そのため耕地の拡大や開発が大いに望まれた。そこで大正8年7月に、坂元の隣集落に「日永八重耕地整理組合」が設立され、開田事業が始まったが、昭和2年になっても完成しなかった。そんな中で「坂元耕地整理組合」が設立され、昭和3年からの5年間で工事を完了した。短期間に3~5畝の広さを持つ長方形区画の119筆の水田が誕生したことは、村民にとって大変な驚きと希望を与える出来事となった。

この頃の日本は、全国的に深刻な食糧不足に見舞われており、食糧増産が急務であった。そんな情勢の中での坂元棚田の完成は、他地区の事業を刺激した。昭和12年までのほんの10年間の間に、周囲で11もの新しい耕地整理組合が誕生し、それぞれ工事が開始されたのだ。それらの事業がほぼ完了していたと思われる昭和22年頃の坂元棚田周辺の耕地を示した図によると、最も大きな広がりを持つ耕作地が坂元棚田で、奥まった谷や山腹など、ちょっとした広がりのあるところに、くまなく耕地が整備されていたことがよくわかる。このように一連の耕地整理によって、酒谷村全体で田が39町3反8畝8歩(約39 ha)、畑が4町2反9畝22歩(約4 ha)の耕地が誕生した。

これらの耕地整理事業は、個別に見るとどれも小規模で、経営規模もかなり小さいものであった。

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