旧耕作地

坂元棚田への道-明治政府と地租改正-

坂元棚田の誕生は昭和8年である。棚田が誕生する前のその場所は茅場(かやば)だったらしい。茅場というのは家の屋根材となる「かや」を育てていた場所のことである。茅は細長い葉と茎を地上から立てる草本植物のことで、チガヤやススキなどをまとめて茅とよぶ。茅の茎は油分があるために、水をよくはじき、耐水性が高いことから屋根の材料に適していた。この茅を使って葺いた屋根を茅葺き屋根という。昭和初期までは茅葺き屋根をもつ家はおおく、坂元棚田のすぐ近くにある道の駅・酒谷の屋根がまさしくこの茅葺き屋根である。この屋根は長年の使用によって油分が抜け耐水性が落ちてしまうため定期的に吹き替える必要がある。そのため集落ではある程度の量の茅をいつでも確保できるように常に準備しておく必要があった。この酒谷地区では現在坂元棚田となっているこの場所を茅場として利用していたのだ。その茅場の周囲にはわずかながらも田畑が点在していた。記録によると酒谷地域全体で田は249町5反(249ha)、畑は185町9反(186ha)であったとされている。

江戸時代からすでに可能な限り開発が進められていて、明治期にはもうほとんど開発するところがなかった。茅場として利用されていたこの場所が、残された開発余地のある土地とされていた。そしてついに、この場所が棚田へと変わっていくのであるが、その変遷をたどるには背景となる社会情勢や農業を巡る様々な制度の歴史を振り返っていく必要がある。そこでまず、265年続いた徳川幕府が、1868年の「王政復古」によって解体され、明治新政府が誕生したころから振り返っていくことにしよう。

坂元棚田のある酒谷村は、日向国飫肥藩領にあった。飫肥藩は、東に日向灘、北は大淀川、南は高鍋藩領福島(現・串間市)、西は山岳地で鹿児島藩領を境とする5万1千石の領地であった。江戸時代の酒谷村は、上酒谷村と下酒谷村に分けて支配されていたという。上酒谷村は現在の日南ダムあたりから西側の地域で、鹿児島藩との境界だったため、飫肥藩の軍事上の要所とされた。国境の村ということで、警備上の理由から郷士と呼ばれる足軽組軍団が置かれていた。天保5年の記録によると、この地域には506人が住んでいて、そのうち百姓はわずかに109人だけ。あとの大半が藩の知行をうける衆中と呼ばれる人々であったとされている。「知行」とは武士が主君から給付・安堵された所領であり、飫肥の中心地から離れた山中に、藩の知行をうけるものがこれだけいたということは、この地域が軍事上の要所であったことを裏付ける。このような備えは藩が解体される明治維新後まで続いたという。

明治維新を迎え、誕生した新政府は多くの難題を抱えていた。この時期、他のアジアの国々はことごとくヨーロッパ諸国の植民地になっており、植民地となった国々の状況は悲惨であった。それを横目で見ながら、ヨーロッパ諸国に飲み込まれないよう「富国強兵」と「殖産興業」を推し進めなければならない明治政府は、先進資本主義国に追いつくよう、ヨーロッパの進んだ技術・文化を積極的に取り入れながら、古い制度を次々と改革していく必要に迫られた。

明治政府の一番の課題はその財政基盤の弱さにあった。政府はそれまで各藩で個別に納めていた年貢米を一挙に集中管理しはじめたが、これが財政上の大きな問題であった。それというのも、米の収量は天候によって毎年変動するうえに、地域によって収量の差が大きい。さらに藩によって定められていた年貢率がばらばらだったことも問題で、こういったことに維新直後の物価の変動の激しさが加わって、政府の毎年の収入が安定しなかったのである。

そこで財政を安定させるために、年貢の現金化をはかった。明治政府は、明治6年~14年(1873~1881年)にかけて、土地価格に応じて納税を義務づける「地租改正」を断行した。地租改正とは、一枚ごとに田畑の面積と収量を調べて、土地の価格を定め、これに一律に3%の地租(税)をかけるという税制改革のことである。これによって全国一律に、しかも天候による豊凶によらず、一定の地租がかけられ、税金収入を固定化することができるようになった。これは一方で、農民に土地の所有権を認めることでもあり、歴史上大変重要な改革とされている。

それというのも、それまで土地というのはすべて国家、つまり当時は藩のものだった。これは大化の改新によって成立した律令国家が「公地公民」を原則としたことに端を発する。そして、「班田収授」、つまり一定年齢になると、国から一定の面積の口分田(くぶんでん)を与えられるという制度によって農民は国家から土地を借り受けた。つまり土地はすべて国のもので、その一部を借り与えられた農民は見返りとして税を納めなければならなくなったのだ。奈良時代以降、この公地公民制は崩れるが、祖税を領主に納めるという形は継承されていった。そしてこのたびの地租改正によって、とうとう土地が農民のものになったのだ。この地租改正は、大化の改新の公地公民制、豊臣秀吉による太閤検地とともに、日本における土地制度の三大改革といわれている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?