坂元棚田ができてからの食糧事情

坂元棚田の完成した昭和8年前後の歴史を見ると、すでに日本は激動の時代のまっただ中にあったことがわかる。とくに日本の食料事情はめまぐるしく変わる。

昭和4年(1929)にアメリカから始まった大恐慌は、世界経済を困窮させていた。日本でも昭和大恐慌とよばれる経済的不況に陥っていた。それに追い打ちをかけるように、昭和6年に北海道・東北地域をおそった大凶作は、深刻な農業恐慌を引き起こし、稀に見る食糧不足を招いた。さらに苦境は続く。同じ年の6月に、関東軍が中華民国の瀋陽郊外の柳条湖で南満州鉄道の線路を爆破し、これに端を発した満州事変が勃発した。これは、その後15年続く中国との争いの始まりだった。満州への関東軍の進出は、日本国内の経済にも、食糧事情にもさらなる疲弊をもたらした。さらに、不運にも1934年に東北・北海道地方では冷害が発生し、関西地方では風水害・干害がおそった。これによって農村社会の困窮は悲惨な状況に陥り、ついには娘を身売りする農家が相次いだという。この絶望的な困窮は、昭和11年(1936)の二・二六事件の引き金の一つとなり日本社会を揺るがすことになる。

二・二六事件による青年将校たちの蜂起は直ちに鎮圧されたが、この事件は結果として急速に日本を軍国主義化させることになってしまった。そしてついに昭和12年(1937)に日中戦争、昭和16年(1941年)に太平洋戦争に突入してしまう。本格的な戦時体制に突入した日本は、諸外国との貿易が途絶えたため、輸入品に頼らない生活が必要となり、自国での食糧増産・強化が必須となった。

太平洋戦争は、昭和20年8月15日に終結した。戦争末期から底をついていた食糧の不足はきわめて深刻だった。終戦後、海外からの復員軍人や、帰国者たちによって急速に人口がふくれあがった。敗戦国に、ふくれあがった人口を養う力はなく、絶対的な食糧不足に陥った。海外から帰国する者たちに、食糧はおろか家を準備することもできなかったため、政府は彼らを北海道をはじめとする日本各地の開拓地へと送り込み、耕地の開拓・食糧増産を急ピッチで進めていった。

昭和22年も半ばを過ぎる頃になると、国内の政治も経済も終戦直後の混乱からようやく立ち直り始め、世の中が落ち着いてきた。それでもとにかく「食糧増産」の課題を解決するために、全国で水田の土地改良事業が急速に進められた。

昭和28年(1953)、経済が安定し始めると、一時的に農村に居住していた多くのもの者たちが都会へと移動を始めた。働き手を得だした都市部では急速に経済が発展を始め、我が国は高度経済成長を迎えた。国民の生活は向上し、食糧需給は一変した。米の消費量は減少の一途をたどりはじめ、農業就業者も急減しはじめた。

このころから、農業のはらむ問題が顕在化し始めた。それまでは絶対的な食糧不足の中、とにかく耕地を拡大し、食糧増産だけを目指していた。しかし、食糧需給が大幅に緩和され、経済成長に伴って非農業所得と農業所得との間に格差が現れ始めたことから、状況が変わり始めた。加えて、貿易の復活により、農産物が過剰に輸入されると、その低価格な海外農産物が国産農産物を席巻し始めた。そこで改めて浮き彫りになったのは、日本農業の生産性の低さと経営の零細性であった。

そこで政府は、昭和36年(1961)農業基本法を施工し、農業の近代化等を推し進めていくことになった。つまり機械化によって農業の労働生産性を高め、農産物価格を抑えることを目指した。そのためには農業機械による効率的な農作業ができるような耕地の改良が求められるた。そこで、新しい農業にふさわしい耕地の標準化が目指された。このときに手本とされた近代化農業にふさわしい農地の在り方こそが、上野英三郎が60年も前に「耕地整理講義」の中で構想したものだったのだ。このときに採用された新しい農地の標準区画は、上野博士が思い描いた区画そのものだった。上野博士の思想は、現在においてもほ場整備事業という形で受け継がれている。

農業の近代化は着々と進められたが、農産物の自由化問題と米の生産過剰問題はいっこうに解決の糸口が見えず、かえって深刻になっていた。中でも、昭和42年、43年の米の豊作は、生産過剰を決定的なものにしてしまい、政府はこの対策としていよいよ米の生産調整を実施したのだ。米の生産調整をはじめとする「総合農政」と呼ばれる新しい農政の展開は、耕地整理事業から発展した土地改良事業に大きな転換を迫った。その転換の第一は開田の抑制。加えて水田を畑作へ転換できる土地に改良することが求められた。第二に農地の近代化の促進。つまり、用水と排水を完全に分離し灌漑水を完全に制御できるような水利施設を整備すること、機械化を可能とする圃場区画へと拡大すること、自家用車での行き来を可能にする農村道路網を整備することが求められた。こうした徹底した農業の近代化によって、全国の農地と農村は急速に変貌を遂げ、いま私たちが目にする農村の風景へと変化してくこととなった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?