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坂元棚田の特徴-水源計画-

元号が大正に代わるころから、荒れ地を農地に変えるだけの土木技術が全国各地の技術者の中に蓄えられていった。このころ、他県に比べてやや遅れていた宮崎県の耕地整理事業は、遅れを取り戻すように全県的に推進された。大正14年、宮崎県内務部耕地整理課の松井梅次・農林技手は、坂元地区の本格的な測量に着手し、綿密な用水計画と土地を最大限活用するための農地計画をまとめた「坂元耕地整理組合 設計書」を完成させた。

宮崎県文書センターにその原本が所蔵されており、平成17年に日南市教育委員会は文化財調査資料集としてこの設計書を整理している。坂元地区にはその控えとして、同じ設計書が残されており、坂元棚田誕生の思想・過程を現在に伝える貴重な資料となっている。
この設計書は、全九章と附図五葉を持つ。

 第一章 整理施行地の現況及び整理施行の目的
 第二章 計画説明
 第三章 主要工事の仕様
 第四章 整理施行前後の地目別面積及び筆数の予定
 第五章 整理施行によって得られる利益
 第六章 整理施行地区およびこれに隣接する土地。水面の現況図
     及び予定図、水路平面図・縦断断面・横断断面図・構造図
 第七章 工事の開始及び終了の予定時期
 第八章 工事の年度割予定
 第九章 事業に要する費用予算、並びに明細書
     附図  
地区現形図/地区予定図/水路平面図/水路縦断図/水路横断図

松井はまず、開田前の土地・水利・農業の状況からはじまって、農民の生活状況や気象に至るまでの詳細を記録した。さらに今回の計画からさかのぼること34年前(明治25年)に試みられた開田計画の痕跡を丹念に調べ、その失敗の原因を分析した。松井は、当時の失敗を灌漑水源に定めた谷川の水量を大きく見積もり過ぎてしまったことと、水路設計が未熟であったために開削された水路に通水することができなかったためと考えた。そこで、水源計画を抜本的に見直すとともに、詳細な測量をもとに以前とは異なる新しい経路による導水計画を立てた。この幹線水路を通すことは、この開田計画の最重要点ととらえて、以後の章でも、計画・工事仕様等の項で多くの頁を割いて綿密に記述している。水の確保さえできれば、この地はもともと日当たりが良いので、よい農地になると確信していたのだろう。荒れ地を開拓して一から水田を作る。だからこそ、農作業がしやすいように道路や水路を計画的に配置して、徹底的に土地の生産力を高めた水田群を作ることを目指した。
 
水源は、地区の東にある二つの谷、中尾谷と溝口谷を流れる渓流とした。実は坂元には扇頂部から西側に流れる谷川が存在する。しかし、その谷川の水量は少なく、十分な水量を確保することは難しいという判断のもと、わざわざ離れたところにある二つの谷を水源とした。いわゆる流域変更を試みることにしたのである。松井には、この時点ですでに技術に対する自信があったのだろう。水源を定めるにあたって二つの渓流の集水面積を概算し、念入りな量水調査を行っている。設計書の記述には平水量や渇水量といった河川水文学の用語が用いられている。この平水量や渇水量を求めるには最低でも一年間の毎日の河川流量の計測が必要となる。そのうえで365個の河川流量を大きい順に並べ、ちょうど真ん中の185番目の値を平水量とし、355番目の値を渇水量とする。つまり、設計書を作成するために、松井はそれ以前の少なくとも1~2年前から基礎調査に入っていたことがこのことから推測できる。おそらく、前回の開田計画の失敗がこの水源計画の不備にあったことを松井はよく理解していたため、水源調査はとくに慎重に行ったのであろう。水源調査の精度について、私たちの研究室で改めて調査したところ、残念ながら集水面積や河川流量、平水量・渇水量のいずれも現在の技術で計測した値の約3倍も大きくなってしまっていた。しかし、たとえば集水面積でいうと溝口谷川の集水面積は、中尾谷川の1.05倍の広さなのだが、こういった相対的な大きさはほぼ同等に算出されている。確かにこのとき、現在に通じる農業土木技術がもたらされていたことがはっきりとわかる。

念入りな量水調査の結果を踏まえ、松井は以下のような灌漑計画を立てている。まず第1の水源を中尾谷川として、常時0.834 m3/s の水を、幅0.75 m、長さ1.2 mのすり鉢状取入口(角落とし)で取水する。水は山腹に沿って開削した長さ 602 mの水路で谷の西側を流れる溝口谷川まで流下させ、合流させる。第2の水源である溝口谷川でも、幅0.84 m、長さ1.2 mのすり鉢状取入口(角落とし)を使って取水する。この取入口は中尾谷川からの水路の合流点より少し下流側に設置する。中尾谷川からきた水と溝口谷川の水の二つが合わさせ1.11 m3/s の水を取水し、新たに開削する長さ 378 mの水路で徐々に標高を下げながら西方の開田予定地へ向けて流していく。途中、宇戸山大谷川・小谷川、岩屋谷川といった小さな渓流と交差しながらその渓流水を加えつつ、さらに520 m 流下してやがて、開田地の最頂部に導く。計画水路延長1,675 m を自然勾配によって開水路を掘削するという一大灌漑計画だったのである。

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