見出し画像

R.E.M.の歴史①


R.E.M.とは?

現在、第一線からは退いたとはいえ、ロックという枠組みを超え、巨大な存在と化したU2――が、そのU2の”世界一のバンド”という地位を80年代後半から90年代前半にかけて脅かしたバンドがありました。それがピーター・バック(G)、マイケル・スタイプ(Vo)、ビル・ベリー(Dr)、マイク・ミルズ(B)からなるR.E.M.です。

日本での知名度はいまいちですが、彼らが80年代以降オルタナシーンに与えた影響は計り知れず、ボノ以外にもカート・コバーン、エディ・ヴェーダー、トム・ヨーク、デーモン・アルバーン、クリス・マーティン、クリフ・バートン(メタリカの元ベーシスト)などがその影響を公言しています。

アトランタ出身のインディーズバンドDeerhunterのメンバーはR.E.M.についてこう語っています。

R.E.M.は僕がDeerhunterのことを考える時にいつも出てくるんだ。ぼくら本当に、最高のアメリカンロックンロールバンドになりたくて、そのことを考えるとR.E.M.とパイロンを思い出すんだ。他の別に好きでもないバンドでも同じさ。系統、歴史、先輩として尊敬する。Sonic Youthとかそこらへんも。彼らが道を開いてくれたんだ。彼らが作ったものがなかったら今の僕たちは無職だよ。

日本でもミスチル(彼らの「REM」という曲はR.E.M.が由来でしょう)、スピッツなどが好きなアーチストに挙げています。スピッツ草野マサムネさんなどは、インディーズ時代に「R.E.M.が売れたから俺達も売れるだろう」と自らに言い聞かせて音楽活動をしていたそうです。たしかにデビュー当初から既に完成されていて、似たような曲調の曲が多く、それでいて飽きが来ることがないスルメアルバムを連発するあたり、両者は似てなくもないです。また小説の中に登場したことはないようですが、村上春樹さんのお気入りのバンドというとでも知られいますね。あとくるりのメジャーデビューシングル「東京」はR.E.M.の「Be Mine」のパ●リです。

R.E.M.が結成されたのはジョージア州の州都アトランタから東へ車で1時間半のところにある、アセンズという、綴りはギリシャの首都アテネ(Athens)と同じの人口10万人ほどの町です。ジョージア大学がある学園都市で、大学にアメリカ南東部最高の美術学科が設置されたおかげで、芸術的な――が、それもどこかのんびりとした――雰囲気が漂う街だそうです。ちなみにU2のアルバムをプロデュースしたことがあるデンジャー・マウスもこのアセンズ出身。

80年代のアセンズのアートシーンを捉えたドキュメンタリー映画『Athens, Ga: Inside/Out 』の映像。ちなみにDVDの推薦文には「素晴らしい映像、変人達、朝っぱらからパジャマ姿でビールを飲んでいるR.E.M.のメンバー。これ以上何を望む?」とあります。

メンバーの横顔

マイケル・スタイプ(Vo)

1960年1月4日、アトランタ郊外の町ディケイター生まれ。
ボノと同い年です。父親が陸軍に勤務していた関係で、マイケルは、ドイツ、テキサス、イリノイ、アラバマなどを転勤して回る思春期を過ごし、そのせいで非常に内向的な性格に育ちました。心を開ける相手は姉と妹だけ、友達ともつるまず、恋人も作らず、1人で読書をするか、音楽を聴くかして時間を過ごしていたそうです。1978年にジョージア大学の美術学部に入学。その時、出入りしていたレコード屋で働いていたのが、ピーター・バックでした。

ピーター・バック(G)

1956年12月6日、カリフォルニア州ロサンゼルス生まれ。
幼い頃から音楽好きで、マイケルと違って外交的で明るい性格に育ちました。が、2歳年下の弟が本格的なクラシックの教育を受け、ギターを見事に弾きこなしていたせいで、自分には音楽の才能がないと思い込んだピーターが楽器を手に取ることはなかったそうです。
大学を中退した後、ピーターは、ロックジャーナリストになることを夢見つつ、ライブを主催したり、レコード屋で働いたりしていました。マイケルの第一印象はいつも可愛い女の子を2人はべらせているハンサムな青年――つまり姉と妹としかつるめないマイケル――だったそうです。

マイク・ミルズ(B)

1958年12月17日、カリフォルニア州オレンジ・カウンティ生まれ。
父親がテナー歌手、母親が歌手、ピアニスト、ギタリストという音楽的に恵まれた家庭で育ったおかげで、幼い頃から音楽に親しみ、高校時代にはマーチングバンドに在籍していました。
成績優秀で、酒ともドラッグとも無縁な優等生だったとか。そしてビル・ベリーとは高校時代の同級生でした。

ビル・ベリー(Dr)

1958年7月31日、ミネソタ州ドゥルース生まれ。
隣町のヒビングがボブ・ディランの故郷なので、会う人にはヒビング生まれと偽っていたそうです。ビルも音楽好きの兄姉の影響で音楽好きの少年に育ち、マイクと同じマーチングバンドに在籍してドラムを叩き、時には音楽教師が組んだバンドでマイクと一緒にパーティや結婚式で主にサザンロックを演奏していました。R.E.M.の強力なリズムセクションはこの頃培われたのです。

バンド結成

大親友となったマイクとビルは、高校卒業後、大学へは進まず、2人でアパートの部屋を借りて、マイクはデパートで、ビルはパラゴンという音楽エージェント会社で働き始めます。そこでビルが出会ったのがイアン・コープランド――後にR.E.M.が在籍することになるI.R.S.レコードの社長にしてThe Policeの元マネージャー、マイルス・コープランドの弟で、The Policeのドラマー、スチャアート・コープランドの兄であるイアン・コープランドでした。

同じ音楽の趣味で通じ合ったイアン、ビル、マイクの3人はFrastrationというバンドを組みます。これはすぐに解散してしまいましたが、The Policeのメンバーの兄弟とR.E.M.のリズムセクションがバンドを組んでいたなんて、ちょっと信じられない話ですね。そしてその「同じ音楽の趣味」というのが、当時、ニューヨーク、そして飛び火したロンドンで勃興しつつあったパンクでした。

パティ・スミスを初めて聴いた時の感想をマイケルはこう述懐しています。

最高だった。本当に完全にカッ飛んでいた。こういうヘッドフォン、親のガラクタみたいなヘッドフォンをかけて、サクランボの入ったボウルを抱えて座って、一晩中、パティ・スミスを聴いていた。サクランボを食べながら『うわあ!……すげえや!……とんでもないね!』なんてね。そしたら気持ち悪くなった

R.E.M.ストーリー

他にもNew York Dolls、Television、The Velvet Underground・・・・・U2と同じくR.E.M.のメンバーもパンクの洗礼を受けたのです。そしてアメリカ南部の片田舎町アセンズからも、パンクの影響を受けたバンドが続々と登場します。

The B52's

1978年、地元のインディ・レーベルDBレコーズからシングル「Rock Lobster」を発表すると、U2を見出したことでも知られるアイランド・レコード社長クリス・ブラックウェルの目に留まり、翌年、同レーベルから1stアルバムを発表、音楽活動の拠点をニューヨークへ移します。当時、アセンズのような田舎町のバンドがメジャーレーベルからアルバムを発表することなど考えられないことだったので、The B52'sの成功は地元の音楽青年たちにとって青天の霹靂でした。

The Method Actors

まったく情報がないのですが、このバンドはアメリカよりもヨーロッパで受けたようで、デビューするやいなや、すぐにアセンズを離れたそうです。すっとぼけた感じがどことなくR.E.M.を思わせますね。

Pylon

一応、楽器が弾けるThe B52'sと違って、こちらは楽器のチューニングもままならない素人集団だったとか。PylonもDBレコーズからシングルを発表して高い評価を得ましたが、ニューヨークへは行かず、アセンズに留まりました。このPylonの姿勢は、後にビッグバンドになってもアセンズを離れなかったR.E.M.が大いに参考にしたといいます。
ちなみにR.E.M.はPylonの「Crazy」という曲をカバーしており、B面集の[ 『Dead Letter Office』に収録されています。Pylonは1983年に一度解散しますが、ビッグバンドになったR.E.M.が度々影響を公言したおかげで、再評価の声が高まり、1989年に再結成してアルバムを発表、 R.E.M.のツアーの前座も務めました。

そして1979年、R.E.M.が結成されます。

マイケル+ピーターとマイク+ビルが初めて顔を合わせたのは、どこぞのバーで、その時、マイクはひどく酒に酔っていて、バーのカウンターに寝そべっていたそうで、そんなマイクの様子に悪印象を抱いたマイケルとピーターは「絶対にあんな奴とバンドは組まない」と誓ったそうです。

が、結局、バンドを組むことになった4人は、早速、バンドの名前を考え、様々な名前が候補に挙がった挙句、Rapid Eye Movement(レム睡眠)の頭字を取って R.E.M.としました。深い意味はなく、どうとでも取れる名前を採用したそうですが、このへん、U2と似てますね。ちなみにマイケルの祖母は「Remember Every Moment」と解釈しているそうです。

地元のパーティー会場やライヴハウスでライヴを始めると、R.E.M.はあっという間にアセンズ一の人気バンドになりました。そしてアセンズだけではなくアトランタやテネシー、サウスカロライナ、ノースカロライナなどの近隣州でもライブを行い、イアン・コープランドの伝手でThe PoliceやGang of Fourの前座も務めました。この頃、自分たちのことを知らない、自分たちの音楽に興味のない聴衆の前で数知れず演奏した経験は、メンバーをタフにし、またバンドの結束を強めることになったそうです。

またR.E.M.はオリジナル曲やパンクのカバーだけではなく「Route 66」や「Hippy Hippy Shake」などのR&Bのカバーも歌ったので、アセンズのアートシーンからは、ポップで古臭いバンドと馬鹿にされていたのですが、それでもバンドは「好きだから演奏する」という姿勢を変えず、これも後年のD.I.Y.=Do It YourselfなR.E.M.のスタイルに繋がりました。

そしてこの頃、オックスフォード大学出身のジェファーソン・ホルトというレコード店をやっていた人物が、バンドのマネージャーとなり、以後、「5人目のR.E.M.」と呼ばれるほどの蜜月関係を築くことになります。

そしてR.E.M.は、地元のビブ・トーン・レコードというレーベルからシングルを発売する契約を結びます。プロデュースを手がけたのは、地元で小さなスタジオを経営していたミッチー・イースター。後にミッチーは、 Ben Folds Five、Velvet Crush、スザンヌ・ヴェガのプロデュースやミキシングを手がけ、自らもLet's Active というバンドを結成し、I.R.S.からアルバムを発表しています。

Radio Free Europe

1981年7月8日発売。
Radio Free Europeとは、冷戦時代、アメリカ政府の出資でハンガリーのプラハに設けられた、共産主義国に向けて反共産主義的プロパガンダを放送するラジオ局だそうです。歌詞は分からない・・・・・・が、日本では「モコモコ」と表現されるマイケルのヴォーカルは、ネイティブでも何を歌っているのか分からないそうです。このEPは1000枚ほど音楽関係者に無料で配られ、さらに口コミで7000枚ほど売れ、ニューヨーク・タイムスのロバート・パーマーが選ぶ年間トップ10シングルの1枚に選ばれました。そしてこのシングルの成功に自信を深めたR.E.M.は、マイルス・コープランド率いるI.R.S.と契約を結びました。

このマイルス・コープランドというのは面白い人物で、父親がエジプト大統領ナセルの暗殺を命じられたこともあるCIAの高官だったことから(ちなみに母親は考古学者)、パンクを扱わないメジャーレーベルの態度に業を煮やして自らイギリスで興したレーベルにIllegal Recordsという名前をつけ、弟が在籍するバンドにThe Policeと名づけました。

またアメリカで興したレーベルには「International Record Syndicate」という大仰な名前をつけ、さらに音楽エージェント会社には「Frontier Booking International」略してFBI(イアンはここの社長)、映画・テレビ番組制作会社には、コープランド(Copeland)3兄弟と同僚のデレク・パワー(Derek Power)の名前の頭文字を取ってCCCP(旧ソ連の略称)、ロスに拠点を置くマネジメント会社には「Los Angeles Personal Direction」略してLAPD(ロス市警の略称)と名づけています。

ベリーダンス・ブームの仕掛け人でもあるらしく、実に多彩な人物です。兄弟3人足してIQ500を超えているかもしれません。それをいえばThe Policeの3人のIQを足してもそれくらいあるかもしれませんね。やはり天才が3人揃っては長続きしないのでしょう。

話をI.R.S.に戻しましょう。

イギリスで成功を収めたマイルスは、母国アメリカに取って返し、I.R.S.レコードを設立します。目的はただ1つ、結局、パンクの火が点かなかったアメリカに、当時、ニューウェーヴと呼ばれていた新しい音楽を根づかせることでした。The Policeが所属していたA&Mレコードの協力を得ていましたが、資金援助は一切なく、マイルスにとっては一世一代の賭けだったはずです。

そこに現れたがR.E.M.です。「Radio Free Europe」を気に入ったI.R.S.は、 R.E.M.とEP1枚、アルバムを5枚出す契約を結びます。その時、バンドから得られる収入は、その貢献度に関わらず、均等に4等分することも決められました。これもU2と同じです。もっともR.E.M.は4人全員作曲するので、それほどアンフェアな契約ではなかったかもしれませんが。

ということで1982年8月24日、 R.E.M.は満を持してEP『Chronic Town』を発表しました。

Chronic Town

「持病持ちの町」という意味不明なタイトル、なんでそんなものが描かれているのか分からないジャケットのガーゴイル、裏ジェケのぼんやりと映ったメンバーの写真、「Wolves, Lower」(何?)「Carnival of Sorts」(色々なカーニバル)「 1,000,000」(何の数字?)「Stumble」(よろめく)と人を食ったような曲名、歌詞の記載なし、と曖昧で掴みどころがないR.E.M.は既にしてここに登場していました。現在、このEPは入主困難ですが、収録曲は『Dead Letter Office』に収められています。

タイトルの「夜の庭師」とは、マイケル曰く「父親のことでもあるし、ジャンキーのことでもあるし、夜の庭師のことでもある」ということですが……よく分かりません😅

ライヴ映像を繋ぎ合わせただけの安上がりなものですが、PVも制作され、R.E.M. は気に入らなかったようですが、何度かテレビでオンエアされました。

蛇足ですが、同年、マイケルの妹リンダ・スタイプがベーシストを務めるOh-OKもThe B52'sが所属するDBレコードからデビューしています。このOh-OKには、パワーポップを代表するシンガーソングライター、マシュー・スウィートが在籍していたことがあります。マシューは60年代、70年代、80年代を代表する楽曲をカバーしたアルバムを出しているのですが、その80年代のカバーアルバム『Under The Covers Vol. 3』では、R.E.M.の「Sitting Still 」をカバーしています。

I.R.S.イヤーズ

さてメインストリームの音楽からかけ離れていたR.E.M. ですが、カレッジ・ラジオという力強い味方がいました。その多くが学生ボランティアによって運営されているアメリカの各大学のFMラジオ局は、商業主義の弊害が少なく、基本、DJがかけたい曲を自由にかけられたのですが、I.R.S. は早くからこのカレッジ・ラジオと協力関係を結び、全米に張り巡らされたそのネットワークを通じて、メインストリームの音楽にはない魅力があるミュージシャンを売り込んでいたのです。

案の定、『Chronic Town』はカレッジ・ラジオ・チャートのトップ5に3ヶ月留まり、2万枚のセールスを記録。ヴィレッジ・ボイス誌の1982年度ベストEPの第2位に選ばれました(ちなみに1位はT・ボーン・バネット)。

続いてR.E.M.は1stアルバムの制作に取りかかります。当初、アルバムのプロデューサーには、後にNew OrderやPet Shop Boysを手がけるスティーヴン・ヘイグが起用されたのですが、シンセサイザーを多用する彼の音作りに不満を覚えたメンバーは、再びミッチー・イースターにプロデュースを頼みます。が、1人でやることに自信がなかったミッチーは先輩のドン・ディクソンを誘い、2人で共同プロデュースすることになりました。

レコーディングは順調に進み、アルバムは完成しました。

Murmur

1983年4月12日発売。タイトルは「呟き」の意。そう、R.E.M.も”花の1983年組”だったのです。
US36位 UK100位(1994年)
※再発時にチャートインしたものと思われます。

カレッジ・ラジオで頻繁にオンエアされたこともあり、17万枚ほどのセールスを記録し、無名の新人バンドのデビューアルバムとしては異例のヒットとなりました。またThe Policeの『Synchronicity』やマイケル・ジャクソンの『Thriller』を抑え、ローリングストーン誌の年間ベストアルバムにも選ばれ、上々のスタートを切りました。

後年、R.E.M. がロックの殿堂入りをした時、プレゼンターを務めたエディ・ヴェーダーは「このアルバムは多分何千回も聴いているが、結局は何を言っているのかが分からない。けれども凄い」とアルバムの魅力を語っています。が、アルバム自体の魅力もさることながら、『Murmur』がこれだけアメリカ人に受け容れられた背景には、第2ブリティッシュ・インヴェンションによりすっかり食い荒らされたアメリカの音楽シーンに、ようやく音楽性が高く、それでいて親しみやすいサウンドを奏でる国産のバンドが現れ、皆、それに飛びついたという事情があったようです。

US78位
新たに録音し直されたもの。当初、PVは、単にメンバーが庭園を歩き回るものだったのですが、MTVの時代にそれではあまりにも地味だということで、I.R.S.がライヴシーンを付け加え、カラフルに映像を加工しました。

10月6日、レターマンショウに出演。これがR.E.M. のテレビ初出演になります。

また再びThe Policeの前座を計8回務めました。巨額のギャラに目が眩んで引き受けた仕事ということで、メンバーはこのことを少し恥じているようです。

北米、UK、ヨーロッパを回る8ヶ月に及ぶツアーを終えると、早速、R.E.M.は2ndアルバムのレコデーィングに入りました。プロデューサーは前作と同じミッチー&ドンのコンビ。前作の成功のことは忘れて、勢いに任せてどんどん録音していこうという姿勢が功を奏したのか、楽曲はアルバムに収まりきらないほど書き上がり(それらはシングルのB面、後に『Dead Letter Office』に収録された)、僅か3週間足らずでレコーディングし終え、I.R.S.関係者を驚かせたほどでした。

Reckoning

1984年4月9日発売。
US27位 UK91位

前作に比べてライヴ感のある仕上がりで、曲調もバラエティに富んでいます。また1983年に交通事故で亡くなった友人のキャロル・レヴィのことが随所に顔を出しているのも特徴。アルバムは前作同様批評家に激賞され、セールスも前作を凌ぐ25万枚の記録しました。またマイケルが手がけた双頭の蛇のジャケットは、ミュージシャン誌の年間ジャケット部門で、ベスト1とワースト1に輝くという珍記録を打ち立てました。

US85位 
ようやくMTVの可能性に気づいたマイケルは、「Radio Free Europe」の反省を生かし、今度は自ら主導権を握って、アーチスティックなPVを制作しました。

当時のスタジオライヴの様子。なんて可愛いマイク・ミルズ。R.E.M. の特徴の一つはエディ・ヴェーダーが「R.E.M. の秘密兵器」と形容するマイクの美しいコーラスです。このへんもエッジのコーラスが美しいU2との共通点ですね。

アルバムを発表すると、R.E.M. は再びツアーに出、北米、UK、ヨーロッパ、そして日本を回りました。日本では早稲田大学、横浜国立大学、専修大学などの学園祭のステージに上がったようですが、早稲田大学のステージでR.E.M. の前座を爆風スランプが務め、爆風スランプ目当ての客は、R.E.M.がステージに上がった時にはほとんど帰ってしまったそうです。

爆風スランプの元ドラマー、ファンキー末吉氏は、当時を振り返って、こう語っています。

REMはその後アメリカでビッグネームとなるのだが、 当時誰も注目してなかった彼らを学祭に呼んだ早稲田プロデュース研究会の方々の眼力はなかなかのものだと思う。しかし前座に爆風スランプを使ったのは大きな誤算であった……当時のベーシストはそれに腹を立ててステージで吠えた。
「ここは日本じゃ!!ボケ!!! 何でワシらが毛唐の前で演奏せなあかんねん!!毛唐はアメリカに帰れ!!」
いやーどういうわけだかこれで客席は湧いて、 爆風スランプのステージは大盛り上がりで幕を閉じた……しかしREMはそこでやっぱ実力があったんやな。 日本ではまだまだ無名でヒット曲など1曲もないのに最後までステージをやってちゃんと客を盛り上げた。
人間も非常にいい人達で、 終演後に楽屋に挨拶に来てくれた時にはワシはどんな顔で会えばいいのか困ったのを覚えている。

ファンキー末吉とその仲間たちのひとりごと

この頃撮影されて、関係者のみに公開された映像作品。マイケルはボブ・ディランを演じているつもりらしいです。

また1985年6月22日、UKのミルトン・キーンズで開催された「The Longest Day」というコンサートで、R.E.M.は、初めてU2と共演しました。

初めてマイケルと顔を合わせた時の感想をボノはこう語っています。

細い三つ編みをいくつもした奇妙な格好のボヘミアンが紙に何かを書いているのを見かけた。印象的な悲喜劇な顔つきの彼は『ゴドーを待ちながら』のラッキーのように見えた・。彼は南部の美しく甘い鼻声の持ち主で、その物腰は非の打ち所がなかった。それがマイケル・スタイプだった。お互いに読んでいるものを張り合う瞬間や、お互いに避けようとする瞬間もあった。それが僕の人生で最も重要な人間関係の一つの始まりだった。マイケル・スタイプとの友情が僕にとってどれほど意味があるかは、とてもではないが言葉では言い表せないよ。

U2 BY U2

アメリカではそれなりに成功を収めたR.E.M.でしたが、UK、ヨーロッパではThe Smithの紛いもの扱いされて、なかなか人気が出ないことに不満を覚えていました。というわけで、3rdアルバムのプロデューサーは、これまでのミッチー&ドンコンビではなく、Fairport Convention、リチャード・トンプソン、ニック・ドレイクなどを手がけたジョー・ボイドを起用し、ロンドンでレコーディングすることにしました。

が、アメリカ南部出身の R.E.M.のメンバーには、ロンドンの寒冷な気候も貧相な食事も合わず、モチベイションは著しく低下。またこの段になってようやく、プロのミュージシャンとしての自覚が芽生えたことによるプレッシャーにも苛まれ、アルバムの制作は難航しました。

Fables of the Reconstruction

1986年6月10日発売。
US28位 UK35位
「玉手箱」という素敵な邦題が付けられたこのアルバムは、制作時の状況を反映して陰鬱な内容となり、また初めての海外でのレコーディングということで、アメリカ南部人としての自覚が芽生えたのか、アメリカ南部の伝承をモチーフにした歌が多いとのことです。メンバーは内容に不満で、批評家にも酷評されましたが、アメリカでのセールスは前作、前々作を上回る25万枚を記録。UKチャートでもトップ40に入りました――が、最終的にUK、ヨーロッパでのセールスは振るわず、この頃からR.E.M.はI.R.S.の手腕に不信を募らせるようになりました。

邦題は「R.E.M. 人生講座」(笑)。こんなふうにこのアルバムの収録曲には「Maps And Legend」→「夕暮れ少年」、「Old Man Kensey」→「ケンジー老秘話」、「Auctioneer(Another Engine)」→「エンジンおかわり」、「Good Advices」→「アナタは知恵袋」と一風変わった邦題が付けられています。担当の方の趣味でしょうか?

US110位
邦題「遠くにありて」。B級映画風のPVが面白いですね。

UK、ヨーロッパでの不人気はともかく、シングルヒットがないのにアルバムが売れ、ライヴに数千人の聴衆を集めるR.E.M.の登場は、アメリカの音楽関係者に衝撃を与え、この頃から後にインディーズ、オルタナティブと呼ばれるバンドが続々と大手レーベルと契約を結ぶようになりました。R.E.M.が、オルタナ界のグレイトフル・デッド、もしくはオルタナの始祖と呼ばれる所以です(が、Nine Inch Nailsのトレント・レズナーはR.E.M.をオルタナと認めておらず、「いつのまにかR.E.M.がオルタナと呼ばれるようになってしまった」と発言しているそうです)。

『Fables of the Reconstruction』を失敗作と見做したR.E.M.は、ツアー中から慎重にプロデュサー候補を協議し、その結果、ジョン・メレンキャンプを手がけたドン・ゲーマンに白羽の矢を立てました。連絡を受けたドンは、R.E.M.のアルバムを聴いてもライヴを観ても、さほど感銘を受けなかったようですが、プロデュースを引き受けました。その際、ドンは、これまでのような曖昧模糊としたものではなく、輪郭のくっきりした作品にしたいと申し出、R.E.M.もメインストリームに迎合するものでないなら、と了承しました。レコーディングはインディアナ州ブルーミントにあるジョン・メレンキャンプのスタジオで行われました。

Lifes Rich Pageant

1986年7月28日発売。
US21位 UK43位
なんといっても、これまで聞き取れなかったマイケルのヴォーカルが明瞭になったのが大きな変化。また世界中をツアーで回った経験から、内向的なマイケルもようやく外の世界に向けるようになったせいか、政治的な歌詞も増えました。そういう意味ではU2の『War』の立ち位置にある作品と言えるでしょう。アルバムセールスは50万枚を超え、初のゴールドディスクとなりました。

US94位。
空さえ売り買いする大企業を批判した曲。ヒット曲の要素満載なのですが、そうはありませんでした。が、マイケル自ら監督したこのPVは、数あるR.E.M.のPVの中でも屈指の出来栄えと評価されています。

Dead Letter Office

1987年4月27日発売。
US52位 UK60位
入手困難なシングル盤がファンの間で高額で取引されているのに心を痛め、ファンサービスのために発売されたB面集。が、USでもUKでもチャートインし、メンバーを驚かせました。ちなみにトム・ヨークは思春期にこのルバムを繰り返し聴いて育ったそうです。

ツアーを終えてしばらく休養した後、R.E.Mは次のアルバムの制作に取りかかりました。ドンにプロデュースを断られたので(後にドンは「一世一代の不覚」と後悔しています)、代わりに当時当確を現しつつあったスコット・リットをプロデューサーに起用しました。スコットは収拾のつかなくなった状態をさくさくまとめる、リリーホワイトタイプの人物で、アート志向のR.E.M.とは相性がよかったようで、ここから前作で火の点いたR.E.M.の快進撃が始まりました。

Document

1987年9月1日発売。
US10位 UK28位

前作以上に明瞭に聞こえるマイケルのヴォーカル、ダイナミックなサウンド、より政治的な歌詞とどれをとってもバンドの変化は一目瞭然。批評家は激賞、セールスは100万枚を超え、初のプラチナアルバムとなり、割と短い期間のツアーでは25万人を動員しました。名実ともにR.E.M.はアメリカを代表するロックバンドになったのです。ちなみに日本盤には聞き取りによる英詞が印刷されたのですが、後日、これを見とがめたマイケルが、英詞の間違いを訂正したという逸話があります。

US9位 UK16位
R.E.M.初のヒット曲。愛の裏切りに関する歌で、あまりにも不誠実な内容から、アルバムの収録を見送ろうという案もあったらしいです。ちなみに元ネタはエルトン・ジョンの「Bennie and the Jets」だそうです。

US69位 UK39位
90年代のライヴではフィナーレを飾ることが多かったこの曲。田中宗一郎さんのお気入りだそうです。

UK50位
なんとUKだけでチャートインするという逆転現象が。内容は金を儲けられないと負け犬扱いされるアメリカの労働倫理に対する異議申し立てだそうです。

ローリングストーンズ誌の表紙も飾りました。キャプションに「America’s Best Rock&Roll Band」とありますが、これが日本ではなぜか「世界で最も重要なバンド」と訳されて、その後しばらくR.E.M. を語る際の決まり文句となりました。

1987年といえば、U2が『The Joshua Tree』でブレイクした年なので「世界一のバンド」とは言いづらい。The Rolling Stonesは冬眠中だったとはいえ、まだまだ若く、今後どう転ぶか分からない(実際、1989年『Steel Wheels』で復活しました)。ボン・ジョビとメタリカはハードロック扱いで別枠・・・・・・ということでなかなか考え抜かれた文句なのではないでしょうか。

R.E.M.の歴史②


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?