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R.E.M.の歴史②


R.E.M.の歴史①

モンスターバンドへ

さてアルバムを5枚出したところでI.R.S.との契約は切れました。

もちろんI.R.S.としては、ビッグバンドの階段を駆け上がろうとしているR.E.M. との再契約を切に願っていました。またR.E.M. としても、自分たちのアート性を最大限尊重してくれ、十分にサポートしてくれたI.R.Sには恩義がありました――が、この期に及んでも、UK及びヨーロッパでなかなか人気の出ない状況に業を煮やしたR.E.M. は、結局、I.R.S.とは決別し、600万ドル(当時の為替レートで約7億2千万円)という契約金でメジャーレーベルのワーナー・ブラザーズに移籍します。そしてすぐさまスコット・リットとともにニューアルバムのレコーディングに入りました。

Green

1988年11月18日発売。
US12位 UK28位
「Two Things To Do November 8(11月8日にすべき2つのこと──アルバム購入と選挙の投票)」という宣伝文句の下、アルバムの発売日を大統領選挙の投票日(共和党のジョージ・ブッシュ・シニアと民主党のマイケル・デュカキスが戦い、前者が勝った)にぶつけてきた意欲作。これ以降、R.E.M. は2000年を除く大統領選挙の年に毎年ニューアルバムを発表するようになります。アルバムのセールスはあっというまに100万枚を超え、ひきずられるように過去のアルバムも売れ始めました。

US6位 UK48位
積極的に生きようという歌です。マイケルはR.E.M. にそぐわない歌と考えていたようですが、ヒットしました。

US86位
冗談みたいなPVの監督はマイケル自身です。「Talk About Passion」と歌っていたR.E.M. が「Should We Talk About Goverment」と歌うまでに政治的になりましたが、U2と違って説教臭くなく、ユーモアに包み込んでいるので、さらっと聴けますね。

UK28位。
U2みたいなスタジアムロックと誤解されることを恐れたこの曲はUKのみでヒットし、口パク番組で名高いTop of the Popsで披露しました。拡声器を使って歌うパフォーマンスは、R.E.M.への敬愛を公言しているテキサスの変態バンドButthole Surfersを真似たものだそうです。

アルバムを発表すると、R.E.M.は11ヶ月をかけて17ヶ国を回るこれまでで最大規模のワールドツアーに出ました。その模様は、MTVの粋を尽くした傑作ライヴ映像として名高いこの『Tourfilm』という映像作品にまとめられています。このタクトを使ったパフォーマンスはGang of Fourを真似たものだそうです。

またこのツアーでR.E.M.は②度目の来日を果たし、MZA有明(現ディファ有明)という小さな箱で、1989年1月28日・29日 の2日間、熱いパフォーマンスを見せました。他の国ではアリーナ級なのに少し寂しい話ではありますが、裏返せば、このレベルのバンドを小さな箱で観られるのは幸運とも言えるでしょう。

これまでの人生で僕が観たライブのベストは、1988年、東京・有明エムザでのREMのライブなんだ。「GREEN」という、突き抜けた攻撃性とポップさを同居させた傑作アルバムをひっさげて、来日した彼ら。その前の「DOCUMENT」というアルバムで成功をおさめた彼らが、新しいレーベルでさらに大きな成功をつかもうとしていた時期。おそらくロックバンドとしてのREMの絶頂期でもあったんだろう。オールスタンディングの会場で、興奮してステージ前に押し寄せ、つかみあいの喧嘩を始めた客に対して、フロントマンのマイケルスタイプがやさしく制止した。ひりひりした時間だった。その日、彼らの演ったロックは、本当に本当にリアルだった。リアルだったんだ。その日の感動は、20年以上経った今でも残っている。

REM

が、U2の『The Joshua Tree』の再来を期待していたワーナーは、前作とさほど変わらない「成功」に肩透かしを食らい、R.E.M.に去られたI.R.S.は「この程度なら自分たちにも出来たのに」と臍を噛んだということです。

そしてこのツアーで憔悴しきったR.E.M.は今後しばらくツアーに出ないことに決め、デビュー以来最長の休養期間を取った後、スコット・リットとともにニューアルバムのレコーディングに入りました。時間的・金銭的余裕が出来たということで、レコーディングは和気あいあいとした楽しいものだったようです。

Out of Time

1991年3月12日発売。
US1位 UK1位
Nirvanaの『Nevermind』が発表され、グランジ旋風が吹き荒れたこの年。R.E.M.が世に出したのは、キーボード、ストリングス、ブラスを導入、マンドリン、ペダルスチールを多用し、多彩なゲストを迎えたユーモアと優しさに溢れたピースフルロックアルバムでした。ツアーに出なかったにも関わらずアルバムはアメリカでもUKでもヨーロッパでも日本でも売れに売れ、累計1000万枚以上のセールスを記録。R.E.M.は名実ともにビッグバンドの仲間入りを果たしました。

US4位 UK19位
The Policeの「Every Breath You Take」に対抗して作られたというR.E.M.最大のヒット曲。個人的にU2の「With Or Without You」と同じく、聴き過ぎて、いい曲なのかどうかよく分からなくなっています(笑)。

UK28位
マイケルが手がけた環境問題の教育ビデオにも出演しているラッパー、KRSワンをフィーチャー。この年はレッチリが『Blood Sugar Sex Magik』でブレイクした年でもあり、レッチリとともにラップとロックが融合を果たしたと言えそうです。

US10位 UK6位
中国政府のプロパガンダからタイトルを頂いたこの曲では、アセンズの先輩The B 52'sのケイト・ピアーソンとの共演しています。さすがに悪ふざけがすぎたと思ったらしく、後年、セサミストリート出演時に演奏した以外、一度もライヴで演奏されていません。

UK27位
R.E.M.のエッジことマイクがリードヴォーカルを取ったこの曲は、エッジに対する同情票が入ったのか、IREチャート3位とアイルランドでヒットしました。

個人的にはシングルカットされていないR.E.M.版「Scarlet」と言うべきこの曲が好きです。U2の「Scarlet」は神への祈りという大げさなものですが、こちらは「会社行きたくねえなあ」レベルの生活者の祈りのように思えます。

が、ワーナー移籍後の急激な音楽性の転換はオールドファンの不興を買ったようで、アレック・フォージというSonic Youthに関する著作もあるロックジャーナリストは次のように述べています。

REMも、IRSレコーズからワーナーに移籍して『グリーン』を録音したときから、彼らのトレードマークだった奇妙な特徴をほとんど失ってしまった。 マイケル・スタイプの不明瞭なヴォーカルも、ピーター・バックのギターの騒々しさも、マイク・ミルズのさまようようなハーモニーも、 そして点描的でまがりくねった曲の構成も、そこにはなかった。プラチナ・レコードとなり、グラミー賞も勝ち取った『アウト・オブ・タイム』の頃(1991年)になると、もはや彼らは初期の姿から大きく離れていた。『ルージング・マイ・レリジョン』『シャイニー・ハッピー・ピープル』など、トップ40ラジオにかかりやすいキャッチーさはもっているものの、 ポップ・ソングの新たな領域を開拓するという意味では、もう見るべきものはなかった。REMはセールス的には大成功をおさめたが、それは他人の方法論を使ってだった。

ソニック・ユース・ストーリー

またPavementというR.E.M.への敬愛を公言していたオルタナを代表するバンドは、1997年に発売したシングルのB面にこんな曲を収録しています。

REM
1983年を回想しよう
Chronic TownはREMの1stEP
その後Reckoningがリリースされた

Howard Finsterによるアートワークは曲と調和していた
“South Central Rain”
“Don’t Go Back To Rockville”
“Harbourcoat”
“Pretty Persuasion”

キミたちは”Camera”になるために生まれた
“Time After Time”は最も嫌いな曲だった

ヴォーカルは長髪
ドラマーは自制することを知っていた
ベースは全く正しい動く
ギターは聖人じゃない・・・・・・

シャーマン将軍が丘の上に立っている
シャーマン将軍と部下たち
彼らはジョージアを行進している
彼らはジョージアを行進している
そしてREMが立っている

No Alternative(PavementのR.E.M.批判とNirvanaのVerse Chorus Verse)

本人たちは「R.E.M.を批判する意図はない」と言っているようですが、それはちょっと無理がありますね(笑)。マイケル自身も「僕たちは何かを得たけれど、何かを失った」と言っているように、U2もヨシュアで潜ったビッグバンドになる過程で誰もが通る関門なのでしょうね。個人的にはR.E.M.は上手くやりおおせたと思いますけれども。

Automatic For The People

1992年10月6日発売。
US3位 UK1位
前作の翌年、大統領選挙の年(共和党の現職ジョージ・ブッシュ・シニアとビル・クリントンが戦い、後者が勝った)に早くも届けられたこのアルバムは「R.E.M.の最高傑作」との誉れ高い名盤。元Led Zeppelinのジョン・ポール・ジョーンズがストリンスアレンジで参加しています。またしてもツアーに出なかったのにも関わらず、世界中で1500万枚のメガヒットを記録しました。U2のボノは「これまでで最も偉大なカントリーのレコード」と激賞し、Echo & the Bunnymenのイアン・マッカロクもお気に入りのアルバムの1つに挙げています。

US28位 UK11位
この曲はダニエル・ラノワの自宅スタジオでレコーディングされたそうです。元ネタはデヴィッド・エセックスの「Rock on

UK17位
冒頭の「イーヒーヒーヒーヒー」というヨーデルみたいな声は、「Wimoweh」という古い歌からの引用だそうで、R.E.M.はその作曲者に印税の一部を支払ったとのことです。

US26位 UK7位
自殺を考えている人を思いとどまらせる人生賛歌なのですが、この自殺大国日本ではとかく評判がよくありません。「みんな傷ついているんだよ。みんな同じだよ」と言われも、ちっとも救われないよ、ということらしいのですが・・・・・・。元ネタHair Of The Dogの「Love Hurts」。

US30位 UK18位
U2の『The Joshua Tree』は最初の3曲が凄いけれど、このアルバムは最後の3曲が凄い。その1曲目は喜劇俳優のアンディ・カフマンをモチーフにしたこの曲。後にこの曲を元にジム・キャリー主演で『マン・オン・ザ・ムーン』というアンディ・カフマンの映画が作られ、R.E.M. はサントラを担当しました。

UK27位
なにゆえアメリカでチャートインしなかったのか分からないぞくぞくするような名曲。PVは夜のプールに忍び込んだ素っ裸になって泳いだアセンズ時代の思い出を再現しているようです。TVドラマの『ビバリーヒルズ高校白書』で主人公の妹のブレンダが、この曲にじっと耳を傾けているシーンがあったような記憶が。

UK54位
まるでアメリカの短編小説か村上春樹の短編小説のような趣のある名曲。涙腺緩みます。

1993年、MTVのビル・クリントン大統領就任記念ライヴでは、マイケル、マイク、U2のアダム、ラリーが合体して、「Automatic Baby」名義で「One」を歌いました。世界一のロックバンドの座を争う両バンドの夢の共演――が、この年、そして翌年、アメリカのカルチャーシーンに激震が走る事件が立て続けに起きます。

1993年10月31日、マイケルの友達で、当時、ハリウッド若手俳優の筆頭格だったリヴァー・フェニックス(ホアキン・フェニックスの兄)が薬物の過剰摂取で23歳の若さで死去しました。

死亡当時、リヴァーはジョニー・デップが共同経営するヴァイパー・ルームでレッチリのフリーと演奏する予定だったのですが、演奏前に薬物を摂取して店の外で倒れました。その時、店のステージでは、デップがButthole Surfersのギビー・ヘインズらと組んでいたバンドPで、演奏していたのが、歌詞にマイケル・スタイプとリヴァー・フェニックスが登場する「Michale Stipe」という曲だったという逸話があります。リヴァーの死のショックでしばらくマイケルは仕事が手につかなくなったといいます。

さらに翌1994年4月3日、カート・コバーンが自宅でピストル自殺しました。享年27歳。遺書にはニール・ヤングの「Hey Hey, My My 」の歌詞の一節「It's better to burn out than to fade away(錆びつくより今燃え尽きる方がいい)」が引用され、部屋にはR.E.M.の「Automatic For The People」が流れていたと言われています。
カートは生前最後のインタビューでこんなこと↓を話すほどR.E.M.のファンで、メンバーとも交流がありました。

少なくともこのバンドであと1枚レコードを出すのはわかってる。どういうサウンドになるかもかなり想像がつくよ―空気みたいにすごく軽くて、アコースティックで、こないだのREMのアルバムみたいな音さ。彼らが書いたようないい曲を、2,3曲でいいから俺にも書けたらなあ・・・。あのバンドがどうやってああいうふうにやってるのか、俺にはわかんないよ。もう彼らは最強さ。まるで聖人のように成功に対処して、しかもグレイトな音楽を作り続けているんだから

カート・コバーンラストインタビュー

R.E.M.のメンバーは、カートの精神的不調を知っていて、制作中のアルバムで共演しようと話を持ちかけていた矢先の自殺だったので、かなりのショックを受けたといいます。
が、田中宗一郎氏がかくいうように、人間「それでも」生きていかねばならんと思います。

カートは死んだ。
弱さを「かっこいい」と思うのは、 気持ち的に分かるが、過度に神聖化するのは、 彼の本望ではないだろう。
R.E.M.は生き残った。
楽天家だったから、生き残ったのではないよ。 強いから生き残ったのでもない。
「生き恥をさらす」ことを選びとった。 理由は、とてもシンプルすぎて、「べた」とか言われるだろうが、 「希望」、そして「愛」とか呼ばれるもののせいだ。R.E.M.のファンはある意味、そういった「べたべた」な使い古されたものを、「にもかかわらず」信じようという意思を持っているのだと思うよ。
「絶望」を語るのは簡単。
「希望」を語るのは難しいが、「信じる」事はできる。

Monster

1994年9月27日発売
US1位 UK1位
リヴァー・フェニックスに捧げられ、セックスをテーマにしたらしいR.E.M.史上最もノイジーな作品。タイトルに『Monster』とつけるあたり、モンスターバンドになってしまった自分たちを揶揄する意味合いがあるように思います。U2の『Achtung Baby』と同じ立ち位置ですね。アルバムの評価は賛否両論でしたが、これも1000万枚上のセールスを記録。U2が「Zooropa」で一休みしている間だったので、渋谷陽一氏などは「世界一のロックバンドの座からU2を蹴落とした」と言っていました。例外的にフランスではまったく売れず、チャートインすらしませんでした。

US21位 UK9位
アメリカCBSの人気キャスター、ダン・ラザーが、ある日、「ケネス、フリクエンシーってなんだ?」と罵られながら暴漢に襲われたという話を元に作られた曲。ダンの証言が曖昧だったことから、事件はダ人気取りのためのでっち上げだという噂が流れ、この文句は答えようのない不条理な質問という意味があるそうです。

US113位 UK23位
PVの監督はあのスパイク・ジョーンズです。

US47位 UK9位
オートマのアウトテイク。

UK13位
『Achtung Baby』のボノのヴォーカルの影響か、マイケルが全編ファルセットで歌っています。

US19位 UK15位
訳詞を持っているんですけれど、バン、バン、バンて何を歌っているか分かりません😅

そしてこれがカート・コバーンに捧げた曲。「僕の心の中に入ってくれ」とカートに呼びかけています。ちなみにスタジオヴァージョンでは、ピーターはカートから貰ったギターで演奏したそうです。ちなみに同年、ニール・ヤングも「Sleeps With Angels」というカートに捧げたアルバムを発表しています。

アルバムを発表すると、R.E.M.は久しぶりに大規模なツアーに出ました。少しのんびりし過ぎたという自覚があったため、自分たちを追い込むために過酷なスケジュールを組んだようです。日本でも1995年2月1日・2日 の2日間、日本武道館で公演しました。私は行っていないのですが、伝説的と呼ばれるほど素晴らしいライヴだったようです。このツアーの模様は『Road Movie』という映像作品にまとめられましたが、これも素晴らしいですね。マイクが派手なシャツを着ているのは失恋のショックからのでようです。

ぼくは、このバンドのライヴを2回みています。1度目は、武道館です。彼らは、世界で最も優れたビデオクリップを作るバンドと言われていますし、ぼくも彼らのビデオは、全て持っています。特に、”FALL ON ME”のクリップは、ロック映像の歴史に残る作品だと思います。武道館のライブでは、スクリーンに、そんな彼らのクリップが映し出されながら、曲が演奏されます。ただし、曲とビデオが一致してなく、当然、曲が終わっても、ビデオの方は終わっていないというような感じでライブは進んでいくのですが、それも計算されているようで、コンサートの雰囲気を一段と盛り上げていました。ラストの”it's the end of the world as we know it”では、スクリーンに、はてなマークが次々に映し出されるという、演出で、この曲の大好きなぼくは、ほとんど頭が真っ白になるような体験でした。

過酷なスケジュールが災いしたのか、ツアー中、ビルが静脈瘤でステージ上で倒れ生死の間を彷徨う重症を負いました。またマイクも盲腸で入院、マイケルもヘルニアの手術を受け、まさにバンドは満身創痍。が、その間も、密かに次のアルバムのためのレコーディングが進んでいました。『Monster』のレコーディング中は煮詰まりすぎて、メンバーの仲が険悪になった反省から、今度はツアー中に出来上がり次第、曲をレコーディングしていくことにしたのです。

またアルバム発売直前の1996年8月、R.E.M.はワーナーとさらにアルバムを5枚出す再契約をしました。契約金は、当時音楽史上最高額という8,000万ドル(当時の為替レートで約90億円)。前回の10倍以上の破格の金額です。プリンスを失ったワーナーが「良心的なレーベル」のイメージを保つためにR.E.M.を手放しくなかったという事情があったようですが、それにしてもとてつもない金額で大きな話題を呼びました。

この契約が、後年、某音楽雑誌で音楽業界の失敗ワースト13位にランクされることになるとは、当時、誰も想像だにしなかったことでしょう。

New Adventures In Hi-Fi

1996年9月10日発売
US2位 UK1位
大統領選挙の年(民主党の現職ビル・クリントンと共和党のロバート・ドールが戦って前者が勝利)に発売された、ワーナーとの最初の契約の最後のアルバム。日本盤の帯には「あなたの勇気はR.E.M.級ですか?」という大仰な文句がつけられていましたが、アコースティックかつエレクトロニックな、繊細かつ雄大な唯一無二な音を鳴らしています。これをR.E.M.の最高傑作に挙げる人も多いですね。ちなみに日本盤のライナーノーツには田中宗一郎氏の長文が載っており、必読です。

そう、この1時間強の冒険ドラマには過剰な起承転結はなく、全体にどこか乾いたあっけなさで覆われている。だが、これこそがタイトルに相応しい内容だと思う。さて、また、8トラック・レコーダーを担いで、冒険に出かけよう――そういうことだ。
96年8月 SNOOZER 田中宗一郎
P.S. それにしてもこのモノクロームのジャケット! ああ、なんてR.E.M.なんだろう。

US49位 UK4位
パティ・スミスとの共演。パティの使い方がちょっともったいないとは思いますが。

シングルカットもされていないし、PVも制作されていませんが、アルバム収録曲の中で最もスケールの大きい曲です。映画『普通じゃない』のサントラにはアカペラヴァージョンが収録され、こちらも素晴らしい。後者は「In Time: The Best Of R.E.M. 1988-2003 」の2枚組のDisc 2にも収録されています。

US96位 UK13位
アルバムのフィーナーレを飾る曲。ユニークなPVも相まって名曲の誉れ高いです。

個人的にはシングルカットされていないこの曲が好きですね。スコット・リットは「適切なアレンジをすれば大ヒットは間違いない」と言ったのですが、メンバーは「よし。それじゃあその『適切なアレンジ』とやらはやめにしよう」と答えたという逸話があります。

アルバム収録曲ではありませんが、「Bittersweet Me」のシングルのB面に収録されている70年代にグレン・キャンベルがヒットさせたカントリーソング。田中宗一郎氏のインタビューに「グレン・キャンベルを聴いている。1 度聴いてみるといい。カントリーの歌詞には聴くに値するものが多いんだ」と言って、宗一郎を絶句させた1曲です。

曲順は前後しますが、アルバムの最初の曲です。初めて聴いた時、「あれ、ちょっと元気ないな」と思いました。アルバム自体の出来は素晴らしいのですが、何かが終わっていく、そんな予感がしたのです。実際、アルバムのセールスは前作に比べてかなり落ち込み、ウィキによると前作はアメリカで400万枚売れたのに、これは100万枚くらいだったようです。が、なにぶん、ツアー中に制作したアルバムで、U2の『Zooropa』の如く実験色の強い作品と捉えられていた節もあったので、この時点では、セールスの低下は深刻に受け止められることはなかったと記憶しています。

が、このアルバムの発売後、衝撃のニュースが走ります。

1997年10月30日、ドラマーのビル・ベリーが脱退したのです。重病から復帰したビルでしたが、やはり健康が不安で、家族とバンドを天秤にかけた結果、前者を選んだということのようです。ビルは自分の脱退がバンドの解散に繋がるようだったら残ると言ったらしいですが、他のメンバーは、ビルの意思を尊重し、代わりのドラマーも入れず、バンドも続けると言いました。

またこの頃、長年バンドを支えてきたマネージャーのジェファーソン・ホルトを解雇しました。詳しい事情は知りませんが、あまり友好的な別れ方ではなかったようです。

さらにニューアルバムのレコーディングに入る際、スコット・リットが他の仕事にかかりきりでスケジュールが合わなかったので、ミキサーだったパット・マッカーシーを代理に立てることになりました。U2の『The Joshua Tree』でミキサーを務め、イーノが「Where the Streets Have No Name」を録音したテープを破棄しようとした時、慌てて止めに入ったあの人です。

ビルが脱退した際、マイケルはR.E.M.を「3本足の犬」に例えましたが、マネージャーの解雇、プロデューサーの交代と、足どころか、脳みその一部と二部を失った状態で新作のレコーディングに挑みました。

R.E.M.は確実に岐路に立たされていました。

R.E.M.の歴史③


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