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The Boomtown Rats / ボブ・ゲルドフ


The Boomtown Rats

ボブ・ゲルドフは、1951年10月5日、ダブリン近郊の町ダンレアリーに生まれました。ボノより9歳年上で、ボノと同じく青年期に母親を亡くしています。サクスフォンを弾き、ラグビーに興じるごくごく普通の若者だったボブは、大学卒業後、しばらく肉体労働に従事した後、カナダに渡って、独立系の音楽雑誌でジャーナリストとして働きます。そして1975年、アイルランドに帰国するとメンバーを集めてThe Boomtown Ratsを結成。当初は、ストーンズみたいなR&Bバンド目指してしましたが、パンクが流行し始めると、機を見るに敏な彼らはすかさずパンクバンドに転向、ダブリンで評判を取った後、メジャーレーベルとの契約目指してロンドンへ渡り、首尾よくエンサイン・レコードと契約を交わします。

1977年1stアルバム『Boomtown Rats』
UK18位 UKシルバー
プロデューサーはHR/HM畑で有名なロバート・ジョン“マット”ランジ。ボブが「ブルース・スプリングスティーンに対するアイルランドからの回答」と称するこの作品は凡百のパンクバンドとは一線を画したR&Bやパブロックのような音楽の純粋な楽しさに溢れた快作です。

UK11位
トップ・オブ・ザ・ポップスにおける初のニュー・ウェーヴ・バンドの出演と言われています。

スイスのチューリッヒの街中を闊歩するラッツの面々。楽曲もそうですが、「今、僕とミック・ジャガーが一緒に歩いていたら、みんな僕にサインを求めるよね」という発言に代表されるボブの扇情的・挑発的な言動もバンドの人気に拍車をかけたそうです。

1978年2ndアルバム『Tonic For The Troops』
UK8位 US112位 UKプラチナ
プロデューサーは二度マット・ランジ。ヒトラーの愛人エヴァ・ブラウンや大富豪ハワード・ヒューズをテーマにしたスケールの大きい曲も収録され、バンドがパンクからニューウェイヴに大きく脱皮した快作でトップ10
入りする大ヒットとなりました。

UK1位 UKゴールド
そしてこの曲でアイルランド人として初めてUKシングルチャートで1位に輝きました。U2が「Where the Streets Have No Name」でも「With Or Without You」でも成し遂げられず、デビュー8年目にして「Desire」でようやく達成したことを、デビュー2年目、2ndアルバムで成し遂げたのですから、これがどれだけ凄いことが分かるでしょう。このラッツの成功は、U2以下アイルランドで野心をたぎらせていたバンドたちにとって大いに励みになったといいます。

1979年3rdアルバム『The Fine Art of Surfacing』
UK7位 US103位 UKシルバー
バンドの最高傑作の誉れ高い傑作。

UK1位 UKゴールド
この年1月、カリフォルニア州サンディエゴでブレンダ・アン・スペンサーという16歳の少女が、小学校の校庭でライフルを乱射して子供8人を含む10人殺害し、1人を負傷させる事件が起きました。動機を尋ねられた彼女は「月曜日が嫌いなの」と答えたといいます。この事件に着想を得たボブはこの曲を書きました。発表時からセンセーションを巻き起こし、4週連続でUK1位を記録する大ヒットとなりました。アメリカではスペンサーの両親がレコードの販売差し止め訴訟を起こし、各ラジオ局が放送を自粛したせいで、76位に留まりましたが、ほとぼりが冷めると、普通に放送されるようになり、今ではスタンダードナンバーになっています。

この頃、ラッツは、1980年、そして1983年と2回来日公演を果たしています。一目見て気に入ったということで、メンバー全員、日本の学生服を着てのパフォーマンスです。

そんなRatsが初来日した時、1980年5月1日(木)NHKホールで見てきました。11列目でS席3000円。 当時には珍しくボブゲルドフがstand up! ダンス!ダンス!と観客を煽り始めから席を立ってノリノリだったのを記憶してます。 昔は席を立つと警備員が座らせに飛んできましたものです。だいたいアンコールは席を立ってもいいみたいな暗黙の了解があったよね。 実際4月28日中野サンプラザでは観客がステージ前に殺到し、2階のため床が抜ける危険があるため自分の席で踊るよう、ファンにボブが説明したように観客にやさしい心配りを見せたらしい。それにしても、ボブは手足が長かったのが印象的でした

哀愁のマンデー

またラッツのキーボード奏者・ジョニー・フィンガーズは来日時のことを振り返ってこう語っています。

日本にはアメリカツアーの後に行ったんだ。初めてのアジアの国だったけど、それまで行った所よりもかなり違っていた。まず最初に群集、雑音、街に溢れる色々な放送音楽が四六時中絶え間ない・・・どこもかしこもね。こういう状況から自由なんてなかったよ。ホテルに到着してすぐスケジュールに関するミーティングがあったんだけど、どの瞬間もスケジュールで調整されている・・・これは奇妙だったし全てが精確に動いているみたいだった。こういうきちっとした時間のスケジュールに僕たちは慣れていなかった。全てが仕切られていたみたいだった。それに部屋にチェックインしたらベッドが小さすぎてね。ヨドバシカメラに行ってスーパー8カメラを買い、ここに滞在している間撮影をしていたんだ。この旅の思い出にと、ここで感じたことを記録しておきたかった、というのも、もうここに来ることはないだろうって思っていたからね

Interview with Johnnie Fingers, Boomtown Rats

1981年4thアルバム『Mondo Bongo』
UK6位 US116位 UKゴールド
マーキュリーに移籍し、プロデューサーも前3作のマット・レンジからトニー・ヴィスコンティに替えての4作目。大胆にエスニックサウンドを採り入れた野心作で、セールス的には成功しましたが、評論家筋には酷評されました。

UK3位 UKシルバー
「バナナ共和国」とは本来バナナの輸出に頼る中南米諸国のことを差すのですが、ここでは、ボブ・ゲルドフがアイルランドの政治家や聖職者を貶したために祖国でのライブを禁じたアイルランド共和国のことです。放送禁止になりました。

1982年5thアルバム『V Deep
UK64位
引き続きヴィスコンティのプロデュース。前作の路線をさらに推し進めた感じですが、とっちらかった印象で、大変聴き苦しい。そのせいかギタリストのゲリー・コットが脱退、アメリカではアルバム発売を拒否されてEPでの発売となり、UKチャートでも64位と振るわず、散々な結果に終わりました。バンドは存続の危機に立たされます。

ミュージシャンとしてのキャリアの危機を覚えたのか、ボブはアラン・パーカー監督がピンク・フロイドの『ザ・ウォール』を映像化した映画に出演しました。アイルランド系アメリカ人の映画監督とアイルランドのロックスターの組み合わせには感慨深いものがあります。が、今でこそカルト作品として人気の高いこの作品ですが、当時は酷評され、キャリアの巻き返しとは行きませんでした。

1984年6thアルバム『In The Long Grass』
US188位
前作のやり過ぎを反省してか、素直なシンセポップ路線。が、今度は素直過ぎて、バンドの個性が微塵も見られない凡作に仕上がりました。アルバムはUKではチャートインすらせず、商業的に大惨敗。ここにバンドの命運は尽きました。


が、「南部出身のやり手で、ブラックロック・カレッジ出身で、図々しく、独創的で、ショウマンで――そして冷酷な人間」(U2ストーリー)とも称されるボブ。転んでもただでは起きません。歌も駄目、映画も駄目と来たボブは、今度、新たな商機を見出します。

それがチャリティビジネスでした。

ライブエイド

1984年12月、ボブは、あるテレビ番組でエチオピアを襲った飢饉の映像を観て「ショックを受け」、ウルトラヴォックスのミッジ・ユーロと「Do They Know It's Christmas?」という曲を書き上げました。
そしてスティング、ポール・ウェラー、フィル・コリンズ、ジョージ・マイケル、ボノといったUK圏の人気ミュージシャンを誘ってレコーディングを行ったのです。前々からボブは「ロックンロールはセックスから離れるべきではない」と公言するような人物だったため、そんなボブの変貌ぶりに大変驚いた、と後年ボノは述懐しています。
クリスマス商戦に間に合うようにレコーンディングされ、発売されたこの曲は、世界各国のチャートでNo.1に輝き、当時、UK音楽史上最大の売上となる500万枚を記録しました。そしてその収益金800万ポンド(約27億円)は全額エチオピアの飢餓救済のために寄付されたのです。この時、ボブは、義援金や義援物資がきちんと人々の手元に届いているかたしかめるために、わざわざエチオピアまで赴きました――が、後年、この収益金の90%以上が反政府勢力に渡って武器購入に当てられていたというレポートをBBCが掲載し、ボブが疑惑を全面否定、BBC会長の辞任を要求する一幕がありました。真相はいかに?

さらに翌1985年、「Do They Know It's Christmas?」の成功に触発されたクインシー・ジョーンズ、マイケル・ジャクソンらアメリカの人気ミュージシャンが集ってレコーディングした「We Are The World」にもボブは参加。映像はレコーディング現場で和気あいあいと盛り上がるミュージシャンたちをボブが一喝しているところです。そしてこのチャリティソングの火は世界中に飛び火して行きました。

カナダでは、ブライアン・アダムス、ジョニ・ミッチェル、ニール・ヤング、コリー・ハート、ブルース・コックバーン、ジェーン・シベリー、ジョン・キャンディなどのカナダ出身のミュージシャンが集って、デヴィッド・フォスターのプロデュースで「Tears Are Not Enough」という曲がレコデーィングされました。

またポピュラーミュージックが生まれて間もない中国でも、当時の人気歌手が集まって「让世界充满爱」という歌を歌いました。

アメリカじゃ当然USAフォー・アメリカが一番有名だったけれど、フランスだとシャンソン・フロンタルイュの方が有名だったし、トルコ版もあれば、カナダのノーザン・ライツもあったし、イタリアじゃ参加した全員が他人の曲を歌うのを嫌がったので、「Volare」がイタリア版バンド・エイドの曲になった。ユーゴスラビアにもあったし、香港にもあった。ヨーロッパでは全部の国に。僕は『これをすべてリンクさせてクリスマスの日に一斉に演奏したらどうだろう?』と考えた。でもそこで、『いや、そんなの死ぬほど退屈だろう。どれもひどいのばっかだし、はっきり言って、どのレコードもひどいのばっかだった』と考え直してね。
(ボブ・ゲルドフ)

が、この「すべてをリンクさせる」というアイデアを気に入ったボブは、アメリカとUKでそれぞれの人気ミュージシャンが一堂に会するチャリティライヴの構想を思いつき、大物プロモーターのビル・グラハムに話を持ちかけます。が、当初はコンサート形式ではなく、9.11テロ追悼番組「トリビュート・トゥ・ヒーローズ」のようなテレビ番組を意図していたようです。

最初から僕はテレビ番組のつもりだった。コンサートじゃなくて。僕は一度もそんな風に思わなかった。あくまでもテレビ番組だし、その目的もはっきりしていた。金だ。あれはすごく実利的なイベントだった。僕が狙っていたのは『地球的なジュークボックス』だ。15分、出演時間はそれだけしかない。やるのはヒット曲だけ。他のことをやっている暇はない。
(ボブ・ゲルドフ)

チャリティライヴの構想はいつしか大規模なコンサートの開催に発展していき、ボブやビルの尽力もあって、続々と大物ミュージシャンが参加の意思を表明し始めました。ちなみにライヴ開催に際して金策のために世界中を駆けずり回ったボブでしたが、開催地であるイギリスのサッチャー首相はまったく聞く耳を持ってくれなかったとのことです。が、ここで一つ問題が持ち上がりました。それはエチオピアの飢饉救済を目的としたライヴなのに、黒人のミュージシャンが少ないということです。当時、飛ぶ鳥を落とす勢いだったマイケル・ジャクソンもプリンスもいない。ジェームズ・ブラウンもスティーヴィー・ワンダーもいない。そんなことってありえるでしょうか?
これに関してはボブの次の言葉が伝えられています。

出演者はどれだけ多くの人を集められるかという観点で選んだ。スティールパルスとワム!のどちらかを選べといわれたら、迷わずワム!を選ぶ」「より多くの人を呼べれば、より多くの金が集められ、アフリカで生きられる人の数が増える

一方、ビル・グラハムはこう語っています。

私に言えるのは、メジャーな黒人アーチストにはすべてコンタクトを取ったということだけだ。名前を挙げるのは勘弁して欲しい……ただ全員がライヴエイドを袖にしたことはたしかだ。私だって仕事を断ることがある。それだけで彼らが無関心だったことにはならないだろう。でもメジャーな黒人アーチスト全員がだよ? 超ビッグな連中全員がだよ?

それでもフォー・トップスなどの黒人ミュージシャンを何人か集めることが出来、ミュージシャンやレコード会社、ライヴを放映するテレビ局のエゴに振り回されながらも、なんとかライヴは実現にこじつけられました。ライヴ直前にはアメリカ、UK双方のメデイアでは、ライヴの話題で持ちきりで、両会場のチケットはソールドアウトました。

ライヴ当日の7月13日、ロンドン郊外のウェンブリー・スタジアムとフィラデルフィアのJFKスタジアムの二ヶ所に設けられた会場には、クイーン、スティング、ボブ・ディラン、デヴィッド・ボウイ、ジョージ・マイケル、ブライアン・アダムスなどなど当代きっての人気ミュージシャンが多数集結しました。演奏時間は12時間超、84ヵ国に生中継、VTRを含めると140ヵ国に中継され、20億人が視聴したといわれています。前年に行われたロス五輪を凌ぐ大規模なライヴでした

開店休業中だったラッツも一応参加しましたが「Rap Trap」を歌っていう途中、興奮したボブがマイクのコードを抜いてしまい、声が聞こえなくなったというトラブルに見舞われました。この部分はDVDではカットされています。

ビル・グラハムはボブ・ディランの「Blown' In The Wind」でライヴを締めくくりたかったようですが、それは実現せず、出演アーチストがステージに上がって、JFKスタアジアムでは「We Are The World」、ウェンブリー・スタジアムでは「Do They Know Its Christmas 」を皆で合唱して大団円を迎えました。ライヴの収益は1億4000万ドル(約350億円)と言われています。以後、世界各地で大規模なチャリティライヴが開かれるようになりましたが、ライヴエイドはその雛形になったといっても過言ではないでしょう。

ライヴを振り返ってビル・グラハムはこう語っています。

ライヴエイドの構想の下でもやはり内部抗争はあったんだ。但しボブ・ゲルドフと私は一度もきつい言葉を交わしていない。一度たりとも。彼は慎みのある人間だし、とても聡明な男だ。アーチスト側からすればゲルドフも同じアーチスト仲間だったから、私には窺い知れないやり方で、連中を引きつけることができた。それについてはできる限りのことをしてくれたし、その点では彼を大いに尊敬している。

またU2ストーリーにはU2のマネージャー・ポール・マクギネスとボブのこんなやりとりが、活写されています。

U2がステージ上で「Bad」を演奏しているのをステージ裏で観ながら)ポールは泣いていた。ゲルドフもそうだ。二人は抱き合い、嬉し泣きをしていた。「あんたなんか大嫌いだった」とゲルドフが言う。「俺だって、お前なんか好きじゃなかった」とポールも認める。だが、この日がお互いどんな意味を持つかを知るほどには、理解し合っていた。

1986年、ボブは35歳の若さにしてナイトの爵位を授与され、サー・ボブ・ゲルドフとなりました。ミュージシャンで爵位を持っているのは、エルトン・ジョン、ポール・マッカートニー、ミック・ジャガー、クリフ・リチャード、トム・ジョーンズ、ボノくらい。しかも皆、結構、年をとってから貰っているので、これは異例中の異例といえます(もっともサーボブの場合、音楽活動ではなくライブエイドの功績に対して与えられたのですが)。そして同年、かねてより交際していた音楽ジャーナリストのポーラ・イェーツと結婚しました。

が、肝心の音楽の方はといますと、同年、アイルランドの失業者救済を目的としたチャリティライヴ・セルフエイドのステージを以てラッツは正式に解散。サーボブは人生の第二幕に挑むことになります。ちなみにステージではいつもパジャマを着ていたラッツのキーボード奏者・ジョニー・フィンガーズは、一体、なんの縁なのか、その後活動の拠点を東京に移し、リンドバーグ、荻野目洋子、UAなどのをプロデュースしたり、忌野清志郎のバンドで演奏したりしていました。現在はフジロックを主催するスマッシュの取締役だそうです。

ソロ活動

1986年1stアルバム『Deep In The Heart Of Nowhere』
UK79位 US130位
ライヴエイドは大成功、ナイトの爵位も貰った、結婚した、バンドは解散した……ということで期するところもあったことでしょう。ミッジ・ユーロ、エリック・クラプトン、ブライアン・セッツァーなどの豪華な布陣をゲストに迎えた満を持して1stソロアルバム。

UK25位 US82位
ライヴエイドの経験を踏まえた、スケールの大きい、ややもすれば大げさな1曲。スタジオヴァージョンでは、マリア・マッキー(Lone Justice)、アニー・レノックス(Eurythmics)、アリソン・モイエ(Yazoo)というこれまた豪華な3人をバックコーラスに据えています。

が、アルバムセールスはUK79位と大惨敗。アルバムレビューに目を通してみると、「中だるみする」という感想が多いようですが、それにしても、これほどまでセールスで苦戦するほど悪い内容とも思えません。もしかしたら3rdアルバムを発表した時のOasisのように、極限にまで膨らんだファンの期待に応えられなかったせいかもしれませんね。サーボブも「なぜだ?!」という心境だったでしょう。

1990年2ndアルバム『Vegetarians Of Love
UK21位
ポール・キャラック(Mike + The Mechanics )、ケヴィン・ゴドレイ(10cc)、デイブ・スチュアート((Eurythmics)とまたしても豪華なゲストを迎え、ケルトミュージックの影響を窺わせる力作です。

1993年3rdアルバム『The Happy Club』
前作の路線をさらに推し進めたケルト風味のソフトロックの快作です――が、やはりブリットポップ・ブームにかき消されてしまったのか、アルバムもシングルもチャートインすらせず、セールスは大惨敗に終わりました。サーボブのミュージシャンとしてのキャリアは風前の灯となったのです。

UK65位
翌1994年、同年発売されたベスト盤に収録された新曲。バックコーラスはスティングです。この曲は若干持ち直してUK65位。ベスト盤もUK10位と健闘しました。やはりラッツ人気強しです。

IRE1位
1996年、テレビ番組のキャラクターとの共演でこの曲をセルフカバー。UKチャートにはかすりもしませんでしたが、IRE1位と地味に地元でヒットしました。段々、ローカルに、過去の人になっていっているような感じです。

さらにミュージシャンとして落ち目になったサーボブに私生活のスキャンダルが襲います。1986年に結婚したボブとポーラの間には3人の娘がいましたが、1994年、テレビ番組で共演したのを機に、ポーラはINXSのマイケル・ハッチェンスと恋仲になりました。1995年に別居、1996年には離婚。ポーラとハッチェンスの間にはタイガーリリィという名前の娘が生まれました。が、結婚して1年足らずの1997年、ハッチェンスはシドニーのとあるホテルで首吊り自殺をしてしまいます。享年37歳。さらに2000年、ポーラはハッチェンスの後を追うように薬物の過剰摂取で亡くなりました。享年41歳。セレブ人生のあまりにも呆気ない幕切れです。
そしてポーラの死後、サーボブはタイガーリリィを引き取り、養女にしました。ボブの4人の娘のうち、ピクシーとピーチーズはお騒がせセレブ嬢として、日夜、マスコミを賑わせていました。

自分がミュージシャンであることは忘れていないでしょうが、世間からはすっかり忘れ去られ、いそいそと副業のチャリティビジネスに勤しむサーボブ。なんでもこの当時のサーボブの講演料は1回600万円で、その名声を当て込んだ複数の企業の役員にも名を連ね、総資産は50億円にも上るとか……が、肩書きの「ロック歌手」がどこか物悲しい。

2002年4thアルバム『Sex, Age & Death』
UK134位
内容な大人のアーバンブルーズといった感じで非常に充実。が、チャートはまったく振るわず、UK134位に留まりました

(ポーラ・イェーツとの一連の出来事が作品に反映されているか問われて)ジ・エンド。作家なら、そうだろうな……。物を書く能力によって体験が形となる。それが物事を大局的に見たり、理解不能なものを分からせるんだ。『Sex, Age & Death』を書く気はなかったけれど、書こうとするときはいつでも、経験が形になって出てきてしまう。それは避けられないことだ。なぜって、すべての曲には日記に書いてあるような要素があるから。
(ボブ・ゲルドフ)

が、そんなサーボブが久しぶりに世間の脚光を浴びる機会がやってきました。
ライブ8です。当初、サーボブは「ライヴエイドの二番煎じは嫌だ」と乗り気ではなかったようなのですが、ボノに急かされる形で、2005年7月2日にスコットランドで行われる予定のG8を前に、ボノが関わっているDATAという慈善団体の精神に則り、途上国に対する支援金を倍増すること、債務を帳消しにすること、公正な貿易ルールを確立することを世界の首脳に求めることを目的としたライヴ8を開催することになりました。

が、前回と同じく「黒人ミュージシャンが少ない」という非難の声がまた上がりました。

とにもかくにもライヴは実現。ロンドン、フィラデルフィア、東京など世界8ヶ所に設けられたライブ会場には前回にも負けない超豪華な顔触れ揃い、成功のうちに終わりました。が、前回のようにバンドエイド→USAフォー・アフリカ→ライヴエイドというライヴを盛り上げる一連の流れがなかっただけに、いまいち世間に浸透しきれず、ロックファンの間でだけ盛り上がったというきらいはありました。何はともあれ、これにより慈善活動家としてのサーボブの名声は不動のものとなり、一説には、サーボブの講演料は日本円にして1回600万円から1000万円に跳ね上がったといわれています。

そして翌2006年、サーボブはダブリンの名誉市民を授与されて、印紙税の免除とセント・スティーブンス・グリーン(ダブリン市内にある公園)で羊を放牧する権利を得ました。さらにこの年、そして2008年にはノーベル平和賞の候補にも挙がったのです。先のナイトの爵位と合わせて、人生の栄達ここに極まりといっても過言ではないでしょう。パンクから遠いところへ来たものです。

が、この手の人物には批判ややっかみがあるのが常。

近田春夫さんには「チェルノブイリのブームが去ったら/ アフリカ救済もう流行らない/ ロックバンドのブームが去ったら/ レコード会社は丸裸/ボブ・ゲルドフの音楽売れない/ ボブ・ゲルドフの音楽売れない」と歌われてしまいました。

これはイングランドの若手パンクバンドが、慈善活動に走るボノとサーボブを揶揄した曲のようです。

が、金持ち喧嘩せずの心境なのか、2007年、サーボブは「I am Bob」というショートフィルムに出演しました。内容はイングランド北部の田舎町に迷い込んだところ、丁度、そこでは、そっくりさんコンテストが行われていて、誰も自分が本物のサーボブだと信じてくれない。そのうちサーボブそっくりさんが現れて……というものらしいです。

2011年5th『How to Compose Popular Songs That Will Sell』
UK89位
「売れる曲の作り方」とは意味深なタイトルです。CDが売れない時代になりましたから、どうせ何やっても売れないんだ、と吹っ切れたような気持ちがあったのでしょうか? 内容な前作に引き続いてソフトな大人のロック路線で、なかなか聴き応えあります。このアルバムはUKチャート89位と、ささやかながらもチャートインしました。

この曲はUKシングルチャート146位とささやかながらもチャートイン。

サーボブも一度は脚光を浴びたミュージシャン、この程度の成功では満足できないようで、「もしもライブエイドをやっていなければ、自分はスティングやポール・ウェラーのようなソロキャリアを楽しんでいいただろう」と発言しています――が、果たしてライブエイドのせいにしていいのやら。その前に既にラッツは人気を失っていたし、寧ろ、ライヴエイドで再び世間の目を自分に向けることができたのに、それを生かせなかったサーボブ自身に非があるような気がしてなりません。

セールスは低迷、ライヴは「このレベルのミュージシャンのこのレベルのライヴをこんな小さな箱で観れるのはラッキーだ」と妙な誉め方をされるほどの小さな規模、それも単発ライヴではチケットがさばけず、中止に追い込まれることもあったようです。ということで、2013年1月、歌を聴いてもらうためにはラッツが必要なサーボブ、金のためにはラッツが必要な他のメンバーの思惑が一致したのか、ゲリー・コットとジョニー・フィンガーズを除く4人のメンバーでラッツは再結成されました。

が、待望の新曲は、ユーロビート風とでもいったらいいのか、一体、何を目指しているのか分からない感じで、Youtubeのコメント欄もアマゾンのレビュー欄も酷評の嵐。ソロ作品はおしなべて内容はよかっただけに、これはどうしたことでしょう? 単にアルバムの発売に間に合わず、ありあわせの曲ですましたということかもしれませんが、それにしてもです。

再結成後、ラッツは精力的にライヴをこなし、2014年にはボブが宇宙旅行をする計画もあったようです。が、その年の4月、娘のピーチズがヘロインの過剰摂取で亡くなるという悲劇がありました。享年25歳。母親と同じ死因でした。

娘の死に当たってボブは次のような声明を発表しました。

ピーチズが亡くなりました。我々は悲しみにくれています。ピーチズは最もワイルドで面白く、ウィットに飛んで、家族の中で一番おかしな奴でした。こうやって書いていると、改めて打ちのめされます。なんて美しい子どもだったか。彼女に僕たちはもう逢えないなんてあり得るんでしょうか?こんなことに耐えられるんでしょうか?彼女を永遠に心から愛し大切にします。なんて悲しい文句なんだろう。トム(夫)と息子のアスタラとファエドラは我々の家族でありつづけます。時々、砕けてしまうけど、壊れることはありません。ボブ、ジーン、フィフィ、ピクシー、タイガー・ゲルドフより

そして再結成から7年後、待望のニューアルバムがリリースされました。Spotifyの再生回数を見てみると、やはりそこそこ聞かれているようです。


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