見出し画像

The Pogues【アイリッシュパンクの元祖】

  • 活動期間:1982年~1996年、2001年~

  • 結成:ロンドン

  • メンバー:Shane MacGowan、Spider Stacy、Jem Finer、James Fearnley、Andrew Ranken、Darryl Hunt、Terry Woods

  • 元メンバー: Cait O'Riordan、Phil Chevron、Joe Strummer、Dave Coulter、James McNally、Jamie Clarke

The Pogues。一代でケルティックパンクなる一大ジャンルを築き上げたスーパーバンド。ケルト音楽を一般音楽ファンに広めたという意味でもその功績は計り知れません。

シェイン・マガウアンは1957年12月25日――つまりクリスマス――ケント生まれ。ボノより3つ年上です。実家は農家でしたが、文学や音楽を愛する父親、トラディショナルバンドで歌ったり、モデルをしたりしていた母親という非常に芸術的に恵まれた環境で育ちました。シェインが6歳の時一家はロンドンに移住。そして14歳で奨学金を得て、シェインは名門パブリックスクールに入学します。今となっては信じがたいことですが、シェインは学業優秀者だったのです。が、ドラッグが原因で1年で学校を退学してしまいました。

決して裕福ではない家庭、しかもアイルランド人では、学校の雰囲気が合わなかったのでしょう。この退学はシェインの心に深い傷を作り、その後の狂信的ともいえるアイルランドに対する愛国心、そしてケルト音楽への傾倒に繋がったといえるでしょう。つまりケルティックパンクを作ったのはアイルランド人ではなく「UK育ちのアイルランド人」というわけです。アメリカンロックの礎を築いたのが、カナダ人のThe Bandだったように。

学校中退後、レコード店でバイトしていたシェインはSex Pistols に感化されてパンクに目覚め、パンクバンドのライブに足繁く通うようになります。そしてThe Clashのギグの際、シェイン(写真手前右)は、後にMo-dettesというポストパンクバンドを結成するジェーンという女性にビール瓶で殴られ、首を負傷したのですが、この時の様子が写真に撮られて某音楽雑誌に載りました。

これがその写真。恐らくシェインのメディア初登場です。ちなみにこの写真を撮ったのはイアン・ディクソンという後に有名になったロック写真家の方です。

その後、パンクのファン雑誌を作っていたシェインですが、ついに自分のバンドThe Nipple Erectorsを結成。1978年に1stシングル「The Nipple Erectors」を発売。なんでもメンバー全員アルコールとドラッグでいかれながらレコーディングをしたそうです。ちなみにプロデューサーはバイトしていたレコード店の店長さんです。

その後バンドは名前をThe Nipsと変えてシングルを3枚リリース。The ClashやJamの前座を務め、ポール・ウェラーに気に入られて、この曲はウェラーがプロデュースしました。

当時の貴重な映像です。1981年にThe Nipsは解散。メンバーの移り変わりが激しかったようですが、最後の方にはCulture Clubのメンバーであるジョー・モスもいたそうです。またバンドの後期には、単なるパンクバンドからアメリカやアイルランドの伝統音楽をロックに採り入れるスタイルを模索していたようで、ライブではそれらの曲を演奏していたらしいですね。これがThe Poguesの下地となったのでしょう。なおThe Nipsは2008年に一時的に再結成してライブを行いました。

1984年1st「Red Roses for Me
UK89位
The Nips解散後、シェインはメンバーを6人集めてPogue Mahone(ゲール語で「尻を舐めな」)を結成。が、この名前がBBCの放送禁止用語に引っかかり、The Poguesと改名して1st「Red Roses for Me」をリリースしました。半分ほど伝統音楽のカバーですが、パンクとケルト音楽を融合させたケルティックパンクが誕生した記念すべき瞬間です(但しその前にもロックとケルト音楽を融合させたHorlipsや、単発でそれらしい曲を作っていたバンドはいた)

1985年2nd「Rum Sodomy & the Lash
UK13位、NZで17位、スウェーデン39位
メンバーにダブリン初のパンクバンドと呼ばれるThe Radiators From Spaceのフィリップ・シェヴロンが加わり7人体制に。そしてプロデューサーは前座に彼らを起用して惚れ込んだエルヴィス・コステロ。3分の2ほどがオリジナル曲になり、シェインのソングライティングが高く評価されました。世界各国で売れ、バンドの出世作となるともに、ケルティックバンクの存在を世界に知らしめました。

UK72位
バンド初のヒット曲。PVの監督は『レポマン』や『ラスベガスをやっつけろ』(脚本)で知られるアレックス・コックスです。コステロが警察官役でカメオ出演しています。

IRE27位、UK62位
アイルランドで初めてチャートインしました。後に「Fairytale Of New York」で共演するカースティー・マッコールの父親で、UKのフォークリヴァイヴァルの火付け役イアン・マッコールの曲です。U2のラリーの18番としても知られています

1986年、アイルランドの失業者救済を目的としたチャリティライブ・セルフエイドに出演しました。

1987年、The Dublinersと共演したこの曲がIRE1位、UK8位と大ヒット。

1988年3rd『If I Should Fall From Grace With God
UK3位 US88位
コステロと結婚した紅一点のケイト・オーリアダンが抜け、ダリル・ハントとフォーク界の超大物でシェインが「60年代のポーグス」と評価しているSweeney'sMenのメンバーでもあったテリー・ウッズが加入して野郎だけの8人体制となったバンドは、アメリカ進出の野心を滾らせてプロデューサーにスティーブ・リリーホワイトを起用。その思惑は当たり、このアルバムはバンド最大のヒットとなりましたGreen Dayのビリー・ジョーも影響を受けた1枚に挙げています。

そしてこれがバンド最大のヒット曲。クリスマスソングの体裁を取って、夢を抱いてアメリカに移住したアイルランド人の男女が、夢叶わず貧しいまま年老いて、過去を振り返り、激しく罵り合いながら、最後、お互いの愛を確認するというこの歌はIRE1位、UK2位と大ヒット。今なおクリスマスシーズンにはUKシングルチャートを駆け上がるスタンダードナンバーとなりました。

U2のボノはThe Poguesのファンで「彼らが一番ラディカルだと思う点は、60歳の爺さんまでが彼らの歌を歌っていることだ。しかも歌の意味を完璧に理解しているんだ。彼らの歌にはジェネレーション・ギャップというものが存在しないんだよ」と称賛を送っています。またU2の名曲「With Or Without You」はアーチスト的な人生と家庭的な人生の間で揺れ動く気持ちを歌った歌で、そのアーチスト的な人生というとき、ボノの念頭にあったのはシェインだったといいます。

順風満帆に思えたバンド活動でしたが、この頃になると、シェインのアルコール中毒、ヘロイン中毒が深刻化し、ライブやレコーディングをすっぽかすなどして、メンバーの間に亀裂が生じるようになりました。繊細な神経の持ち主なんでしょうね。

1989年4th『Peace & Love
UK5位 US118位
プロデューサーは二度リリーホワイト。シェインが作曲したのは半分ほど、他のメンバーがヴォーカルを取る曲が沢山という異色作。シェインだけのバンドではないことを示す作品と評されましたが、The Poguesの作品の中ではやや印象薄なのは否めず、図らずもシェインの存在の大きさを示す作品になりました。落ちこぼれエリート、酔っ払い、ヤク中、ダミ声みたいな人間世の中腐るほどいますが(例えば灘高出身の中島らも)、あんな曲を書けるのはシェインしかいません。

さて次のアルバムのプロデューサーは元The Clashのジョー・ストラマーに決まりました。ジョーはThe Poguesを前座に起用したり、フィリップが病気している間、ギタリストとしてツアーに参加したり、逆にThe Poguesも「Lonodon Calling」をカバーしたり、何かと縁のあった両者ですが、ここに来て強烈なタッグを組むことになったのです。

1990年5th『Hell's Ditch
UK12位、US187位
2nd、3rdに比べて顧みられることは少ないですが、ジョーの見事なプロデュースワークもあって素晴らしい作品に仕上がっています。段々薄くなっていったケルト色、パンク色がここにきてほとんど払拭され、さらながらワールドミュージックの趣。ジョーのその後のバンドThe Mescalerosに繋がったのは想像に難くありません。

が、シェインのアル中、ヤク中は日に日に悪化するばかりで、ついに1991年、日本公演の最中に他のバンドのメンバーから首を言い渡されました。このライブの後にそうなったそうです。たしかによれよれですね。

その後、バンドはジョーを臨時のヴォーカリストにしてツアーを続行しました。これはその時の貴重な映像です。

シェイン脱退後、The Poguesはセカンドヴォーカリストだったスパイシーがメインを張り、1993年『Waiting for Herb』、1996年『 Pogue Mahone』と2枚のアルバムを発表。なぜかこの頃からシェイン時代には人気薄だった豪州で人気が出始めるのですが、『Pogue Mahone」が商業的に大失敗、脱退者も相次ぎ、バンドは解散を余儀なくされました。スパイシーのヴォーカルは悪くなかったのですが、曲が弱かったという印象です。ちなみにこの曲は1992年にシングルカットされたストーンズのカバー。UK56位とヒットしています。

一方シェインはThe Popesという人を食ったような名前のバンドを結成してその活動を開始。1994年にリリースした1stソロ『Snake』はThe Poguesのメンバー3人、The Dublinersのメンバー2人、Thin Lizzyのメンバー1人、そしてジョニー・デップという豪華ゲストを迎えた作品。バンドよりもケルト色が薄くロックよりでしょうか。シェインはもう1枚1997年に『The Crock of Gold』というソロアルバムを発表しています。この曲のPVにもデップ登場。元はミュージシャン志望だったデップはシェインを高く評価していて、この曲ではギターを弾いています。

2010年、ハイチのハリケーン被害救済チャリティソング。デップはギターを弾いています。

2013年、海賊をテーマにしたデップ監修のコンピ集『Son of Rogue's Gallery: Pirate Ballads, Sea Songs and Chanteys』に収録された曲。ここでもデップはギターを弾いています。

その他ソロ時代のお仕事を紹介。

1992年 UK69位
麻薬問題を抱えていたニック・ケイブとルイ・アームストロングのこの曲をカバー。ジョーイ・ラモーンも遺作の中でカバーしておりました。

1992年
ジザメリの『Stoned & Dethroned』収録。

1994年
Clannadのボーカルでエンヤの姉ちゃんのモイヤ・ブレナンと。映画『サークル・オブ・フレンズ』のサントラに収録されたもので、曲はサントラを担当したマイケル・ケイメンとシェインの共作です。

1995年 UK30位
元々映画『シド・アンド・ナンシー』のサントラに収録されていたThe Poguesの曲をシネイドとシェイン・マガウヴァンの共演で再録。二人は仲が良く、2001年に重度のアル中に陥っていたシェインを更生施設に入院させたのはシネイドです。

1996年 UK29位
ナイキのコマーシャルのためにシナトラの「My Way」のカバー。なんとなくシド・ヴィシャスのカバーヴァージョンを思い起こさせます。

が、飲酒癖のほうは相変わらずのようで。こちらはライブの途中、歌えなくなって、スタッフに付き添われて退場するシェイン。

バンドの顔たるシェインの酔っ払いっぷりも、このピースフルかつほのぼのなノリに起因していたような。だってもう歌い方がサビを除けばほぼボソボソな感じ、それで ちゃんと歌になってるところがむしろ凄いと思うんですが、加えて呂律は回ってないわ、 歌詞はかなり普通にスッ飛ばすわ、セトリ進行を忘れてメンバーに突っ込まれるわ、トドメは大音量であますことなく場内にいきわたるハナのすすりっぷり。これホントに不愉快極まりない音の筈なんですが、何故か周囲の客はメッチャ笑顔、テンションダウンどころか逆に盛り上がってる節までありました。どんだけファンに愛されてんだこの人。ちなみにこのシェイン、ステージにいる間は常にコップをもって、歌ってる最中だろうが休んでる最中だろうが常時ガブガブ飲ってましたが、あれが噂通り全てジンとするならば実際問題ヤバすぎるだろと。これでステージ・パフォーマンスできてること自体が奇跡なのかも。というかこのライブの主題自体がそんなシェインの破天荒っぷりを見ること なのかも知れません。とするならこれが本当の意味でのライブ!?(生き様、的な)

The Pogues

2001年、「オケラになったから」という理由で、3rd~5thの時の全盛期のメンバーで再結成。一夜だけの再結成のつもりだったようですが、このライブが好評で今なおライブを中心に活動しています。この頃になるとFlogging MollyやDropkick Murphysなど後発のケルティックパンクバンドが人気を博すようになり、その元祖的存在としてバンドの再評価も高まっていて、再結成後の活動は順調だった模様。マンネリ上等のジャンルだからか、新曲も新作も出していないし、ライブでは昔のレパートリーを演奏するだけだったのに、なぜか現役感を醸し出している不思議ーな感じでしたね。

一緒に仕事をしたポーグスというバンドがあります。本当に素晴らしいバンドで、このバンドのリードシンガー シェイン・マガウアンは私が今まで仕事をした中で最も才能がある人です。でも、彼は「Under achievement」なんです(笑)。それでよしとしてしまう。ポーグスがフジロックに出ると私は聞いて「絶対に出番を最後にするな!」とアドバイスしました。彼らとレコーディングをしていたときには、一日の早い時間にレコーディングをスケジュールしていました。なぜかというと、遅くなってくると酒を飲み出して、最悪な状況になってしまうからです(笑)
(スティーブ・リリー・ホワイト)

写真の女性は長年の恋人ヴィクトリア。13年にはフィリップ・シェヴロンが死去。14年にはシェインが解散を示唆するような発言をしていますから、いよいよThe Poguesも終わりかもしれません。が、シェインはIn Tua Nuaの元メンバーもいるThe Shane Gangというバンドを率いていて、この後新作の準備に入るようですから、まだ音楽に対する情熱は失っていない様子。なんでも歯を治してジョニー・デップの伝手でハリウッド進出も目論んでいるそうです。とにかくシェイン、身体をいたわって長生きしてくれ!

…とここまで書いたのが10年前。2023年、シネイド・オコナーの後を追うように、シェイン・マガウアンは亡くなりました。65歳。安らかに眠れ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?