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マイク・クリストファー【非業の死】

2001年に32歳の若さで亡くなったシンガーソングライター。その音楽スタイルはエレキギターに出会って髪を伸ばす前のニール・ヤングとも評されています。

クリストファーは1969年アイルランド人の両親の下、ニューヨークのブロンクスで生まれました。1972年、家族はダブリンに移り、クリストファーはケルト語で教育を行う学校に入学。そこでバンドを結成してケルトミュージックに親しみ、15歳になると路上でギターを弾くようになります。そこで実に多くの人々と知り合いになりましたが、中でもグレン・ハンサードとは盟友といっていい仲になりました。

1990年、クリストファーはKilaの元ベーシストKarl OdlumらとともにThe Mary Janesというバンドを結成。年間300回を超えるギグをこなして知名度を上昇に努め、Warner/Chappell Musicと契約。1994年に1stアルバム『 Bored Of Their Laughing』、1998年に2ndアルバム『Sham』をリリースします。またグラストンベリー・フェスティバルやCMJ(ニューヨークの音楽フェスティバル)、戦争孤児支援団体War Childがボスニアで催したライブにも出演します。
ポップの枠に収まらない作風ですが、影響を受けたミュージシャンはCocteau Twinsのエリザベス・フレイザーだそうです。

バンドは1999年に解散。同時に8年間付き合っていた恋人とも別れ、傷心のクリストファーはさらにバイク事故に遭って首の骨を折る大怪我を負いますが、怪我から回復すると、猛烈に創作意欲を回復し、2000年EP「Heyday」をリリース。グレン・ハンサードとアメリカとヨーロッパを回るツアーに出て、一緒に曲作りを始めます。そしてグレンが送った「Heyday」に興味を持ったThe Waterboysのマイク・スコットからヨーロッパツアーの前座をやらないかという誘いがあり、クリストファーはこれを快諾します。

が、2001年11月18日、ツアーで訪れたオランダのフローニンゲンのライブ会場の楽屋で、演奏を終えたクリストファーが意識不明の状態で倒れているのが発見されます。どうやら足を滑らせて頭を強く打ったようで、病院に運ばれましたが、結局、意識を回復しないまま、29日に亡くなりました。32歳の若さでした。

2002年「Skylarkin'

クリストファーの死後、The Framesのメンバーの尽力によりリリースされた彼の最初にして最後のソロアルバム。Meteor Music Awardsの年間ベストアルバムに選出され、アイルランド国内で累計15000枚のセールスを上げ、プラチナディスクに輝きました。また2005年のホットプレス誌が選ぶオールタイムベストで14位に選ばれています。

その後、グレン・ハンサードは発表したアルバムをすべてクリストファーに捧げ、ライブでは「Heyday」をカバーしています。またダミアン・ライスはアルバム「O」を、リサ・ハニガンは「Splishy Splashy」という曲をクリストファーに捧げています。
21世紀に入ってからアイルランドのシンガーソングライターが世界的に成功を収めていることからすると、マイクもあるいはそうなっていたかもしれません。まことに惜しい人を亡くした。

マイク・クリストファーの名前はダブリンでは長年よく耳にしたけれども、会ったことはなかった。みんな彼のことを知っていたから少し不思議だよね。彼がプラハでグレン・ハンサードの前座を務めるまで、彼の音楽に触れたこともなかった。素晴らしかったよ。当時、グレンは僕の一番好きなミュージシャンだったからね。とても感動した。
(ダミアン・ライス)

僕にとってマイク・クリストファーはあらゆる意味でヒーローだ。マイクには本物のアーチストとその他を分かつオリジナリティがある。彼の声は深みがあり、本物で、彼の歌詞はまったく違う次元から生まれたものだ。彼と友情を育めたのは幸運だと思う。彼から何かを学ぼうと思って、彼のギグにはなるべく足を運んだ。アイルランド中で何度か素晴らしいギグを一緒にやった。彼は僕をよく笑わせてくれたよ。彼がどこかでまだそんなことをしていると思うと、あの懐が深く、暖かい心を持った彼の姿が目に浮かぶ。(Mundy)

マイクはハンサムで若い放浪者のまま死んだ。彼は疑いや怒りではなく、決して消えることのない思い出や美しい歌や友情を残していった。彼は詩人として生き、詩人として死んだ。僕は二度と死を恐れることはないだろう。なぜなら僕の番が来たとき、僕の親友が僕を出迎えてくれるからだ。
(グレン・ハンサード)

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