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シネイド・オコナー

アイルランドの歌姫の称号が相応しい女性シンガーは誰か? と質問されたら真っ先に挙がるのはこの人……と言いたいところですが、人によってはドロレス・ケーンやメアリー・ブラックやドロレス・オルダーンを挙げる人がいるかもしれません。が、我々硬派(?)にとってはなんといってもこの人シネイド・オコナーこそがアイルランドの歌姫なのです。ちなみに中田英寿さんは彼女のファンだそうです。 

シネイドは5人兄弟姉妹の3番目の子として生まれました。が、8歳のときに両親は離婚。シネイドは母親に引き取られましたが、その母親から毎日のように虐待を受けていました。13歳の時に父親と継母に引き取られたましたが、シネイドは非行に走り、カトリック系の教会が運営する少女鑑別所に収容され、そこで音楽に出会います。影響を受けたミュージシャンはボブ・ディラン、デヴィッド・ボウイ、ボブ・マーリー、Siouxsie and the Banshees、The Pretenders……が、そこでも虐待を受けたらしく、この経験が後年のカトリック不信に繋がりました。

ありとあらゆる虐待を経験したわ。私の母はとても不幸な人で、たくさん暴力を振るった。彼女はどうやって生きればいいか分からなかった。もちろん、彼女自身の生い立ちのせいでそうなったのよ。私はそこら中にある色んなもので叩かれた。ご飯も食べさせてもらえなかった。食事も着る服もないまま、何日も自分の部屋に閉じ込められたわ。夜は庭で寝るしかなかった。夏の間はずっと家の庭で寝ていたわ。

ちなみに長兄のジョセフ・オコナーは小説家をやっていて、邦訳も何点かあるようです。似てますねー。凄いハンサム。

シンニードには作家の兄がいる。ジョセフ・オコーナーで、日本でも数冊が翻訳されている。その『ダブリンUSA』(東京創元社)はアメリカにあるダブリンという町を訪ね歩く旅日記だが、同時に、アメリカとの関係を意識せざるをえないアイルランド人の、アイデンティティ探しになっている。ジョセフにとってのきっかけは、子どものときにアイルランドで見かけた陽気で太ったアメリカ人たちで、彼らが歌うアイルランドの歌にたいする違和感だった。ジェット機でやってきて、地元の人にはつらくて歌えない深刻な歌をアメリカ・ヴァージョンで夢中で歌う。反感をもつ人がおおかったが、ジョセフにはかえって、それが魅力的に映った。彼は米国を縦断する旅で、アイルランド移民の残した足跡の多さや大きさに驚く。それはアメリカにあるダブリンという9つの町、という以上のものである。

Sinead O'connor "Sean Nos Nua"

そして16歳の時、施設でボランティアとして働いていたIn Tua Nuaというバンドのドラマー・Paul Byrneが、たまたまシネイドがバーブラ・ストライザンドの「Evergreen」という曲を歌っているのを見て感銘を受け、丁度、女性ヴォーカリストを探していたバンドのオーディションを受けさせます(このバンドは後にU2が設立したマザーレコード第1弾アーチストとなります)。それがこの曲。

なかなか素晴らしいと思います。が、シネイド自身、まだバンドに参加するのは早いと思ったらしく、この件はお流れになりました。

17歳の時に施設を出たシネイドは、新しく通うようになった学校の先生に音楽の道を勧められ、学校を中退します。余談ですが、グレン・ハンサードも同じように先生の勧めで学校を中退しているそうです。学校の先生が生徒に中退を勧めるなんて(笑)。この時代のアイルランドはおおらかですね。
中退後、シネイドはダブリンで音楽活動を始め、すぐに評判を呼ぶようになりました。が、その直後、母親が交通事故死(ラリー・ミューレンの母親もそうでしたね)。これを機に彼女は音楽活動の拠点をロンドンに移し、 メジャーレーベルのEnsignと契約。デビューアルバムのレコーディングに入ります。そしてこの頃、シネイドの評判を聞いたU2のエッジが、マイケル・ブルックと組んで制作中だった映画「Captive」の主題歌「Heroine」のボーカルに彼女を起用しました。

1986年。これがシネイドの商業リリースされた初音源です。『The Joshua Tree』直前の作品だけに、それっぽいサウンドですね。個人的にはとても好きな曲です。ライブで歌っていないようなのが残念……ちなみにドラムはラリーです。

このようにボノがデビュー前のシネイドを励ましてやったりと、いわばU2はシネイドの恩人なのですが、それなのに後年、シネイドは「U2はアイルランドの才能ある人々を発掘している風を装いつつ、名声を利用して自分たちに不利な意見や批評を潰してしまう偽善者だ。横柄なペテン師だ」とU2を手ひどく批判しました。背景にはシネイドのマネージャーだったFachtna O'Ceallaighが、マザーレコードの社長でありながら、雑誌でU2を批判してクビになった人物であり、その彼が世間知らずのシネイドに色々吹き込んだという事情があったようです。

90年代前半U2のメンバーはシネイドと仲直りしたらしく、ジム・シェリダンの『父に祈りを』のサントラで、シネイドはボノとギャヴィン・フライデーが共作した「You Made Me The Theft Of Your Heart」を歌い、ヴィム・ヴェンダースの『エンド・オブ・ザ・ヴァイオレンス』のサントラでは「I'm Not Your Baby」をデュエットしています。写真はその頃のもの。

話を元に戻すと、アルバムのレコーディングに入ったシネイドですが、プロデューサーと対立して遅々として進まず、結局、自分でプロデュースすることに。またこの時期、後に最初の夫となるドラマーのジョン・レイノルズとの間の子供を出産し、20歳にして未婚の母になりました。

ちなみにシネイドは4回結婚して4回離婚、それぞれ違う父親で4人の子供をもうけています。これは誰の子か知りませんが、娘さんのよう。可愛いですねー。ジョン・レイノルズとは離婚後も友好な関係を保ち、彼はシネイドのアルバムのプロデュースも手がけています。

1987年1st『The Lion and the Cobra / Am I
UK27位 US36位
UKゴールド USゴールド
亡き母親に捧げられたアルバム。アルバムは新人の作品としては異例のヒット。累計250万枚以上のセールスを上げました。丁度U2がヨシュアで世界的にブレイクした年で、アイルランドのミュージシャンに注目が集まっていたことも追い風になったかもしれません。ちなみにアルバムの冒頭でゲール語の朗読をしているのはエンヤです。

UK17位
この曲はアイルランド、UKでヒットするのみならず、アメリカのカレッジチャートでも頻繁に流れました。「Mandinka」というのはアレックス・ヘイリーのベストセラー「ルーツ」に登場するアフリカの部族の名前だそうです。

ところでシネイドといえばスキンヘッドなのですが、一時期を除いて、ほとんどこの髪型で通していますね。ご覧のように髪があったほうがやはり綺麗なのに、どうしてスキンヘッドにしているのかというと、鑑別所上がりだからだというわけではなく、自分の信念を曲げたくないという気持ちの現れのようです。

ある男性と出会い、あなたが恋に落ちたとします。彼から“愛してる。君に夢中だよ。でも、ウィグをつけた君の写真を見たら、すごく綺麗だった。髪を伸ばしてみたらどう?”と言われたらどうですか。 「その男が私のことをちっとも愛してないってことが分かる」 「だめだめ。“とっとと失せろ”って思うだけよ。あのね、私がもし髪を伸ばすんなら、っていうか伸ばしたいけど、それは自分が伸ばしたいからであって、誰かがそう望むからじゃない」 「だから! 好きな服を着るのと一緒よ。他の人と同じように、私は自分の好きな髪型にしたいの。みんなすぐうわべで人を判断するのよね。私はいつも外見でグダグダ言われるのよ」 「いいえ。私はただ自分を曲げたくないだけよ」

シャーデーの白いドレスの行方

1990年2nd『I Do Not Want What I Haven't
UK1位 US1位
UK2×プラチナ US2×プラチナ カナダ5×プラチナ ドイツプラチナ スイスゴールド フランスプラチナ
The Waterboysのデヴィッド・ウィッカム、The Smithのベーシスト・アンディ・ルーク、The World Partyのカール・ウォーリンガー、Adam and the Antsのギタリスト、マルコ・ピローニなど豪華なゲストが参加。各国のチャートで軒並み1位を記録し、世界中で700万枚以上のセールスを上げるビッグヒットとなり、一躍、シネイドの名を世に知らしめました。アイルランド人でUKとUSで1位を取ったのはU2以外では彼女だけではないでしょうか?

UK1位 US1位
この曲はネリー・フーパーのプロデュース。このPVはMTVで3つの賞を受賞しました。元はThe Family という殿下がプロデュースしたバンドに提供された曲だったのですが、それをシネイドがカバーした格好です。このヒットに気をよくした殿下もライブで頻繁に採り上げるようになりました。ちなみにグラミー賞のベストオルタナミュージックパフォーマンス賞にノミネートされましたがシネイドはこれを拒否。

バイクに乗っていた黒人の少年がバイク泥棒と警察に間違えられて追い掛け回された挙句、激突死したというロンドンで実際にあった事件をテーマにした曲。

90年にロンドンでシネイド(シンニード)・オコナー(Sinéad O'Connor)のライブに行った際に彼女が"Black Boys On Mopeds"を歌うと会場にいた若者達の大合唱が起こり、圧倒された。英国における階級社会の存在を認識させられた瞬間だった。その歌詞は以下のようなものだ。Margareth Thatcher on TV Shocked by the deaths that took place in Beijing It seems strange that she should be offended The same orders are given by her(マーガレット・サッチャーがテレビに出ている。北京で起きた死(天安門事件のこと)にショックを受けている。何故彼女が憤っているか不思議だ。同じような命令が彼女によってなされているではないか!)

一躍時の人になったシネイドは様々な大物ミュージシャンと共演、サントラやチャリティアルバムへの楽曲提供をするようになりました。

ピーカブの1990年のチリ公演でのひとコマ。シネイドはライブで共演するだけではなく、ピーカブの1992年のアルバム『Us』にも参加しています。当時、二人は付き合っていたようですが、シネイドのあまりのキレっぷりにピーカブが逃げ出したらしいです。

U2も「Nigtht And Day」を提供した。1990年のエイズ撲滅を目的とした豪華アーチストによるコール・ポーターのカバー集『RED HOT+BLUE』に収録された曲。カツラをかぶっているから一見誰かわかりませんね。

が、なんといっても白眉は、1990年7月21日、壁が崩壊したばかりのベルリン・ポツダム広場でロジャー・ウォータースが開いた東西ドイツ統一記念イベント「ザ・ウォール・ライブ」への参加でしょう。20万人~30万人の観衆が集まったと言われていますが、実はこのビッグイベントの裏ではシネイド節が炸裂していたらしいです。

なんと彼女の唄うこの場面になって、電源トラブルが起きてマイク音が途切れてしまう。そこで前日のリハーサル音声を流して、口(くち)パクでその場をしのいのだ。彼女の怒りは爆発した。ライブで口パクをさせられたと怒ったのだ。幸い如何なるトラブルも回避すべく、このイベントの録画を当時レーザー・ディスク盤でリリースする予定であった為、リハーサル映像も撮ってあり、それがライブ映像アルバム「THE WALL LIVE IN BERLIN」で使われている。それは彼女が怒って、ライブ終了後の再撮影に応じなかった為のようだ。

シネイド・オコナーの反骨と宗教と音楽と(2)

他にもアメリカでのライブで、ライブ前のアメリカ国歌斉唱を拒否して、フランク・シナトラに「アメリカから出て行け!」と怒られたりと何かと物議を醸していたシネイドですが、1992年、ついに決定的な「事件」を起こしました。

1992年10月3日、シネイドは米NBCの人気テレビ番組Saturday Night Liveに主演。「Success Has Made A Failure Of Our Home」とボブ・マーリーの「War」を歌い終わった後、突然、カメラの前で当時のローマ法王・ヨハネ・パウロ2世の写真をびりびりに破りました。これはカトリック教会内で行われている児童虐待に対する抗議行動だったそうです。

で、↑のテレビ放送から13日後の1992年10月16日、シネイドはNYのマジソン・スクエア・ガーデンで行われたボブ・ディランのデビュー30周年記念コンサートに出演。が、シネイドがステージに登場するや、会場はブーイングの嵐。静止しても鳴り止まないので、結局、シネイドは用意していた曲の演奏を諦め、またボブ・マーリーの「War」を歌って、ステージから下がるという屈辱を味わいました。世論からも音楽仲間からも袋叩きにあって、一度は引退も考えたそうです。ちなみにこのライブは日本でもNHKで録画放送され、このシーンもばっちり映っていました。私のシネイドとのファースト・コンタクトです。
この事件の一部始終がこのブログのエントリに非常に詳しく書かれています。興味ある人は一読も二読もして欲しいです。シネイドの行動には賛否両論あって当然ですが、21世紀に入ってからカトリック教会内での児童虐待、性的虐待、同性愛セクハラなどの問題が次々に明るみになり、バチカンがその対応に追われている現実に鑑みるに、シネイドのやったことは先駆的だったと思います。

1992年3rd『Am I Not Your Girl?
UK6位 US27位
UKゴールド スイスゴールド
A&Mの創始者で著名なプロデューサー・フィル・ラモーンを迎えての、スタンダードナンバーカバー集。素晴らしい内容であるものの、エキセントリックなイメージと誰も期待していなかった内容にチャートは伸び悩みました。が、それでもUKではゴールドディスクに輝き、150万枚以上のセールスを上げているのですから、当時の彼女の勢いが窺い知れます。

UK18位
この曲をリードシングルに持ってきていることからして、前作のヒットでスターの座についた彼女が「色々言われるけど、私は1人の歌い手なのよ」と宣言しているようなアルバムにも思え、そう考えればシネイド版アクトン・ベイビーと言えるかもしれません。

UK53位
ちなみにこの曲は後年、マドンナが映画「エビータ」で歌っていましたね。

1994年4th『Universal Mother
UK19位 US36位
UKゴールド 豪州ゴールド
サンプリングを多用した静かな曲が多いですが、うちに秘めた彼女の不屈の精神を感じさせる作品です。ライナーノーツで中川五郎氏は「母」「子」「アイルランド」がこのアルバムのテーマだと述べています。プロデューサーにはジョンの他ティム・シムノンとフィル・カーターが名を連ねています。前作に引き続きチャートは振るいませんでしたが、それでも累計150万枚のセールスを上げ、UKと豪州ではゴールドディスク獲得。

UK13位
この曲はThe Cranberriesの「Dreams」を「夢中人」というタイトルでヒットさせたフェイ・ウォンがカバーしています。

UK51位
Nirvanaのこの曲のカバーも収録されています。

1997年EP『Gospel Oak
UK28位 US128位
プロデューサーにジョンの他、アイルランド音楽界の超大物プロデューサー、ドナル・ラニーを迎えてのケルト風の曲を収録したEP。これ以前にThe Chieftansと共演したことからケルト音楽に接近を試みたと思われます。EPながら25万枚以上のセールスを上げました。

This is a Rebel Song は、U2の名曲 Sunday, Bloody Sunday へのアンサー・ソングになっている。72年に北アイルランドで非武装の市民デモ14人(うち半数は十代)が軍に射殺された血の日曜日事件。U2のボノはこの曲をライヴで歌うとき、「This is Not a Rebel Song これは反抗の歌ではありません」と前置きをする。IRAの報復テロを支持しているという誤解を避けるため、またロックチューンによる一時的な気分の高揚が招く危険をよく知っているから。シニードは逆に「これは反抗の歌です」と断って、とてもやさしく穏やかにラブソングを歌い上げる。

2000年5th『Faith & Courage
IRE8位 UK61位 US55位
豪州ゴールド
プロデューサーにブライアン・イーノ、ワイクリフ・ジーン、デイヴ・スチュアート、エイドリアン・シャーウッド、ロビー・シェイクスピアなど10人も名前を連ねていることからも分かるとおり、かなり力を入れた様子が窺えます。そのサウンドもこれまでの作品の中で一番ポップで一般受けしそうな感じ。が、レコード会社が期待したほどのセールスを上げられなかったで(それでも150万枚以上)これ一作でAtlanticから契約を切られてしまいました。

このアルバムの発表直後、シネイドはレズであることをカミングアウトしました。しかしこの後も男性と結婚離婚を繰り返しているのでバイセクということなのでしょう。

2002年6th『Sean-Nós Nua
IRE3位 US139位
インディーズレーベルに移っての1枚目は、メジャーでは叶わなかったケルトミュージックアルバム。プロデューサーはドーナル・ラニーと前回に引き続きUKクラブシーンの大物エイドリアン・シャーウッド。他にアイルランドSSWの大物クリスティー・ムーア、アコーディオンの第一人者シャロン・シャノン、The Warterboysのデヴィッド・ウイッカムが参加。これで傑作にならないわけがなく、素晴らしい作品です。累計22万5千枚以上のセールスを上げました。

2003年『She Who Dwells by Independent
IRE17位
2003年シネイドは突然引退宣言をします。そして最後のアルバムと銘打たれて発表されたこのアルバムは、デモ、カバー曲、未発表曲集+ライブ盤の2枚組。累計10万枚上のセールスを記録しました。

2005年コラボ集『Collaborations
UK183位
U2、Aslan、Massive Attack、ジョー・ウォブル、ピーター・ゲイブリエルなどなどそうそうたる面々が並んでいます。シネイドはその歌声の素晴らしさからか、ほんとーに色々なミュージシャンと共演しており、ここに収録されたのは、そのほんの一部でしかありません。企画物ながら累計50万枚上のセールスを上げました。

ということでアルバムに収録されていないコラボを少し紹介。

1994年に開かれたA Celebration: The Music of Pete Townshend and The Whoというイベントでのひとコマ。あの名曲がロジャー、シネイド、The Chieftansの共演で蘇りました。

1995年 IRE6位 UK30位
元々映画『シド・アンド・ナンシー』のサントラに収録されていたThe Poguesの曲を1995年シネイドとシェイン・マガウヴァンの共演で再録したもので、スマッシュヒットとなりました。2人は仲が良くて、重度のアル中に陥っていたシェインを更生施設に入院させたのはシネイドだそうです。シェインの1stソロ『The Snake』の1996年にリリースされた欧州盤・フランス盤に収録。

The Chieftainsがミック・ジャガー、ヴァン・モリソン、スティングらと共演した1995年の『Long Black Veil』というアルバムに収録されている曲。

2005年7th『Throw Down Your Arms
IRE17位 UK189位
アイルランドゴールドコラボだのライブ盤だのが頻繁にリリースされていたせいで、全然引退している感じではなかったのですが、一応、引退を撤回しての5年ぶりのアルバムは、レゲエの革新者スライ&ロビーをプロデューサーに迎えてのレゲエアルバムでした。中にはシネイドがレゲエ歌手に転向したと勘違いした人もいたそうで。アルバムはアイルランドではゴールドディスクに輝き、累計25万枚以上のセールスを上げ、その収益の10%はジャマイカのラスタファリの団体に寄付されました。

2007年8th『Theology
IRE18位 UK157位 US168位
同じ曲を Disc 1「Dublin Sessions」ではアコギで、Disc 2「London Sessions」ではバンドサウンドで収録したアルバム。当初、アコギだけの予定が、アルバムの出来に感動したプロデューサーのロン・トムの発案で、バンドヴァージョンもレコーディングされたとのことです。非常に地味な内容ながら累計37万5千枚以上のセールスを上げました。CD売れない時代に突入しながら、じわじわとセールスが回復しております。

今のシネイド・オコナーにはセンセーショナルさも、エキセントリックさも、斬新さありません。しかしそんな今だからこそ彼女の本当の姿に触れる事が出来ます。そこで触れられる彼女の姿は真の意味で孤高のアーティストだ。流行とは無縁の音楽だからこそ、この作品は後世になっても静かに聴き続けられる作品になるでしょう。

SINEAD O’CONNOR [Theology]

2012年9th『How About I Be Me (and You Be You)?
IRE5位 UK33位 US115位
プロデューサーは元夫のジョン・レイノルズ。私的な作品が続いていたシネイドが久しぶりにポピュラーミュージックのど真ん中に投げてきたロックアルバムで、これまでの集大成のような内容。ちなみに先行リリースされたタイトル曲「How About I Be Me」はアルバム用のレコーディングが間に合わず、収録されませんでした(涙)。セールスについてはウィキにも記述がないので分かりませんが、チャートポジションは前作、前々作を遥かに上回っております。

シネイド・オコナーのようにかつて大ヒット曲があり、人気も出れば知名度も高かったミュージシャンが、いったんその人気が「下火」になってしまうと、その後いくら素晴らしい新作を発表しても、なかなか注目されないというか、聞いてもらえる機会は少なくなってしまいがちだ。これまでいろいろと奇異な行動をしたり、何度か引退宣言をしたりして、それも彼女の音楽活動にとってはマイナスに作用しているようだが、今度のアルバム『How About I Be Me(And You Be You)?』は、かつてシネイドを熱心に聴いていた人にとっても、彼女のことをよく知らない人にとっても、一聴どころか、五十聴にも百聴にも値する素晴らしいアルバムだとぼくは断言する。ぜひとも聴いてみてほしい。
(中川五郎)

アルバムに伴うツアーも行われましたが、結婚、離婚、自殺未遂騒動を繰り広げた挙句、途中でキャンセル、またしても引退宣言をする事態となりました。まあ、また撤回しましたが。またこの時期激太りしてファンをやきもきさせましたが、結局、ダイエットに成功して元のスリムな体型を取り戻しました。

さらに2013年、アメリカの人気歌手マイリー・サイラスと舌戦を繰り広げました。シネイドは「Nothing compares 2 U」を意識して作れらたという彼女のこのPVに噛み付いたのです。

2014年10th『I'm Not Bossy, I'm the Boss
IRE1位 UK22位 US83位
そして前作から2年という比較的短いスパンで新作を発表。プロデューサーは再びジョン・レイノルズ。タイトルは英語圏でリーダシップのある女性を揶揄する言葉である「Bossy」の使用を止めさせようとするフェミニズム運動の合言葉らしいです。 内容は前作の延長線上で、よりロック色が強い感じで、チャートアクションは過ここ20年で最高の勢いです。完全復活と言ってもいいでしょう。


このノートの元記事を書いたのが10年前。以来、シングルをぼちぼちリリースするだけで、音沙汰がなかったのですが、2024年1月シネイドが亡くなったというニュースが入ってきました。56歳。安らかに眠れ。


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