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たいへんお待たせ「られました」

 待たせられた経験は枚挙にいとまがない。30分だの1時間だのという程度の待ちぼうけは縄で束ねるほどあるし、3時間、4時間というのもある。
 なかには、遅刻などというなまやさしいものではなく、すっぽかしをくったこともある。約束の時刻どころか、約束そのものを忘れられたのだ。

 某月某日。取引先のA氏から、会社の帰りに私の事務所に寄るという電話があった。
 しかし、いくら待っても来ない。連絡もとれない。あと1時間もすれば日付が変わるという時刻になっても来ない。
 しかたなく、頭から湯気を立てながら帰宅した。翌日になってわかったのだが、彼は私との約束を忘れ、夜の街へ繰り出していたのだった。

 某月某日。午後来るはずのB氏が来ない。午後などという曖昧な決め方をした点では私にも非があるが、連絡がとれたのは、彼の会社の終業時刻を過ぎた頃の夕方になってからだった。
 夕方だって午後のうちだから、その意味では遅刻とは言えないが、それはさておき、彼は忘れていたことを電話でしきりに陳謝した。
 私はこのあおりをくって、別の約束に遅刻した。
 この件から得た教訓。会う約束は、午後とか夕方とかという抽象的な範囲ではなく、なるべく時刻を絞って具体的に決めるべし。

 知人に、遅刻の常習犯として知られるC女がいる。私も一度“被害”にあったことがある。
 あるとき、彼女の主催する会合に招かれたのだが、このとき彼女は20余人の客を1時間も待たせ、笑顔で悠然と登場した。
 遅刻を詫びる言葉は一言もなかった。彼女の概念に「定刻」は存在しないとしか思えない。彼女は客ではなく、主催者なのである。いったいどういう神経をしているのだ。いや、神経などはない。つまり無神経なのだ。
 C女の場合、約束を忘れていた前述の2例よりたちが悪い。承知していながら平然と待たせているのである。

 C女は決してばかではないのだが、普通の人とは思考回路の配線がどこか違っているのかもしれない。いや、確実に違っている。こういう思考回路を持つ人物を「社会ばか」とか「人間ばか」というのだろう。
 どんな理由があろうと、電車や飛行機なら待ってはくれない。おそらく彼女は、そういうものが相手なら遅刻しないだろうけど。

 「一寸の光陰軽んずべからず」という言葉がある。出典は中国の儒者である朱熹の詩「偶成」で、有名な「少年老い易く学成り難し」に続く部分だ。わずかな時間も無駄にしてはいけないという戒めである。
 著されたのは800年以上前。寿命こそ現代よりは短かったろうが、忙しさという点でははるかに緩やかであり、時間的なゆとりも多分にあったと思われる時代にもかかわらずの言葉だ。時はいつの世でも貴重なものなのだ。

 過ぎた時間は戻らないし、売買も貸し借りもできない。くれたりもらったりすることもできない。
 待たされている間、趣味でも仕事でも居眠りでも、都合よくあてることができればいいが、何もできずにただ待っているという場合などはまさに時間の浪費であり、それこそ、刻一刻と時間を盗まれていることになる。
 その一方で、時間泥棒の張本人は、のうのうと自分の時間を活用しているのだから不条理だ。

 定刻に遅れた分だけ課金する法律でもできたとしたら、まじめな私はけっこういい稼ぎをすることになるだろう。反対に、C女などはたちまち出費がかさみ、家計を圧迫することになるに違いない。

 時間は何物にも代え難い“貴重品”である。時間泥棒諸君、さっさと足を洗いなさい。

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