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大食い早食いは立派な芸

 ここ数年、テレビを観る時間が少なくなった。おもな理由は自分の価値観や感性が変化したことだが、番組の質の変化(善し悪しはおくとして)も無関係ではない。特にバラエティー番組の変わりようは私の好みから遠ざかっていくばかりだ。
 そんななか、先日たまたまテレビであっちこっちのチャンネルを見歩いていたら、大食いを扱っていた番組にゆきあたった。
 ひとむかし前だかふたむかし前だかに視聴率を伸ばしていた、大食いや早食いを競う内容のテレビ番組が、いつのまにやら姿を消したと思っていたが、一部のテレビ局で息づいていた。

 大食い番組全盛期の平成時代中盤に、番組内で演じられていた早食いを真似た中学生が、給食のパンを咽に詰まらせて死亡事故を起こしたことがあった。この事故は一連の番組が衰退するきっかけの大きな要因となった。
 もともとこの手の番組は、以前から愚の骨頂だの無駄の権化だの、あるいは下品だのといった類の批判が顔をのぞかせていた。
 大食い番組に対する批判の多くは、発展途上国の飢餓や先進国の飽食、無駄、不道徳などを引き合いに出したものだ。
 実際、日本の近年の食糧自給率にしても、もう長い間40パーセント(カロリーベース)に届かず、自給自足という言葉などとは縁遠い状態だ。本来ならば大食い競争だのグルメだのとはしゃいでなどいられないはずなのだ。

 だから、視聴者による事故は気の毒ではあったが、番組自体に批判的な思いを抱いていた人たちにとっては、番組のあり方を見直す機会ができたという点においては物怪の幸いといったところだったのではないか。
 反対に、テレビ局や出演者、スポンサー、番組のファンにとっては降って湧いた災難、青天の霹靂だったろう。

 ところで、大食い番組の出演者、つまり選手たちはフードファイターなどと呼ばれ、カレーを20人前もたいらげたり、1.5リットルの飲料を10数秒で飲んでしまったりするが、あるファイターの話によれば、普段もかなり大量に飲み食いしているらしい。
 ファイターたちは日頃から胃を拡げる訓練をしたり、早食い早飲みの必殺技を編みだしたり、果ては満腹中枢の操作をしたりと、並々ならぬ努力をしているのだそうだ。

 驚くことはまだあった。ただの大食い自慢に過ぎない思っていた常連出演者の多くは、じつはその道のプロだということである。無芸大食という格言があるが、なんと彼らは、大食そのものを芸にしているのだ。
 頭は使いようというが、腹にもこういう使い方があったとは意外だった。ハローワークに「大食業」というような職業分類がないことは確かだろうが、なにしろ彼らは、文字通りそれで“食っている”のだ。
 ソクラテスの名言とされる「人は食べるために生きるのではない。生きるために食べるのである」(『人生を動かす賢者の名言』池田書店)を、比喩や形容なしでストレートに行っているのだ。

 私は小学校高学年のとき、正月に友だちの家へ遊びに行って雑煮をごちそうになったことがある。ところが、量が多くて途中から進まなくなった。
 純真で誠実な私は残したら失礼と思い、額に脂汗を浮かべながらなんとか食べきろうと努力した。しかし、なかなか餅を飲み込めなくなり、ついに食べ残してしまった。
 空腹なのに食べる物がないというのもつらいが、反対に、満腹なのに食べなければならないというのもつらいものである。
 そういう点はフードファイターだって同じはずだ。勝つためには満腹でも食わなければならない。仕事となればそのプレッシャーはなおさらであろう。

 大食い番組華やかなりしころ、私も人並み程度にはそういった番組を観ていた。正直なところ、くだらないと思ったりしたものの、やはり好奇心の誘惑に負け、画面に見入っていたのだ。
 芸は身を助くという言葉もある。大食い早食いも立派な芸だ。フードファイターのうち、現役で生き抜いているのはどのくらいなのだろうか。いらぬお節介ではあるが、食いはぐれていなければいいが、などと思う。

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