禅宗からみる山姥切国広の考察

我こそはライトな仏教好き、いわゆるナイトスタンド・ブッディストにして、坐ったことがなくもない審神者なり!
先日、こちらのnoteが公開されて大変興味深く拝読しました。

この中で、お能の『山姥』は仏教、とりわけ禅宗の思想を反映している、と述べられています。
W山姥切の回想がお能『山姥』のオマージュでは?と言われているのは知っていたのですが、今回こちらのnoteで詳細を把握したうえで改めて山姥切国広を見ると……あれぇ、なんかめっちゃ禅宗のニオイがするな!?となりまして。
師匠について学んだことはない(後述しますが割と致命的)ド素人ながら、ライトな仏教好きとして、ちょっとその辺をまとめてみよう、となりました。
(まとめてたら結構な量になってしまいました。本当はもっとそれぞれ出典を明記しようと思っていたのですが……追々やります……💦)
よろしくお願いします!


えいらぶ黎明の山姥切国広は、山姥ムーブをしている

わたくしが山姥切国広の魅力を初めて理解したのは、えいらぶ黎明でした。弊本丸は継承の方の映画キャンペーンで始めたので山姥切国広は最初からいました。かつ、これまで刀剣乱舞のメディアミックスはおおよそ目を通してきているはずです。もちろん刀ステも観ています。
……まさか今頃になって彼にすっ転ぶとは、まったく予想もしていなかったです……突然の沼……刀剣乱舞こわ……((((;゚Д゚))))
当時の感想をふせったから引っぱってくると、
『伊吹にギリギリのラインまでずーーーーっと黙って寄り添っていたらしい国広にも、実はすごく瞠目したんですよね! 死にたいほど傷ついたとき、言葉による慰めも励ましも煩わしいことってあるもんね!! ただ誰かがそばにいてくれる、追い詰められ傷ついた自分を否定しないでそこにいてくれる、それがどれほどありがたいことか! いっそ人より犬猫のほうがいいくらいにボロボロになった心に、人の形である国広がそばにいた、そのMP回復がなかったら、伊吹のラストの勇気は出なかったと思うよ!! これが初期刀、これが山姥切国広……!! おまえは良い刀だよ……!!!!』
こんな有様でして、その挙動が心に強く焼きついておりました

さて、そんなわたしが先の能『山姥』noteを何度か読んで気づいたことについて述べていきます。

「休む重荷に肩をかし 月諸共に山を出て 里まで送るをりもあり」

能『山姥』から見る刀ステ山姥切国広の考察 より
能『山姥』の一節

これは「山姥とはなにか」を山姥自身が解説しているところです。
恐らく日暮れまでに山を抜けられなかった人間が、山の中で重荷を抱えて休んでいる。旅人かもしれないし、食料や薪を採取しにきた里人かもしれない。
なんにせよ、夜の山は普通に考えてめちゃくちゃに危険ですわな。その道のプロならいざ知らず、備えもない人間が生身でいてよい場所ではない。野生動物に襲われるかもしれないし、暗さで道を踏み外して落っこちれば、下手すりゃ死にます。
山姥は、その危険な夜の山で見ず知らずの人間の重たい荷物に手を貸して、山を抜け、里まで付き添い送ってあげています。でも、送ってもらった人自身は、山姥のことを認識できていないのです。
方向性はちょっと違いますが、兵十が「ごん、おまえだったのか」と気づく前のごんぎつねみたいな存在ですね……。人間が蔑んで見がちなところまで含めて……。

さてこれ、大枝伊吹くんにとっての山姥切国広と同じ挙動じゃありませんか? 絶望のさなか(夜の山の暗闇)にあって、それでも重い足を引きずりながら歩んでいれば荷物に手を貸し共に行き、完全に道を踏み外そうとすれば「それでいいのか」と問いかけ引き戻し、安全圏まで送り届けているんです。
もちろん伊吹くんは山姥切国広を認知していましたけれど、歴史修正されたあとは忘れてる(あるいは修正されたので、出会ったこと自体なかったことになっている)と思うんですよ(円盤楽しみですね!)

黎明の山姥切国広は、本丸での記憶を奪われてまっさらの状態である、と演者である荒牧さんがインタビューで繰り返し語っています。手元にあるものだと、

現代では記憶を奪われている状態なので、フラットに演じることを心掛けました。

映画刀剣乱舞ー黎明ーパンフレット p.6

『黎明』のまんばちゃんは、酒呑童子の行動により記憶を奪われます。だから心が真っさらなんですよ。

映画刀剣乱舞ー黎明ー公式シナリオブック p.103

など。(自分を伊吹の初期刀だと思っている、というのも読んだと思うのですが、web上のインタビュー記事だったかな…。見つかりませんでしたすみません。わかる方、教えてください…)

まだ外部からのインプットを受けていない真っさらの状態でこの行動。つまり山姥切国広は、デフォルトでは山姥ムーブをするのではないか?と仮説を立てました。
そしてその山姥は禅宗と深い関わりがある、というか、たぶん禅宗を体現しているのが能の山姥です。
そんなわけで、次は禅宗について簡単に見ていきたいと思います。とはいえ仏教はその歴史と変遷の量が半端なく、丁寧に追ったらえらい目にあいます。
本題はあくまで刀剣乱舞なので。
ド素人の、教科書的で浅く、だいぶ乱暴な括り方になりますが、とりあえず必要そうなところだけ!! 本職の方がおいでになったら、恥じて布饅頭になりまする。また、致命的に間違ってたら何卒よろしくご指導ください。

禅宗の概要

そもそも仏教ってなに?

禅宗は、その名の通り座禅を修行のメインに据えた仏教宗派の総称です。日本で有名どころだと、臨済宗(禅問答する方)と曹洞宗(ひたすら坐る方)があります。黄檗宗(おうばくしゅう)ってのもあるのですが数があんまり多くないので、とりあえずこのふたつを押さえておけば概要は掴めます。

しかしながらまず、仏教とはなんぞや、という話をしなくてはなりません。
仏教と聞いて何を思い浮かべますか?
仏像?仏法僧?聖徳太子?
それとも南無阿弥陀仏とか南妙法蓮華経?般若心経?
あるいは寺かもしれないし、極楽浄土や地獄とかかもしれません。
一番仏教が身近なのはお葬式とか法要かも。

二次創作で現パロやるなら一大ジャンルを占める輪廻転生も、仏教の範疇です。
ところでこの輪廻転生、本来仏教ではポジティブなものではないのです。
生きること、ひいては死ななくてはならないこと、この世に存在してしまうことは、『苦(ドゥッカ)』である、と仏教は説きます。
この『苦』は、文字通り苦しく辛いことであると言うよりも、『ままならない』こと、『思い通りにならない』ことの方が意味的に近いようです。
生まれてきてしまえば、その生はどうしたってままならないものにならざるをえない。死んでようやくその『ままならなさ』から解放されるかと思いきや、魂は生前の因果に応じて、下は地獄道から上は天道までの六道を、延々と生まれ変わり死に変わりして巡り続け、『ままならなさ』から解放されることはない。
賽の河原の小石積みのようです。現代風に言うならデスマーチですかね……。納品終わったら一旦休みたいのにそうもいかない、ボーボーに燃え上がってるヤベェプロジェクトが次々と押し寄せて、休みなく延々駆り出されている状態です。シンプルにつらい。
唯一その六道輪廻(デスマ)を抜ける道、それこそが悟りを得て仏になることだ、と仏教は説きます。輪廻を抜けることを解脱(げだつ)と言い、解脱した先の安寧を涅槃(ねはん)と言います。
悟りを得るためにいっぱい修行する、これが仏教の第1段階です。

大乗仏教の登場

どのくらいいっぱい修行するかと言うと、一度や二度の生では到底終わらないくらいです。
先ほど、因果という言葉が出てきました。地蔵行平のセリフにもあるやつですね。これはよく植物の『種』と、芽が出て花が咲いたあとの『実』に例えられます。
悪い種を植えれば悪い実が、良い種を植えれば良い実が採れます。種を植える土の場所や質、育つ間に雨が十分に降るかどうか、日光が十分に照るかどうか、そういった要素が『縁』です。『因縁』の性質によっておのずから『実』の性質が決まる。
しかしながら、いつ『結実』するかはわからない。明日かもしれないし、十年後かもしれないし、来世かもしれない。
なるべく良い種を植えて、悪い種を植えないようにするのが修行なのですが、一旦悪い種を植えてしまうとそれがいつ結実するかわからないのです。
そして、人生において悪い種を植えないでいることはムリゲーです。何故なら、因果と縁はめちゃくちゃ複雑に絡まりあっているので、そのすべての影響を見通すことができないからです。

たとえば、生まれたばかりの赤ちゃんを殺したら、これは一見悪い種です。
では、もしその赤ちゃんが、長じて後ヒトラーみたいな独裁者になって大虐殺を行うとしたら、どうでしょう?
これは良い種ですか、悪い種ですか?
独裁者が赤ちゃんのうちに殺されたことによって、その国土が隣国に侵略され焦土と化し、大虐殺以上の死者が出たとしたら?

当時、バタフライエフェクトという言葉はありませんでしたが、観念としてはそういうことです。
この辺、今剣や堀川国広の問いを想起させますね。
どうして歴史を変えてはいけないんでしょうね?

ーーともあれ。
この複雑に絡まりあった因果と縁から、悪業の影響を完全に消し去るのは、ちょっとやそっとでは無理!という感覚をおわかりいただけたでしょうか。
現実はクソゲー!! 無理!!!!

その無理をやり遂げたのが目覚めた人ことお釈迦さまことゴータマ・シッダールタ。その生まれ変わり死に変わりして辿ってきた、解脱に至るまでの過去世の物語を『ジャータカ』と言いますが、3部構成で全547話あります。
後づけにしたってエピソード盛りすぎでは?と思いますが、仏教は何かと大きい数が好きでして……時間遡行軍が八億四千万いるってのも、元々は仏教から来ていると思われます。(コトバンク:八万四千
たぶんこれ、仏教では選ばれし者の最短解脱なんです。

で、そのうち「そんなんやってらんねーーーわ!!」となってくるのが人間のサガ。なんとかして効率よく功徳を積み、少しでもタイムを縮めたい解脱RTAの方法が様々に考案されます。マニ車とか。
そんな中で、慈悲の心によって迷える一切衆生を救う誓いを立て、むしろその誓いが果たされるまではあえて成仏しない、と決めた阿弥陀如来や菩薩の存在が生まれてきました。お人好しにもほどがある。(人じゃないからね!)
この誓いのことを『本願』と言います。他力本願の本願です。他力とは本来、阿弥陀如来の慈悲の力のことで、修行を十分に積んでいない凡人でも、たとえば「南無阿弥陀仏」と唱えれば仏縁を得て、解脱とはいかないまでも、餓えや苦しみのない極楽浄土に生まれ変わらせてくれます。
仏教には不殺戒(殺したらダメよという決まり)があるのですが、人間はじめ、命というのは何かを殺して食べないと飢えて死にます。これも『ままならなさ』です。
極楽浄土は、殺さなくてもどこからともなくご飯が出てきます! エネルギー保存則なんてない。
『ままならなさ』を大軽減してあげるから、そこから先の修行を頑張ろうね!ということです。極楽浄土への往生、実はゴールではないのです。
これが大乗仏教(如来の慈悲でできた大きい乗り物でみんなまとめて極楽に行こう仏教)です。これが第2段階です。

一切衆生悉有仏性、禅宗の登場

いっさいしゅじょうしつうぶっしょう、と読みます。
わたしが仏教に興味をもったきっかけの言葉です。
これは禅宗以前からあった言葉ですが、とりわけ禅宗で大事な理念となりました。
なんと、迷える一切衆生=本来途方もない修行を積まないと仏になれないはずの存在=如来や菩薩のお慈悲でとりあえずゴール手前まで下駄をはかせてもらう凡愚たち、既に己の内に仏としての性質を持っている、という考えです。それどころか日本では、有情でないもの、木や石などの自然物すべてに仏が宿るという考えになりました。八百万の神の影響ですかね🤔

さらにさらに、如来や菩薩の大慈悲パワーによって、既に我々は救われているのだ、というところまで解脱RTAが進みます。
根拠としては、阿弥陀如来……阿弥陀仏は、一切衆生を救いきるまで成仏しないと誓いを立てたのに、阿弥陀仏というからには仏になってるわけですね。後づけで話を盛るから設定に矛盾が出てるじゃないか。

ということは?
→もう既に我々は救われてるんじゃないか? この世は苦界じゃなくて浄土!?

救われているはずなのに、何故『ままならない』苦しさを抱えているのか?
→自分の仏性に気づいてないから! 気づきさえすればもうゴールできる!

と、まぁ本当に乱暴にくくるとこういった論理を経て、修行の意味が変容します。遠い将来のためにコツコツ500円玉貯金をするのではなく、自分の中に眠っている宝石の原石を掘り当てて磨きあげるべし、となったのです。

さて、ではどうやって掘り当てるのか? となったときに、禅宗は坐禅を中心に据えました。坐禅自体は仏教の中で新しいものではなく、お釈迦さまも悟りを得たときに菩提樹の下で坐禅を組んで瞑想していたとされ、元々重要な修行のひとつでした。
(正直、この辺以降についてはなんだかんだwikipediaの『禅宗』の項目がかなりよくまとまっていますのでそちらもご覧ください)

余談ですが、近代になって西洋に坐禅が『発見』され、坐禅中の修行者の脳波がおよそ普通の人とは異なる波形をしていることが観測されました。それを精神医学分野に応用したのが自律訓練法など、瞑想によるストレス緩和法です。少し前まではビジネス界隈でもマインドフルネスが大流行してましたので、ご存じの方もいるかもしれません。

(ここから書き手による個人の見解です)
やってみればわかりますが、瞑想、どういうわけだか気持ち良いものです。なお副作用として、人によっては『創造性が消える』という現象も観測されると聞きます。強い感受性をもつ芸術家が往々にして自殺したり違法薬物に耽溺しがちなのを考えると、ストレスと創造性は密接な関係があるのかもしれません。
(個人の見解ここまで)

さて、話を戻しまして。突然ですが、
「あなたはあなたのままで既に素晴らしい。あなたはそれに気づいていないだけなのだ」と聞かされたら、どう思います?

実にうさんくさい。

人は既に仏の素質を持っているが、それを言葉で誤解なく伝えきることは難しい。まずは体感・体得するところから。実感を伴わず頭でわかった気になってるやつはわかってないやつ。
実感するにはまず坐れ。とにかく坐れ。坐ればわかる。
とっても乱暴にいえば、これが禅宗です。言葉に頼らないぜ!を格好良く言うと『不立文字(ふりゅうもんじ)』となります。

具体的な手順で言うと、初心者はまず姿勢を整え、呼吸をするのと数を数えることに集中するよう指導されます。
やってみればわかりますが、これが結構難しい。
油断するとすーぐ思考があちこち飛んでいきます。雑念というやつです。
己の意識ひとつままならず、迷っていることに気づくこと。気づいたら、目の前の作業に集中し直す。
基本はこの繰り返しです。数を数えるのは、泳ぎの初心者が縋るビート板のようなもの、補助具としてです。そのうち数えなくても集中し続けられるようになるらしいですが、とてもとても……💦
そのうち、何かを体感する。いやもうほんと、やってみてくれとしか言いようがありません。

しかしながら、人間十人十色、バックボーンがそれぞれ違うし感覚器の精度だって違いますので、坐って実感するにも個人差があります。また「俺は悟った!!」と勘違いしてしまう『魔境』という危険な状態も発生するものだそうです。ですので、坐禅による修行はお師匠さんについて行うのが原理原則です。禅問答も、修行の進み具合を見極めて、お師匠さんから個別に下されるものです。言ってしまえば、禅宗の修行は、プロによるフルオーダーメイド、個別カスタマイズされたものです。一番最初に「師匠について学んだことがない」とお断りしたのはこのためで、座禅体験会くらいしか行ったことない立場で禅を語るのはいかがなものかという気はしております……ゴメンナサイ!
あと、理想論で言えばそうなんでしょうが、実際のところは……という面もあるようです現実って世知辛い。

さらに一歩進んで、坐禅を行っていないとき、日常生活すべてを修行の場として内省し続ける、という考え方も生まれます。曹洞宗の修行は坐禅とこれで、作務(さむ)と呼びます。料理を作ることも食べることも、掃除をすることも畑仕事をすることも、生きることは日々これ修行。そう、山伏国広のあれです。
さらに三日月おじいちゃんの内番服、作務衣(さむえ)ですけど、この作務のときに着る作業着なので、作務衣といいます。(あれ……?三日月のことは考えてなかったな……あなたも修行してんの……?)
日本の学校では、児童生徒が掃除するのがあたりまえだったりしますが、実はアメリカでは清掃員さんが別にいます。清掃は修身の一環である、と見なされるのも、禅宗由来かもしれません(ちゃんと調べてませんすみません)

と、このようにして、本来俗事であり『ままならない』代表であった生活、生命活動そのものが、仏性を見出すために積み上げる修行として聖なる色を帯びることになります。
「うわー! マジで雑念めっちゃあるじゃん!」と感じることで、逆説的に修行の機会を得る。
自らが迷妄に迷う存在であることを自覚して初めて、そんな自分が既に救われていることを真に自覚できる。よく法話では『生かされている』と表現されます。……やっぱり、文章だけで納得するのは難しいところだろうと思われますが……。

禅宗と日本文化

まんばちゃんの話が出てこないまま、7000文字を超えようとしている……!
すみませんあとちょっとです。もうちょいおつきあいください。

そういうわけで、禅宗は坐禅瞑想と日常生活(と場合によっては禅問答)を通じて、自己の内側をひたすらに見つめます。
この際、周りが豪華絢爛だったり散らかってたりすると気が散るので、環境を極力簡素にします。
これを文化の域にまで高めたのが、侘び寂びです。
シンプル! ミニマム! 余白の美! 用の美!
茶道に華道、書道、絵画も能も、料理も、枚挙に暇がないですが、ほぼすべてと言っていいだろう全方位の文化に影響を与えました。
禅宗自体は中国生まれですが、文化と強力に結びつき花開いたのは何故か日本。まぁ、因と縁がたまたま揃ったんでしょう。たぶん。
刀剣に感じる美しさの一部も、これではないかと思ったりもします。
人を斬る目的のために潔く余分を削ぎ落とし、それ以外何もない状態になって初めて立ち現れてくる美が、かえって森羅万象を思い起こさせる。不思議なものです。
枯山水の美しさもそうですね。

山姥切国広にみる禅宗要素

ここまで大変お疲れさまでした!!
いよいよまんばちゃんを見ていきましょうか!!

というか、ここまででも「まんばちゃんだッ!?」と思う人は思ったかもしれません。

「あなたはあなたのままで既に素晴らしい。あなたがそれに気づいていないだけなのだ」

これ、完全に初の山姥切国広じゃないですか???
内なる自分の仏をスルーして、他者の言葉(お経)や他者の中に真理を探すことは、仏道成就の妨げになるので一旦おやめなさい、坐って『何か』を体感してからおやんなさい、というのが禅宗の第一歩です。

磨けばとてもきれいなのに、自らを汚すことで隠しています。原石というやつですね…!

公式ツイッター本丸通信より

仏性を自分で汚して隠そうとしてるぅ! それは……いつまで経っても楽にならないね……。
しかしながら、山姥切国広がすごいのはここからです。
彼、極めの旅でなんと坐らずに、人の話をひたすら聞いて聞いて聞いて悟ってきました。

俺が山姥を斬ったという伝説、本科が山姥を斬ったという伝説、そのどちらも存在しているんだ。
案外、どちらも山姥を斬ったりなんかしていないのかもな。ははは。
人間の語る伝説というものは、そのくらい曖昧なものだ。

山姥切国広の修行の手紙、3通目より(太字は筆者による)


他者の言葉に拠ることの危険性、禅宗の大事なポイントを、誰に教わるでもなく自分で再発見してきたんです。すごいな!

それは妄執、執着だった。自分はそれに惑っていた。
迷っていることを自覚すれば、あとは簡単です(いや簡単じゃないですが)
目の前のことと自分に集中すればよいのです。

堀川国広の傑作である。
その評価は数多の縁によって奇跡的につながり確立したもの。それが仏の慈悲によるかどうかは信仰次第と思いますが、人間風に言えばやはり『生かされてきた』が近いのではないでしょうか。

主の刀である。
審神者の刀として歴史を守る。刀にとって歴史を守るのは本能だそうなので、食べたり掃除したりと同じところに、歴史を守る日々の積み重ねが置かれているのかもしれません。

ただそこに集中しよう。完全な悟りではない、まだ道半ばの状態だけれども、日々が修行に転換した山姥切国広は、いずれもっと悟りを深め、他者を救いすらするだろう。
ーーと、禅宗ベースに考えるとこんな解釈も可能かな、と!
それでどうして回想57はああなった(要素は……要素はあるんだけど……)

刀紋の丸と円相図

山姥切国広の刀紋は、斬られてるっぽい山の図と、麓に雲、そして周りをぐるっと円で囲っています。
この○が何か?というのは界隈でも色々と考察されているようです。
たとえば、写しからの連想で鏡を表しているのではないか。
家紋の場合、分家の紋を本家と区別するために○をつけることがあるので、やっぱり写しを表現しているのではないか。
などなど。

ここに、禅宗つながりでもうひとつ説を提示します。
円相図では?

円相
② 仏語。禅宗で、人の心に本来備わっている悟りを示すために、象徴として描く円。円のなかに文字や記号をかいて、心の働きや、悟りの階梯を表わすこともある。一円相。

コトバンクhttps://kotobank.jp/word/%E5%86%86%E7%9B%B8-447857

一例として、みんな大好き福岡市博物館所蔵の円相図をひっぱってきました。こちら↓

禅宗のお寺の窓が丸いのも、己の心を映す窓として、円相がモチーフだったんじゃなかったかな……。

山姥切国広極の畑当番は作務である

これはもう言うまでもない気がしますが……。
雑念、ふきとばしてますね。

山姥切国広極の真剣必殺は剣禅一致を示している?

禅宗は、もともと武道と関係が深いです。日本では鎌倉時代に広まったのもあり、剣術にも禅思想が影響しました。
この辺は宮本武蔵とかが有名かも……。
剣の極地は禅の無念無想と境地と同一であるそうで、静中の動である居合は特にその理念が強い、らしいです。
すみません剣道やってないのでわかりません!!
でも言ってしまえばそれ、『ゾーンに入る』てやつかな?と思います。
おおきく振りかぶって、や、ユーリオンアイスでも描かれていましたが、今では世界的なスポーツ選手も練習に瞑想を取り入れるのが普通になっているようですね?

おわりに

当初、山姥なのは長義の方だと思ってたんです。能の『山姥』オマージュである回想56が、そういう配役だったので。
しかしながら、『ふたつの山姥切』すなわち長義も国広も山姥切であるとするならば、斬ったものの性質を取り込む刀剣男士として、山姥切国広の方も山姥であっておかしくない、というのが今回の発見でした。
南泉一文字の修行は禅問答で、山姥切国広の修行は三昧で、呪い仲間は禅宗仲間か!? と閃いたの楽しかったです。
また、辿るうちに山伏国広との関係も……今回掘り下げませんでしたが……修験道は密教の要素があり、言葉で教理を会得させるのが顕教で、そうでないのが密教と区別するならば、禅宗は密教の流れなんだな……などと思ったりもしました。
てことは堀川国広にも何かそういう要素があるんじゃないだろうか……わからん……。誰か強火担に来ていただきたい……。

最後になりましたが、長々とお読みいただきありがとうございました。
また、きっかけをくださったつゆりのうえ様、誠にありがとうございました!!


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