書店員は「書店(員)ヘイト本」を置く(ことができる)のだろうか

先日ヘイト本や差別本についてのnoteを勢いで書いたら思ったより反響があった。なので、追記というか、その後に考えたことなどを記しておく。

まず、僕が僕の本屋で行なう「対応」は、僕が僕の本屋で行なうからこそできるものであり、それをやっていない本屋はクソである、ということではないし、そういう風に捉えてほしくない。そしてそうやって拡散されるのも望んでいない。書店、そしてそこで働く書店員には各々事情がある。僕が例の対応をできるのは僕に(他者への)責任や失うものがないからだ。ようは僕の本屋が潰れても困るのは僕だけだし、そもそもまともにスタートもしてないから借金が残るわけでもない。だから思い切ったことができる。

で、だからこそ僕がきっかけになればいい、とは思った。動きやすい人が動く。その先は、各々のできる範囲で。クラスのお調子者が「はいはーい」と手をあげてバカなことを言う。するとそのあとが続きやすくなる。そういった期待も込めてはいた。どうすればいいかわからない、あるいはわかってはいるけど色々なしがらみがあって動き出せずにいる。そういった人たちへの何かしらのきっかけになればいい。というような。


だけど事情があるからといって他者を意図的に傷つける本、いや「悪意」の塊を無批判無思考に店に置くのはどうなのか、という思いは残る。で、考えてしまった。

書店(員)ヘイト本を私たちは店に置く(ことができる)のか、と。

せっかくだからそれっぽいタイトルと目次、主張の要約を考えてみる。


『多くの日本人が知らない酷すぎる書店の真実 書店員は悪魔の化身である!』

1.ここまで酷かった!書店現場の実態!→書店員は皆、万引き犯である!

2.欲望に支配された書店員たち→人気の付録を高値で転売しているのは皆、書店員である!

3.押し付けがましい書店員たち→「これはオススメ!絶対読んでほしい!」などと自分の思想を客に押し付けてくる害悪だ!

4.嘘つきばかりの書店員たち→本がすぐに入荷しないなどというのはまったくの嘘である。実は彼らが読み終わってから客に出しているのである!

終章. 日本の未来にとって書店は有害である!!→利益率の低い本などというものを扱う、まるで生産性のない書店にお金をかける必要があるのか?そして文学や漫画などといったまるで有用性のないものが果たして必要なのか?必要ない!!



さて。こんなふざけた本が自店に入荷してしまったら、私たち書店員はどうするのだろうか。置く置かないの結論に至るまでに様々な思考を辿ると思うが、僕はその思考の跡こそを知りたいというか、私たち本屋が突き詰めないといけないことだと思っている。

でもその前に。こんな本が出版されるわけないだろう。こんな真実とはかけ離れた本が!と思った書店員のみなさん。これがヘイト本を目にした「彼ら」の痛みですよ。ふざけんな。私たち書店員はそんなひとたちじゃない。いや確かに「一部」は真実かもしれないけど、こうやって一括りにしてほしくない。これが日々、ヘイトや差別に苦しめられているひとたちが抱く怒りですよ。そのことはきちんと受け止めてもらいたい。

そのうえで。置くか、置かないか。それを真剣に考えましょうよ。一生引きずるくらいの「重い」感触を手放すことなく、正面から向き合いましょうよ。私たちは「書店(員)ヘイト本」を店に置く(ことができる)のかどうか。



どんな主張をしても誰かは傷つける。どれだけ優しい意見を言っても傷つけることはある。だから、どんな本でもそれが気にくわないひとや、その本で傷を負うひとがいる。それはヘイト本に限らない。私たちが日々「心温まる作品です!」とオススメしている本だってそうだ。私たちが「これを読んでほしい!」と主張すること、そして主張はせずとも店に本を置くこと。それは誰かを傷つける可能性を持っている。そのことは覚悟しておかないといけない。

私たちはメディアにならざるを得ない。その自覚がなくとも、店という空間内において私たちは何かしらの主張をしている。いや、せざるを得ない。それが意図的か否か、そして自主的か否かにかかわらず、だ。

多くの書店は取次(問屋)からの配本(新刊が書店の意思にかかわらず勝手に入荷してくる仕組みのこと)があり、そのなかにはどうしたって「よくわからない本」が存在してしまう。よくわからない、とはどういうことかというと、入荷する本にはいくつか種類があって、大雑把にわけると次のようになる。

1この本は置きたい、と思った本→さらにわけると、A:内容がわかっているからオススメできる。B:中身はわからないけど信頼してる著者だからオススメできる

2入荷するまで知らなかったけどこの本絶対いい本やん!となった本→上記Bのパターンや中をチラ読みして「いける」と思った本

3上記以外の、「売り方(置き方)」はわからないけどとりあえず置く本

軽く説明。1は自ら発注した本のこともある。で、とりあえずこれは問題ないというかここでは言及しない。2は、実はこのパターンはよくある。全部の本を完璧に把握しきれるわけではない。1日平均2~300冊の新刊が出るので。

問題は3。これが「よくわからない本」だ。うーん、とりあえずこの棚でいいかな?という極めて受動的な判断をせざるを得ない本。悔しいけど、この本の割合は多い。


で、書店員は自分自身の意思とは無関係にメディアにならざるを得ないという観点を考慮すると、この3の本はとても怖い。「よくわからない」けど置いている、その本で誰かを「無意識に」傷つけている、ということに「無自覚」なままでいる、という可能性があるからだ。で、これを意識できている書店員は多くない。僕も今回の件で気づいた。で、結構落ち込んだ。ダウナー。


私たち書店員が「店に本を置くこと」には、私たち自身が考えているよりずっと強く深い責任が伴っている。そう考えると、書店員が出版社の出す本に対してNOを突きつける権利がないのはおかしいのではないか。あなたたち出版社(と著者)が持つ表現の自由は、書店にだってあるはずだ。私たち書店は、メディアにならざるを得ないと同時に、表現者でもある。大きく言えば書店空間、小さく言えば書棚で、私たちは表現をしている。いや、強制的に表現させられている。ならばその表現方法や使う道具、素材、あらゆるものを取捨選択する権利があってしかるべきだ。私たちはあなたたちが行使する権利に従うだけの存在ではない。なぜあなたたちにはある「自由」が、私たちにはないのか。あなたたちが振りかざす「自由」を、「否」と突き返す「自由」はないのか。

例えば外国人や在日への差別・ヘイトを主張する本ばかりを出している出版社に、それとは全く反対の主張をする本の持ち込みがあったら、きっと断るでしょう。「それは私たちの主張とは相入れませんので」と。なぜそれが書店には許されないのか。ヘイト本だって本だ。本屋ならあらゆる本を置くべきだ。多様な価値観、表現の自由を奪うのか。差別だ。そういった「批判」に対して、書店が反論する権利はないのか。なぜ出版社には「己の自尊心を満たすために他者を愚弄する腐った本」を出す権利があるのに、書店にはそれを「置かない」という権利がないのか。なぜ「置かない」という選択(主張)をした書店が「注目」されてしまうのか。なぜこんな当たり前のことが「すごいことだ!」となってしまうのか。


書店(員)にはメディアあるいは表現者としての責任が、自身の意思とは関係なしに伴っている。そのことを頭に入れたうえで、私たち書店員は日々の仕事と向き合いたい。向き合ってほしい。だから、できる限りすべての本を、「置く理由」を見つけたうえで置きたい。置く理由があれば、責任が取れる。もしその本が誰かを傷つけても、説明ができる。弁解ができる。そして、心からの謝罪ができる。こういう思いで置きました。でもそれがあなたを傷つけてしまったのなら謝ります。そして、もし可能であればなぜ傷ついたのか教えてもらえませんか。再挑戦したいです。といったような、真剣なやりとりが。

そして「置く理由」があるのなら、ヘイト本などを置くというその選択を否定する権利は僕にはない。少なくとも、僕にはない。本に対して真剣に向き合って、「置く理由」を見つけて、ある種の覚悟を持って置いたのであれば、その自由を奪う権利はない(ヘイト本へのカウンターとなる本を周りに固めている書店もあるし、「置いてある」というだけでそこが「ヘイト本を認めている書店」というわけではない、というのもある)。そこはもう、福嶋さんのいう「民主主義のアリーナ」だ。僕は僕の責任と覚悟を持って、戦えばいい。あなたたちが傷つけたひとたちの傷は僕が癒します、と。



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