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『目眩まし』ゼーバルト・コレクションから

雨が降ったり止んだりする。
この数年は、春が足早に通り抜けていったかと思うとすぐさま蒸し暑い日々がやって来て、そして雨がザァザァと数日降り、本格的な日本の夏がやって来る。子どもの頃はもう少し涼しいときの猶予があったような気がする。僕の記憶であり、記録はどうなのかよく調べていない。

確かに四季というものが存在した───僕の記憶であり、これも記録はどうなのかよくわからない。

記録され、歴史と名付けられるのだ。
記憶され、歴史と名付けられるわけではない。
ほとんどの歴史は、よく言われるように《勝者》による記録が《敗者》のかつての《領土》に刷り込まれ、《正しい歴史》と認識されていくのかもしれない。
これは勝手な僕の憶測でしかない。

「いや、ホロコーストだって記憶をきちんと記録しているでしょう」

ヒトラー率いるドイツ第三帝国時代を経て、敗戦後、今、ドイツはどうなのだろう。
ドイツ周縁国にあたる第二次世界大戦における勝者各国は、戦後、米ソ冷戦と核の脅威から、ドイツを押さえつけることなく、戦後のドイツの復興はドイツ主体で行われてきたようにみえる。
そこがアメリカ主導で復興再建を目指した日本との大きな差でもあるだろう。
今では、ドイツ「帝国」としてEUに君臨しているように僕にはみえるときがある。
ロシア、中国への忖度からロシアのウクライナ侵攻について手を打つことが遅れたのは、なぜなのか?
ガス・パイプライン、ノルドストリームはドイツを経由してEU各国へと流れていた。
EUのユーロそのものがそもそもドイツのマルクに優位であり、南ヨーロッパなどにとっては割高でもある。

戦前戦後を記憶するひとたちの高齢化から、個の記憶として戦争の悲劇を保持するひとたちが少なくなってしまった。
集団、国家としての記憶もそれによって大きく揺らぎかねない。
また、国家としての記憶というのは、個の記憶よりも対外的な利権によって左右されるリスクも大きくなる。

独ソ不可侵条約下で、ソ連はドイツと協力してポーランドに侵攻したが、ドイツ軍のソ連侵攻によって不可侵条約を破棄し、その後、ソ連におけるポーランド侵攻はどのように現代では《正しい歴史》として語られているのであろうか?

ウクライナへの戦車供与を渋っていたドイツの背中をポーランドが押すかたちでレオパルトが供与され始めた。独裁国家と言えなくもないポーランドが皮肉にも今はEUのウクライナ支援を牽引しているように思えた。

戦闘機に至っては暗黙の了解かのように供与を渋っている。

しかしながら、本気でこの戦争を終結させる気がロシア・ウクライナ周縁国にあったとしたら、早い段階での戦車、戦闘機含む武器の供与もあったのではないだろうか?

経済ありきの資本主義国家たち。
ロシアや中国もいまは資本主義経済と言えるだろう。

欲望の資本主義経済によって覇権主義国家同士が《記憶》を抹殺し《記録》を塗り替えて《歴史》を白紙に戻している。

そのように考えるのは僕の錯覚だろうか。

さて、ドイツ人作家、W・G・ゼーバルトは生涯に四つの散文小説といくつかの評論を遺している。
どの作品も、テーマに空間、時代、そして、ユダヤ人が流れている。否応なくホロコーストについて記録されたことを読んだりしたことが思い返されたりもする。彼の作品はイタリア人作家、アントニオ・タブッキ同様に時と空間が主役でもあるため、語り手は読者が読み終えるころ、失踪したかのようにすら思えてくる。ゼーバルト自身は1944年生まれであり、戦前のドイツの記憶は実体験としてないかもしれないが、敗戦国として再建していく戦後の記憶は実体験として残っていたことに疑う余地はない。先日、ゼーバルトの初期散文『目眩まし』を読んだ。ナポレオンの遠征に参加した作家スタンダール、第一次大戦前のオーストリアにおける官僚政治を批判したカフカ、そして第二次世界大戦敗戦国のドイツ出身の名もなき語り手の《私》。これら三人がイタリア北部の湖、ガルダ湖を旅する。スタンダールの『恋愛論』、カフカの短編『狩人グラフス』や『火夫』をパロディとして流されながら、ゼーバルトは読者を時間の可変自在さに突き放す。僕は、読後、旅人たちの失踪を目撃するかのような感覚を覚えた。愛の記憶、生死の曖昧な狩人グラフスの記憶、断片化された大文豪たちの旅を追うことで、ガルダ湖にそれらの破片を見出す《私》。
愛を覚えてさえいれば、狩人は永遠に時空を漂流しなくて済んだかもしれない。ひとというのは、愛する力をなくすと、道徳心は霧の彼方へ追いやられてしまう。
もしかしたら、だからこそ、狩人は永遠に彷徨わねばならなかったのか?ゼーバルトによって、スタンダール、カフカらをまた別の視点から読み直せたりもした。

ゼーバルト含めて、戦後のドイツ国民たちは強烈な扇動を残虐な行為へと向かわせるために使ったファシストたちについて、そしてファシズムの脅威について、繰り返してはならない、とは教育されてきたであろう───経済主導の政治はそこを上手く国民を誤魔化したり欺いたりして利権を優先させるのだろうか?

ファシストは何も第二次世界大戦時のヒトラー、ムッソリーニやフランコらだけではない。
古くはフランス革命のナポレオンだってファシストと言えないだろうか?

《革命》という大義名分で市民を扇動し、最終的には、市民らは暴徒にもなる。愛を手放し踏みつけていくファシストたちと愛を忘れた暴徒たち。

ロシアのウクライナ侵攻のみならず、今でも世界中で戦争と暴徒による空間の破壊が永劫回帰的に繰り返されている。

カントではないが、国家、集団の本来性を野放しにしていると、動物的に戦争や紛争というのは常に免れない。
国家間における平和のための連携は経済主導であってはならず、また、紛争への平和的解決のための介入は地域によって見過ごすことや後回しにしてはならない。

愛する力というのは湧き水のように見える時もあるが、雨が降らねば、やがて枯渇し、愛された記憶も忘却の彼方へと葬り去られかねない。

あらゆる状況下での子どもたちに、力強く愛すること、過去のその土地の記憶とともに語り継ぐこと、じぶんの目で見えない地域のひとびとのことを知る機会、学びの機会を愛情をもって、分けてあげたい───曇り空の下でも朗らかに笑う子どもたちを見てそう思った。

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