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とりとめのないこと2024/02/24

僕の両親は少し変わっていて、僕が子どもの頃、別居、離婚、紆余曲折の末になぜか再婚した。
今は仲良く、噛み合わない会話をしながら、彼らは日々一緒に生きているみたいだ。

僕は今のところまだ妻に出て行かれていないが、時々、呆れられ、何度も片付けをせずにいて、出て行けと言われ、車の中、寝袋で寝たり、喧嘩もするけど、まあまあ仲が良い方だ。たぶん。

違う人間と生活すれば、当然、物理的に、個のスペース、つまり距離と空間が、狭くなり、衝突もするわけだ。

だから、お互い、ほんの少しの想像力を働かせて相手の気持ちを受け止めてみようとしたり、あるいは、じぶんに折り合いをつけるしかない──他人なんてわかりっこないんだから、思いやりってそんなもんだろう。

戦争や紛争、民族弾圧はその延長線上で、じぶんの意見や欲望を押し通した結果とも言えるかもしれない。

国家という幻想と幻想のぶつかり合いで幻想ではない現実の弱い立場のひとたちからなすすべもなく、個の尊厳を踏みつけられ、ひとりひとりの大切な思い出たちとともに葬り去られていく。

僕がもしも魔法を使えたらよかったのに!
そしたら、瓦礫を元通りにして、倒れたひとたちや動植物に息を吹き込み、笑顔やとりとめのない涙や日常のとりとめのない怒り、そうだ、日常を彼らに取り戻してあげられるのに。それに、僕の苦手な整理整頓もあっという間に終わるだろう。

きっと、これを妻が読んだら、こんなの書いてる暇あるなら、じぶんの読んだ本を本棚に片付けろ、と言うに決まってる。

悲しくなる。
後片付けをしたら、僕には日常があり、つめたい足をお互いくっつけてありふれた会話が待っている。

悲しくてしょうがないのは、思いやりというとても簡単な魔法をおとなは使えるようになったはずなのに、使えるようになった途端にバカにされることに怯えて使うのをためらうことだ。

こんな役に立たないこと、僕が書けば書くほど読んでもらえず、無意味と捉えられるんだろう。
でも、僕は、今すぐに魔法を使いたい。
青空であれ鉛色の雲に覆われた日であれ、ささやかな日常をみんなが享受でき、命を全うできる魔法だ。

悲しい。やさしいひとでありたいし片付けができるようになりたいし、嫌な上司に胃を痛めることなく、お金の心配することなく、仕事だってサボって一日中妻と娘とベッドでゴロゴロしていたい。

小川のせせらぎや季節の花の薫りや鳥たちの歌声や木々のざわめきや海鳴りを感じ、家路に着く安堵。名付けて、名前を呼び合うことの親密さ。
誰だって、当たり前にそうした空間とそうした関係性が愛おしいに決まってる。

理不尽にその空間が崩壊し、誰にも名前を呼んでもらうことなく、あるいは、名前を叫び続けても呼応せぬまま、踏みつけられていく草花や歪みに押し込められたひとたちに、僕は魔法を使う。

悲しい。僕の魔法が無力で悲しい。
でも、僕は魔法を使いたい。

ありとあらゆる暴力装置が機能不全に陥り、憎しみや悲しみのエネルギーが愛と赦しあうためのエネルギーに転換される魔法を僕は知ってる。

どうしたの?
ってやさしく聞いて
ごめんね、ありがとう
って言ってやさしくしてあげる勇気。

当たり障りないことだけ見たり聞いたり語れる人たちが羨ましいよ。
何で僕の周りだけなのって恨めしくなる。
丁寧な日常?
ふざけんなよ。さっさと停戦しろ!

破壊された空間、心を元どおりに出来なくても、明日、朝が来るのを当たり前に思えて、時には、生きていくためのささやかな希望を持てるかもしれない魔法──思いやる力、愛情、赦し。

きっと、これを読んでくれている君も、魔法を知ってる。
僕だけじゃなく。

思いやりの輪が広がって!お願い!!!

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