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焼き茄子の鼻水

昼、今日はお弁当ではなく、現場近くの定食屋に向かった。手書きのメニューを開くと、焼き茄子というメニューに目が留まり、僕はチャーシュー麺とチャーハンと焼き茄子を注文した。

料理が運ばれてくるまで、僕はアニー・エルノーの『ある女』をKindleで読んでいた。

読んでいて、曽祖母のことを思い出した。

90代の曽祖母が亡くなる数時間前、僕ら家族はほとんどが曽祖母の周りに集合していた。
延命装置を外され、細い管が手に刺さっているだけで、弱々しい心拍をその隣にある機械がもうすぐ曽祖母は死ぬというのを伝えていた。

その年の前後、憲法改正案の賛否両論を時々見たり、東京五輪のエンブレムがどうとかこうとかだったり、僕の生まれ育った街の映画が流行ったりしているのを僕は神戸で見聞きしていた。
危篤状態だから戻って来れるなら戻ってくるようにと連絡が来て、叔父と僕とで車で実家へと向かい、そのまま曽祖母の入院する病院へと行ったのだった。

80歳を超えたくらいの頃、大腸癌が見つかった。高齢だったせいか、進行は緩やかで、体力的に手術を何度もするというのは難しかった。しかし、手術を彼女は決断した。
それからしばらくして、2度目の手術を受けた。
2度目の手術から2日目、嚥下障害を起こした。祖父は夜勤の看護師たちのミスでもあると言い詰め寄ったときもあった。父がいなしていたのをよく憶えている。

曽祖母が亡くなったのはそれから7ヶ月後の夏、僕の誕生日だった。

曽祖母が高田馬場で生まれたのは1920年。目の前で226事件を見たり、戦時中は北海道のカトリック教会でシスターをしていた姉を頼って疎開したり、無口な曽祖父と結婚したり、息子が突然、留学先から外国人の女の子と帰ってきたと思ったら、しばらくして建設業に路線変更したり、その会社が傾きかけて山を半分売る羽目になったり、とにかく、彼女には彼女なりに色々なことがあった。

何度か書いたけど、曽祖母は女学校時代から毎日日記を書いてもいた。そこから彼女や周りで何があったのかだけでなく、気温や天気、家計でのお金の流れまでが書いてあるから分かる───本当は読んじゃいけないんだろう。愚痴はたくさんあったはずだが、見当たらず、彼女は墓場に持って行った。
多分、僕のこの一年ちょっと続けている散文について、こう思っていると思う。

「そんなこと書くものではありませぬ、心のうちに閉まっておきなさい」

まだ元気で頭もしっかりしていた頃、時々、学校から帰ってくると、曽祖母は台所で茄子を焼きながら、水戸黄門の歌を歌ってた。

戦争から帰って来た職業軍人で無口な曽祖父とは対照的だった。よく近所のひとたちを招いたり、孫やひ孫たちと話をしたりしてくれた。
絵を描くのが趣味でたまに描いてもいた。
中野に住んでいた少女時代、近所に帰国した藤田嗣治さんが住んでいて、モデルになったというのが彼女の自慢のひとつだった。藤田嗣治とは呼ばず、曽祖母は画家のことをレオナールさんと呼んでいた。僕はそのせいでそのひとが藤田嗣治さんだと知ったのはつい最近のことだ。子ども好きなひとだったらしい。

一度目の手術術後は順調に回復し、一時的に一度、自宅に戻ってきた。
その時みんなで昼ご飯を食べた。
食べ終わる頃、曽祖母は画用紙に赤ペンで、
みんな愛してるよ
と書き、みんなと写真を撮った。

生きてたら、100歳を超えているから、生きてたらなぁとは不思議と思わない。
嚥下障害がきっかけとなり亡くなったかもしれないし、よくわからない。
でも生きてた頃にもっと色々聞いておけばよかったと思う。僕らの話を聞くばかりであとは曽祖母がサッカーの大ファンだったこともあり、曽祖母が話すのはサッカーの試合のことくらいだった。
曽祖父母はいわゆるザ・昭和みたいなふたり組だった。男は喋らず、女は外で働くのではなく家事をして文句を言わない、ほんの少しの絵画や音楽をやって、庭の雑草をむしる。エルノーさんのお母さんやエルノーさんとは違い、女性の権利を求めて、だとか、男と混ざって外で働く、だとかとはかなり遠い場所の曽祖母だったかもしれない。
曽祖母自身がそれについてどう考えていたかは、誰も知る由もない。ただ、時々、「「今」の政治はだらしない、ピシッとしないといけないのに」とテレビを見ながら言ってたりもした。

亡くなる直前、僕らひ孫たちは意識のないまま目をつむる曽祖母のそばにいた。

心拍、血圧、酸素飽和度のモニターにうつる数値が緩やかに下がっていった。
祖父は「お母さん、ありがとうね」と言ってた。そうして「お別れをしてあげて」と僕らに言い、僕らはまだ温かい曽祖母の手を握っていた。

嚥下障害の起こる前日、意識はハッキリしていた。障害を起こしてからは、薬で眠らされ、せん妄状態でベッドの上にいた。亡くなる前日には呼吸や脈拍がおかしかったけど、ずっと眠っていた。

皆、何かしらで死んでいく。

それぞれで異なる人生が当然だがあるだろう。 書くことで大切なひとの存在を確認したって良いではないか。
書く行為、労働を通して、そこから這い上がる契機にもなるし、時には慰めにもなるし、ときには、他の誰かに何かを考えさせるきっかけを与えたりもする。 エルノーさんはそうした点でアンガジェした作家と言って過言でないだろう。

画用紙に赤ペンで書いてくれた文字のことを思いながら、僕は焼き茄子を食べていたら、鼻水が伝ってきて、僕は他の客に泣いてることがバレないよう、鼻をかみ、ラーメンを食べ本の続きを読み終えた。

あの日、晴れていたか、曇っていたかは、日記に天気を書いてないから憶えていないけど、雨は降っていなかったと思う。

ある物事を語ることをえらんだから、作家なのではなく、その物事をある仕方で語ることをえらんだから、作家なのである。そして文体は、もちろん、散文の価値に違いない。しかし文体は気付かれずに過ぎるようなものでなければならない。
『文学とは何か』J.P.サルトル 人文書院 p31

2022年11月7日、月曜日、曇り、湘南にて。

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