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紙々の仕業

とある週末の京都。歩く傘だって、ここではまちの髪飾りになる。夏の雨粒が空を掠り去る音は情熱的なBGMとなって私たち旅人の耳元へ届き、そしてこの都への愛がやがて増殖される。だから頭上から雲までの湿り気もむしろ爽やかだし、そこに充満する恵みのシャワーは実は宇宙からの嬉し涙なんだ。

大阪のそれはそれは南の南。片田舎に住む私がはるばる京都に向かった理由、それはこのまちで紙と戯れるためだ。紙々の世界。かれこれ6カ月以上も亡くなった父の本棚整理を続けていると、本の神様にちょくちょく出くわす。本というより、紙の束としての本、その存在感、質感、個性、におい、そして見つめているとその文字の運び屋としての心意気みたいなもの(なんだろう、印刷の発色を浮き立たせる色目って言うのかも)にまで感じてしまう。すっかり私は紙の魔法に引っかかってしまったらしい。なかでも本の概念を一瞬にして崩してくれた本、この本が何気なく置かれていることに気づいたのは2カ月ほど前のこと。父の書斎の卓上にその女性の神様「お嬢」はちょこんと座っていた。香水なのか紙の自然な匂いなのか、開くとそこからは淡くまったりとした香りが放たれ、私を包み込む。目を虜にする優しく丸いフォント、耳に心地よい歌の軽快なリズム。100年以上も前に印刷、和製本されたこの美しい本には四季折々の明治天皇の和歌が収められていた。その時、本っておもわず手に取りたくなるものだったんだとはじめて気づかされる。触れられることでのみ伝わる感動がそもそも本には備わっていて、でもいつのまにか、そんな本の色気は大量生産の波に飲み込まれて、そぎ取られて。こういう本の楽しみ方は過去の遺産に過ぎないんだろうか。Kindle本がKindle本として成り立つ所以は、文字伝達以外の方法で放たれる媒体の魅力を組み込んでいないからだよきっと。

父の「お嬢」との出会いからというもの、触って楽しめる紙の世界にちょっとだけハマっている。だからこうして京都の印刷屋さんに出向いたりして、手作りノートをつくる楽しみも覚えている。本や紙の可能性をまだまだ知らない私。でも日々父の書棚を片付けする中で出会う本の神様達にそのヒントを貰っている。

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