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Affordances in Product Design

先日『もしかする未来』展に行きました。

デザインの骨格』の著者でもある山中俊治氏 @yam_eye の「義足」がとても印象的でした。パラリンピックの注目により見る機会が増えた義足は、人間の足のシルエットこそないものの、走る機能をカタチに変えたものだ思いました。

少し前にも、「義手」でバイオリンをたくみに演奏する動画が話題になりましたが、個人的に注目したのは素晴らしい音色を奏でていた義手のほうです。

調べてみると、これは節電義手ではなく、肩甲骨を動かして弾く旧来の仕様らしい。バイオリンを弾くためだけの仕様で、世界にひとつしかないものだとか。義手と言って想像するモノは、骨があって肉があって皮でコーティングされた、およそ人間のカタチを再現したものが多かったので、骨格だけの義手を見るのは新鮮でした。

弓を弾く腕の機能を補完していると見れば、腕の骨のようなもので十分なのだろう、そう思って見ていました。

さきに書いたものを「走るための足」とすると、この場合「楽器を演奏するための手」としてみることができます。

一方で、義手そのものを楽器にしてしまう「Musiarm (ミュージアーム)」という試みもあるようです。KMDEmbodied Media Project (身体性メディアプロジェクト) の製品で、この場合「楽器を演奏するための手」ではなく「演奏するための楽器 = 手」ということだと思います。

つまり、先の例に見られる「身体の補完」ではなく「身体の拡張」としても見ることができます。

補完にしても拡張にしても、カタチが人間のそれとは違うことが興味深いと思いました。「ある目的のための機能がカタチになった」という印象です。

もし、二足歩行が定着したタイミングで人間の手足の機能が決まったとするならば、その時点のカタチが今まで続いているということになります。もし、現時点で手足の役割を決めるとするならば、どういうカタチになるでしょうか。そう考えると、2つの例は求められる機能を改めて創造したことになり、「手足の再発明」と言ってもいいと思います。

カタチというアイデンティティ

さて、機能がカタチに与える影響はわかりましたが、逆の視点でカタチが機能に与える影響はあるのでしょうか。

YAMAHA の電気楽器「サイレントシリーズ」は、練習用に音をコントロールできるようヘッドフォンで聞けるようにしたものですが、そのカタチが非常にユニークです。

電気楽器ではあるものの、アコースティック楽器のフォルムを部分的に継承しているため、ある意味こちらも骨格だけのプロダクトに見えます。

興味深いのは、電気楽器なのでそのカタチにしなくても音は出せるわけです。つまり、音を出す機能だけを考えればそのカタチにする必要はない。一方でそのカタチにすることで、プロダクトの認知を助けていると見ることができます。そのカタチであることで、ひと目でギターやバイオリンと見ることができます。

反対に、音を出す機能に特化することで新しいカタチを取り入れた「Venova (ヴェノーヴァ)」のようなものもあります。こちらは本来のサイズとは異なりコンパクトなもので、分岐管構造と蛇行した管を独自で作られています。

カタチというのは、そのプロダクトの持つアイデンティティだと思います

そのカタチである理由〈必然性〉というのは、そのプロダクトの持つ本来の「機能」というよりも、認知のされ方 (これはこういうものだという思い込み) が大きく影響しているのだと思います。

長い年月を経たプロダクトは、あたかもそれが必然であるように見えて、実はその本来の機能を捉え直すことでヴェノーヴァのように〈新たなカタチ〉になり得るのではないかと思います。

カタチが変わらないプロダクトというのは、認知のされ方が定着しただけで、使う側が本来の機能まで掘り下げて考え、現代の目的に合うようアップデートしようとしていないだけなのかも知れません。

アップデートした結果、新たなカタチになること、新たな意味を持つことに自信を持ち、アフォーダンスになり得るプロダクトを作りたいと思いました。

アフォーダンス(affordance)とは、環境が動物に対して与える「意味」のことである。 アメリカの知覚心理学者ジェームズ・J・ギブソンによる造語であり、生態光学、生態心理学の基底的概念である


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