エスケープブック no.004 マルドゥック・スクランブル/冲方 丁

全編観たのは映画だけなので、本としては上巻である「圧縮」のみ、なのだが、
物語の中心人物である、少女娼婦 ルーン・バロットを通して、愛の存在証明をしたくなる本だと思っている。

彼女を専属娼婦として買った賭博師シェルは、愛をこう定義した。
「愛の定義は与えることだ。それにはルールがある。与えられる者が守るべきルールが。」

愛は与えるものである、私の考えもその通りだ。
「愛してるって言って?」は心底陳腐な発言だと思っている。
与えるからこそ愛であるのに、それを自ら要求してどうするのかと。
それで返ってきた「愛してる」の言葉に、愛なんてないのではないかと。

では与えられる者が守るべきルールとは?

愛は与えるものであって、見返りを求めるものではない。
だから課すべきものはないと思っていた。

シェルの言葉の続きはこうだ。
「与えられたものに疑いを持たないこと。それがルールだ。何故自分なのか、などと考える必要はない。」

シェルのこの言葉は、バロットに対する計略の意図を含む言葉なので、
私が受け取った印象と、彼の意図は異なるのだろうが、
愛は無償のものであるならば、受け取ったものが、その愛に対して何故自分にと、理由を欲するのは、確かに無意味だと思った。

それがルールであるかは別として。
ルールを課した時点でそれは無償ではないので、愛ではないと思っている。
実際に、シェルはバロットを愛してはいなかった訳で。

「私を愛して、ウフコック」
新しい相棒となった、金色のネズミの形をしたウフコックに、バロットは言った。
自分が行動する言い訳が欲しい、"あなたが愛してくれてるから、こうするんだ。"という行動の理由。

「愛されてるかどうか。それがないまま死んでしまうのが、一番、嫌だから。
でも結局、それがないせいで、みんな死んでく気がする。実際に命が消えるんじゃなくて、いろんなものが体の中で死んでくの。」

いろんなもの、はきっと心だと思う。
愛して欲しいと口にしても、誰かを愛してる。や、愛したいとは未だ発してないバロットは、まだ十五歳かその辺りの少女で、彼女の才能故に、心を殺すように生きてた。
だから、心の苦しみや喪失感も、体の中で死んでく何か。としか捉えられなかったのではないか。

愛することと愛されることはどちらが幸せなのだろうか。
少女たちがそうであったように、「愛され女子」なんて、何故か鼻に付くゆるふわワードがあるように、なんとなく、女性は「愛されたほうが勝ち」という空気感がある気がする。
確かに愛される事は心の充足感があると思う。

ただ、一つ強く思うのは、愛される事は受け身であり、多発的であり、性欲のように自身で満たすことが出来ない。
その上、形がないので断続的に摂取しないと愛は消えてしまう。とても燃費が悪いと思う。

そして、愛されたいと思う時、「この人に愛されたい」と思う、この人に対して、愛はあるのだろうか。

与えられるものを搾取するだけであれば、きっと相手に対して愛はない。
こうして書いてると、「愛される」よりも「愛する」ことはとても健全で、清潔に見えてくる。

全編読んでないので真実は定かだが、愛される事こそ生命の鼓動だと感じていたバロットは、ウフコックや多くの人々との関わりを通じて、大切な人が出来ていって、愛する事と、その喜びを知るんじゃないかと思う。

というより、何事もそうであって欲しい。
与えられる事だけに執着するのでは、きっといつか枯れてしまう。

愛は在るのか?
答えにならない答えだけど、
愛は、愛し、愛されないと、きっといつか終わってしまう。
どうか私の、誰かの、愛する対象が、愛してくれますように。

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耽美主義、唯美主義、印象主義。平成ゆとり世代なのに、昭和感漂う化石的存在。言葉と香りの魔術師見習いとして活動を行なっていきます。

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