演じることーーー『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』(映画評)
小説は以前から読んでいたのだが、映画は今回始めてみた。
元々好きな小説。
話が極めて切なすぎるので、再読できていなかったし、映画も興味はあったが、同じストーリーを体感することはすぐには難しかった。
確かに、今回映画は観た。
けれども、一度止めて時間をおいてから、やっと、観た・・・。
大まかなストーリーは、主人公の福士蒼汰(南山高寿)がヒロインの小松菜奈(福寿愛美)を電車(叡電)で見かけて、駅で一目惚れしたといって声を掛けるシーンから始まる。
これは主人公にとってははじめのシーンであり、ヒロインにとっては終わりのシーンになる(詳しく書くとネタバレ。ネタバレはしません)。
ここで言及したいのは、彼らは、宿命を背負って、台詞を喋り、ふたりで劇を演じていると言うこと。
彼らは台本を持って細かいシナリオを、またあるときは互いに悟られないように、綿密に演じていく。
限られたかけがえのない30日間の、演劇そのものが其所にあると言って良く、これは、演劇を行う役者の心の動きを捉えた物語に他ならない。
屋台で食事をするだろう。
その食事は既に知っている味だし、リアクションも決まっている。その後どういうシナリオかも分かっている。
しかし、役者はあたかも、初めて体感したかのように振る舞わなければならない。
「大分涙もろい」
これは役者の心の声であり、アドリブであるはずだった。しかし、それすらもシナリオには書かれている。
「今日の予定を発表します」
これも、物語の劇としての要素を物語る台詞。
一度、この劇を演じることを高寿が提案する場面がある。
だが、結局は劇の中に戻っていった。
それは、ふたりがふたりで作る関係性だから。
そこに自由はない。
あるのは自由を縛る宿命だけで、その宿命が故に切なく悲しく、美しい。
宿命とは美しさなのかもしれない。
先日、福田恆存の『人間・この劇的なるもの』について少し、ツイートした(noteへは改めて書きます)。その思想がよく分かる物語。
はじめに小説を読んだときは気付かなかったが、結局この宿命の小説(映画)のもつ美しさが、際立っている。
直接的に僕には響くので、
もう、少なくともしばらくは見返さないと思う。
最後に、back numberは「ハッピーエンド」だといっているけど、切ない歌詞からも、面白い解釈だと思った。
どうして家族になれないのか?
家族になると言うことの、かけがえのなさ、大切さを感じられた映画だった。良ければ、小説・映画を読んで貰えればと思う。
参考:
福田恆存『人間・この劇的なるもの』
以上。
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