心を整理するのに、積み木を倒すということ
最近気付いた自分の心の動きについて備忘録的に残しておこうかと。けれど、ここに書くことが即正解ではないし、今後考えも変わると思うけれど。
欧米の徳倫理学の中では、「愛」という徳は、徳を超える徳として、三つに分類される。即ち、「エロス(性愛)」「フィリア(友愛)」「アガペー(慈愛)」の三つである。
それぞれは、肉体を超える心の世界を示している。
フィリアとアガペーは、他者がその場にいなくても、或いは成立するが、エロスだけは、その場に他者がいないと成立しない。そして、僕はエロスを余り信用していない。
エロスの説明で一番有名なのはプラトン『饗宴』の、いわゆるアリストパネスの、男男、男女、女女の片割れを探すくだりだろう。他者を認め、未完成な心が、肉体を超えて求めるものがエロスの本質だと思う。
たとえば、仮に他者が自分のために、食事を作ってくれたり、何かプレゼントをしてくれたりといったことは、片割れを探すエロスの故であるが、それが本来無いもの、有り難いものと思っているので、割と素直にそうされると喜べる。
無論、それに慣れると要求したり、期待したい部分が出てくる。それは良くはないことなので注意が必要。
そして、誰かに何かをしてもらうという、そういう大切な体験は積み木のように積み重なっていくものだと思う。
他者の愛は不安定なもので、往々にして離れていく。そうしたときにどうすれば良いのか、それは大切に積み上げた積み木を倒すことだと気付いた。
体験一つ一つは大切なものでも、他者がいなければ、積み木を積む意味はない。離れるのであれば、いったん倒して、場合によってはまた積めば良いのであって、その方がうまくいく。サイコパシーに積み木は倒した方が前に進みやすい。
しかし、人間はつい、折角積み上げた積み木が惜しくなってしまう。
この心は愛とは違う、執着に過ぎない。
だから、心の積み木は早いうちに倒した方が良い。積み木を無理矢理残すことよりも、自己と他者の存立を一番に考えることが大切。
積み木を倒すのは心の動きなので、特に具体的な行動を取る必要はない。ただ、心の中で、そっと積み木を倒すだけで良い。
倒した後は、エロスの出番は終わり、フィリアやアガペーに任せればよろしい。あるものをまずは慈しむ心。
『はたらく細胞』のように、それぞれ立場によって役割が決まっているので、その役をしっかり果たさせてやること(各人のものを各人へsuum cuique)。
愛が減ったりなくなったりするわけではない。
その性質を状況に応じて変えて、昇華する事が大切。
そのためのスイッチが、積み木を倒すこと。
しかし、どうしても、やはりそれに気付くまでは、積み木を倒すことが出来ずに執着してしまうことが多かったが、僕の場合は積み木を倒すことでより良く物事を考えられるようになったと思う。
さて、フィリアやアガペーは、徳倫理学の中でも最高位に位置する徳なので、それを分かるということは中々難しい。実践も、容易ではないだろう。
フィリアも他者を必要とする場合もあるし、アガペーは我々のようなキリスト教徒で無いものには難しい部分もある。
それでもそこに一つの答えがある。
積み木を倒すというと、諦めたような諦観の響きが混じるが実際はそうではない。前向きに相手のことを待つと言うこと。
もっともっと、より良い関係を結ぶために。
心を整理するのに、色々な考えややり方があると思うが、この考えが今は一番しっくりきている。
祈りを込めて、もう一度徳倫理学の勉強をしてみようと思った。
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