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春はいろんなことが起きますね。

睡蓮鉢の葉っぱの上に桜の花びらが舞い落ちる今日この頃、みなさまいかがお過ごしでしょうか。

私の方は、おかげさまで私自身も家族も元気にしております。1つだけ、花粉症が年々酷くなるのでそろそろ海外逃亡を身体が訴えているような気もしつつ、日常が続きます(近年中に海外との二重生活を実現したいと思っています)。


今日は、「季節の『春』と同じような構造」が、物事がたちあがってくるタイミングや、なんらかの「新規事業」や「個人の気づきのプロセス」にはあるように感じて、このnoteを書き始めてます。


はっきり言語化できてないので、自分自身が言いたいこと(気づきたいこと)を探りつつ最近あったことを列挙してみると、、、

・仕事がらみでハワイ島滞在中に、ビーチで落とした「レンタカーの車のキー」を誰かが拾って目立つ場所に置いててくれた→帰りにキーを落とした自覚ない自分が偶然目にしてことなきをえる体験をしました(海外で車のキーなくすとか、想像するだけでも厄介そう)。日常で、神様(のような人)っているんだな、って感じる瞬間がこのnoteを読んでくださっているみなさんもあると思うのですが、まさにその瞬間でした。

(小さな子供達でもボディボードでめっちゃ遊べるKua Bay。ビールタイトルにもなってます^^おススメ!。拾ってくれてシャワーのある場所のテーブルのとこに置いててくれた人、マジ感謝!)


・家の近所で2トントラックに轢かれそうになったこと(信号青で、急いでた自分が横断歩道を走り始める瞬間に、ふと勘が働いてストップしたら、信号無視のトラックが交差点に入るのに減速もせず、自分の顔30センチ前を猛スピードで通り過ぎていった。。。)あのまま走り出してたら死んでましたね、たぶん^^;日常で、なにものかに守られてるなあ(「まだ死んじゃダメよ」って言われてる感)って感じる瞬間、みなさんもあると思うのですが、まさにその瞬間でした。

(日比谷公園のかわい子ちゃんたち^^。生きてて良かったなあ)


・また最近、友人の深刻な医療相談を受けて一緒に悲しい気持ちに浸っていたら、つい一昨日くらいに検査のエラーといういか、仕組み?で心配しなくていいことがわかったり、、、嬉しくて祝杯モードだったんですが、その友人が言ってくれたことが印象的だったのです。「検査でポジティブ疑い、と言われた時に、どん底に落ち込んで、、、そんなときに対応してくれたことが嬉しかった」という内容でした。自分もきっとそうですが、人間、シロとわかればけろっとできるけど、クロかも?と言われると、内容によっては、疑心暗鬼と不安と絶望で、パニックになるのは普通のことで、そういうときに、「シリアスな話、落ち込んでる自分」を受け入れることができる人、さらけ出せる人、そういう状況に「対応できる人」(ある種の才能や専門的な経験)がいてくれるとパニックをしのげるし、すごく価値のあるサポートができるのだなあ、ということ(病気のことは身内にこそうまく伝えられなかったり、心配かけたくない、という想いが先行する人も多いし。友人だとしても、その友人の時間を「奪うこと」を遠慮する人も多いし)。

(うちの近所のシモクレン。優しく、でもカッコよくて好き。生命力溢れてます^^)


・また、知り合いのお子さん8歳くらいが、人とぶつかって転んで地面に手をつくときに変なふうになってしまったらしく、びっくりするくらいあっさり左上腕を開放骨折してしまった、という事故が身近でありました。自分が現場に居合わせ、救急車が来るまでの間(すごく長く感じましたが、たぶん30分ちょいくらい)痛みに泣き叫ぶその子の頭を支えつつ(幸い頭を打ってなかったのと出血量が大したことなかったので止血の必要がほぼなかったのがありがたかった。開放骨折の止血なんてようせんですし。。。)、医療知識にすでに自信がなくなってる自分としては、わかる範囲で、「痛みからのショック状態」(呼吸状態や循環動態が下がるリスクありと認識)が怖かったので、その子に語りかけ、大いに泣き続けてもらい喋り続けてもらい、時々、意識を失いそうになると、彼の好きな歌を教えてもらい(こんなときに何聴いてんだよボケ!というその子の眼差しに耐えながら^^;)パパのスマホでその歌を聞かせたり、そのうち、泣きながらも本人も歌いだしたり、、、、周囲の協力してくれる大人のみなさんと声かけあって、本人を励まして、、、、結果、救急隊のお兄さんたちが来てくれて(優しい皆さんでほんと神)、無事に救急搬送でき、すぐ病院で手術となり、オペも無事終了で神経・血管の後遺症もなさそうで経過が良好、という経験したのでした。(そういう場面、久しぶりだったので、まだちょっと自分自身が情報を処理しきれずぼーっとしてます)。親御さんや周囲の人たちから「冷静に対処できたのはあなたのおかげ」と、感謝していただき(外科系の医療専門家経験のあるひとからすると基本的なことだとは思いますが)、いまは臨床離れて久しいけど、若い頃に臨床での看護師経験あってよかったな〜^^、と久しぶりに感じたり。

(これも日比谷公園の森。いろんな色が混在してて自然の曼荼羅のよう^^)


・翻って、インドネシアで手術を受けた友人の苦労した話や日本と異なる点などをつい最近聞いていて、自分にできることは何かないか、と考え始めていた矢先だったので、勝手にいろんなことがつながったり、つながらなかったり。ラジバンダリ(書いててなつかしー^^)。

(これもご近所のお花^^。光を取り戻し何から何までこの季節、美しいです)



結論わからずにこのnote書き始めてたのですが、ここまで書いてわかってきたのは、

自分以外の誰か(神様仏様、みたいな宗教的な人外の存在も含めて)に助けられたと感じる体験をした自分が、誰かが「助けてもらった」と感じてもらえる提供者側も体験することが最近続き、ん?なんだこれ?何かのヒントな気がする、と感じている。(←イマココ)


のだなあ、と。そしてそれらが自分の中で、火花が散ったようにつながったり接触したりして何かを起こしつつある、ということのようです。


さてさて、この先、自分の身に、巻き込まれた周囲の仲間たちの身に、何が起こるのでしょう?


冒頭で、「季節の春と同じような構造」と書きましたが、昔読んだインディアンの絵本で「春には、大地が新しいものを生み出す前の苦しみの時間が訪れる」みたいなことが書いてあって、嵐が吹き、暖かくなってきたかと思ったら寒さが突然襲ったり、自然も気候も動揺が激しく、その中で、目に見えなくても「新しい芽吹きの準備」がなされているイメージです。


事故も、健康を損なう出来事も、ある日突然やってくるわけで、理不尽に。


でもそのときに、人は誰もが「理不尽な不幸・不運の渦中にいる人の助けとなることができる」こと。そんな原体験をしたのかもしれません。

(朝日と緑。好きな人たちとこれらがあれば、やっていけます^^)


・・・原体験といえば、ちゃんと振り返りたいと思っている「米国で2歳前の息子の入院・闘病体験に親として付き添う体験」が10年以上前の留学中にありました。今回のnoteとつながっているので、近日中に書きたいと思います。


そして探求は続く。

驚きと、気づきと、湧き起こる感謝とともに。

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