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オリビエ・ペリエ引退

オリビエ・ペリエが引退することが分かりました。仏南西部のラ・テスト競馬場での2鞍が最後の騎乗になります。

仏競馬専門チャンネル「エキディア」によるとペリエは

「何事にもタイミングがあります。慎重に考えた末の決断です。最近は明らかに騎乗数が減っているし、同世代のジョッキーがやめていくところを見て、自分自身に『もう潮時だ』と言い聞かせました。非常に長いキャリアで私は多くの成功を収めてきました。世界中のあらゆる場所で勝利を収め、大きな成功と素晴らしい瞬間を経験し、たくさんのいい人に出会えました。自分のキャリアを止め、過去に起こったことを見ることができて、とてもうれしい」
「ゴルディコヴァ(BCマイル3連覇)、パントレセレブル(凱旋門賞制覇)、シンボリクリスエス…たくさんの馬が私のキャリアを彩ってくれました。私の中で最も素晴らしい思い出の1つはやはりパントレセレブルの凱旋門賞。ジョッキーとして凱旋門賞の勝利は言葉では言い表せない。紛れもなく世界で最も美しいレースの1つです」

とコメントしました。 ついにペリエが引退ですか・・・もう51歳ですもんね。我々のようなオールドファンからすれば懐かしい名前です。


■ペリエの活躍

彼が来日していた2000年前後は、日本競馬が最も輝いていたと時代の一つであり、同時に黒船の脅威に恐れおののいたもんです。1996年から2000年まで5年連続でフランス獲得賞金1位、リーディング4回ですからねぇ。現在なら、ギュイヨンとかバルザローナぐらいの騎手でしょうか。普通にスゴイ騎手です。

ペリエは、母国の仏国をはじめ、英国、愛国、独国、米国、イタリア、カナダ、ドバイ、香港、そして日本で騎乗するなど各国で活躍しました。通信社の取材を引用する形ですが、英競馬専門チャンネル「アットザレーシズ」によれば通算3700勝、重賞500勝以上を上げているそうで、アラブも含めたGⅠは165勝だそうです。武豊に負けず劣らず、とんでもない数字。

また、96年のエリシオ、97年のパントレセレブル、98年のサガミックスで凱旋門賞を3連覇し、2012年には日本の悲願にあと一歩と近づいたオルフェをソレミアで撃破して当時史上最多となる凱旋門賞4勝(現在はデットーリの6勝)を挙げたことでも有名です。

日本では、1994年に短期免許で初来日し、翌95年から2008年まで14年連続でJRA重賞(合計39勝、内GⅠは12勝)を制覇する活躍を見せます。有名な記録はオペラオーの最多GⅠ勝利を阻んだジャンポケのジャパンCや、ボリクリとロブロイで有馬記念3連覇、ロブロイの秋の王道GⅠ3連勝、2001年の3週連続GⅠ制覇(マイルCS、ジャパンC、阪神JF)などでしょうか。日本人騎手では川田でも到底届かない高みにいる騎手ですね。まさに短期免許の礎を築いた騎手です。


■目の病気と衰え

そんなペリエですが、2009年の来日時に目の病気のため途中で帰国します。それ以降は短期免許を取得しておらず、ジャパンCなど競走限定の免許で数回来日したのみです。仏国で騎乗していることから、また日本に来ても良さそうなもんですが、巷では税金関係を未処理のまま帰国し、身元保証人が代わりに払ったとか、「食べられないなら騎手を辞める」と豪語するほどのグルメが影響して57キロに乗るのも厳しいとか、それらが原因で社台を怒らせて呼んでもらえないとか言われています。どれも様々なソースからの匂わせる程度の話でしたが、関係者の中ではどうやら本当のことらしく、何とも勿体ないですね。

仏国でも若手に押されて騎乗依頼がドンドン減っており、21年は421戦69勝、22年は367戦45勝、23年は161戦18勝と、ミルコ以上に騎乗数、勝利数を落としています。年齢も年齢ですし、引退を考えても不思議じゃないですね。

今後については

「少し競馬から離れて時間をかけたい。休んで数カ月後に何が起きるかを見るつもり。これまでは仕事で英国や香港に行っていたけど、これからはそうではない。友人に会い、子供たちと時間を過ごし、新しい人生を楽しみます。2人の娘と楽しめるようにバイヨンヌ(フランスのバスク地方)に滞在するつもり。ここには必要なものがすべてそろっていますから」

と、競馬界を離れてゆっくりするそうです。調教師などにはならず、のんびりするようですね。 武豊と同じでしょうか。いやっ武豊は競馬以外何もできない人なので、死ぬまで競馬に携わっていくでしょうが。


■関係者のコメント

ペリエの引退で、関係者がコメントを出しています。

武豊
日本に短期免許でやってくる外国人騎手の草分けとも言える、フランスのオリビエ・ペリエ騎手が引退するというニュース。最近あまり乗っていないなあと気になってはいましたが、いきなりの引退発表は意外で、寂しい気持ちになりました。初めてやってきたのは彼が21歳でしたから、いまからちょうど30年前。武邦彦厩舎が最初の受け入れ先だったわけで、びっくりするほどガンガン勝たれたものでした。

ペリエ騎手の成功が、いまの日本の短期免許制度を軌道に乗せたと言ってもいいわけで、メジャーリーグで言えば野茂英雄さんみたいな存在。滅多に他人を褒めないことで知られるクリストフ・スミヨン騎手が、ペリエ騎手については「崇拝」と言えるほど称賛していたことも印象的です。また、ペリエが凱旋門賞をエリシオで逃げ切ったとき、「私はニッポンで逃げという優秀な戦法を覚えてきました」と語ってくれたのも、うれしくも懐かしい思い出です。


藤沢和雄元調教師
「シンボリクリスエス(有馬記念連覇、天皇賞・秋)やゼンノロブロイ(天皇賞・秋、ジャパンC、有馬記念)をはじめとして、最高のパフォーマンスをしてくれた。私自身もアドバイスをもらったし、いいレースを何度も見せてもらいました。当時、日本の騎手たちにとっても手本になったと思うよ。乗ってもらう側はもちろん、ファンの皆さんにとっても信頼感が大きかったんじゃないかな。本当に素晴らしい騎手だった。いろいろと勉強になったし、私の中では今でも最高の騎手。お疲れさまでした。」


ルメール
「オリビエはレジェンドですね。世界の全部ぐらい大きなレースで優勝した。特に日本では短期免許が始まったばかりの頃の外国人ジョッキーでパイオニア。素晴らしいジョッキーでした。バランスとフィジカルがすごくて、若い時は彼のレースをよく見て勉強しました。よく覚えています。初めて日本に来て一緒に歩いたとき、みんな彼(ペリエ)に気づいたからビックリしました。日本での彼の有名さを感じました。寂しくなります。」


柴田善臣騎手
「実はちょっと前にペリエが夢に出てきたんだよ。やめるような話をしていたと思う。彼は日本に来て最初は戸惑っていたけど、すぐに逃げることを覚えて勝つようになった。頭が良くて器用だったね。当時はお互い体重が重くて、よくサウナで一緒になって汗取りをしていたよ。意外と趣味が多くて、機械に車、あと船もね。自分も車が好きだから、共通の趣味の話をしていたよ。自分もそうだけど、年齢的にも遅かれ早かれ(引退のタイミングは)くることだからね。でも自分は今はこの仕事が楽しくなっている。以前のように数を勝つ感じではなくなっているけど、馬を育てていってアドバイスを送るような立場が楽しくて、やめられなくなっちゃっている。」


寂しくなりますが、これも時代ですからね。まずは無事に引退できてよかったです。そして今後のペリエに人生が幸せなものになりますように。お疲れ様でした。



2024年4月26日、追記

25日のラテスト競馬場、最終レースの前に仲間の騎手が掲げたステッキのトンネルをくぐって、ジョッキールームからパドックへと入っていき、最後の騎乗へ向かったペリエ騎手。現役最後は10着に終わりました。

最終レース終了後に紙吹雪を浴びながら、パドックに向かい、記念撮影を行ったペリエ騎手は以下のコメントを残しました。

「素晴らしいことです。祝福のメッセージをたくさん受け取りましたが、私自身は今日が最後の日だということをたぶん認識できていません。大きなレースで勝ったときに、そのときは何が起こったのか実感がないのと似ていますね。涙が出るのは後になってからかもしれません」

「まったく後悔はありません。すべての国で大きなレースを勝つことができて、驚くべき成功を収めることができましたし、その勝ち馬たちや私の騎乗馬の関係者のことを振り返ることができます。素晴らしい人々と仲間になり、とても多くのことを学ぶことができました。初めての遠征で英国の乗り方を学び、その後に出会った日本の競馬では素晴らしい時間を過ごすことができました。この2つの国は世界の最も素晴らしい競馬の国です。」


なんだかペリエらしいコメントですね。陽気なイタリア人に似た彼は、現役最後の騎乗だったとしても、しんみりする事はないのかな。日本でもいつもニコニコしてたしな・・と思っていたら、レーシングポストで、『後輩であるルメール騎手が日本でこのレースを視聴していると聞かされて、「ついに涙があふれて、そして、拍手が起こりました」』と書かれています。

やっぱりペリエも泣くんだな。さすがペリエ。その場に居ない私でも泣きそうになってしまいます。ずいぶんと日本に来てなかったけど、また日本の競馬場でその姿が見たいなぁ。武豊が引退したら、2人でトークショーしませんか。その時はデットーリも呼んで、ミルコを通訳にしてね笑 


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