柳家の人びと(一) 「宗悦と兼子」

羊 狼 通 信 ブックレビュー&ガイド
004/120 2016年12月

はじめに
 柳宗悦(やなぎ・むねよし 1889‐1961)の名前を知らない人でも、「民芸」という言葉はどこかで耳目に触れているのではないだろうか。「民衆的工芸」の意味を含むその言葉が現れた日は特定されていて、宗悦はその提唱者の一人だった。その日は1925(大正14)年12月28日、木喰佛調査のために紀州を旅していた宗悦の同行者は、ともに日本を代表する陶芸家となる河井寛次郎(かわい・かんじろう 1890 - 1966)と濱田庄司(はまだ・しょうじ 1894 – 1978)。三重県津へ向かう三者の、車中での語らいの中で生まれた言葉だったという。
 筆者にとって「民芸(運動)」は常に関心を持って接するテーマの一つで、今後この連作レヴューでもいろいろな側面から、何度か取り上げることになろう。その初回である以上、本当なら「民芸(運動)」そのものの紹介から始めるべきだったろうと思う。が今回は、民芸運動の創始者の一人にして中心人物であり続けた宗悦と、その妻柳兼子(やなぎ・かねこ 1892 - 1984)の関係性について紹介したい。
 この小文のために宗悦と民芸運動についての文献にあたる過程で、兼子の存在の大きさ・ユニークさに気付かされ、驚かされた。兼子は、宗悦の妻であり、民芸運動を支える協力者であり、嫁として柳家の台所と家計をあずかり、三人の子供の母であり、日本を代表する優れた声楽家であり、多くの弟子に慕われる音楽教育者であった。

「直観の人」柳宗悦
 「主人」柳宗悦の生涯の仕事の全体像をまず大まかに把握しておこう。
 宗悦の死後十八年ほどして発刊された『回想の柳宗悦』著者代表・鈴木大拙/編者・蝦名則(八潮書店 1979)所収の、寿岳文章(じゅがく・ぶんしょう 1900 – 1992)文「民芸運動の開拓者」中に、宗悦の仕事に関しての簡潔で的を得たまとめがある。英文学者・書誌学者・和紙研究家として一生を終えた寿岳は、1931年に宗悦とともに『ブレイクとホイットマン』を創刊、夫婦同志で深い親交を結んでもいた。
 寿岳は宗悦の仕事を、連峰になぞらえて紹介している。

「いま、柳さんの一生を意義づける仕事をふりかえってみると、私には五つの峰がイメージとしてうかびあがる。それを年代順に記せば、第一は、「白樺」の同人として、宗教や哲学や文学における神秘思想をたずね、東洋的な思惟形式の深さを示したこと。ブレイクホイットマンの研究もこの支峰の脈である。第二は、朝鮮の民衆への温かい理解と愛情を土台として、日本の朝鮮統治者たちからは、一向にとりあげられなかった民衆的工芸品や美術品に愛護の手をさしのべたこと。第三は、長い間うずもれていた木喰五行上人の異色ある彫刻や行実をあきらかにして、日本の宗教美術史に不朽の何ページかを加えたこと。第四は、従来の美術批評家や美術史家から全く無視されていた民芸品の美と意義とを確認して、それに正しい座を与えたこと。第五は、妙好人の信仰を中軸とする他力易行の教えに、生活の原理を発見したこと。これら峰々は、もちろん重層的につらなりあう。たとえば、第一と第五は同じ峰の表裏とも言えるし、第二と第三は、第四の鞍部と見てもよい。そして第五が、第四の峰からのながめをきわめて趣き深いものとする。柳さんは、かたくななほどに一本調子の人であった。」

「柳一代の仕事のうちで、質量ともに最も大きいのは、言うまでもなく民芸運動に関するものだ。東京駒場の日本民芸館と、民芸品を取り扱った数多い著書は、その結晶である。朝日文化賞も、この仕事の意義を認められて与えられた。もちろんその背後には、父子二代にわたる大原家のたゆまぬ援助や、河井寛次郎、浜田庄司、その他の同志たちの協力があろう。しかし何といっても柳さん自身の、あのものにとりつかれたような熱意と執念がなかったなら、民芸運動はここまで幅広く浸透していないであろう。批評家の中には、柳さんが民芸品一辺倒なのを難ずる人もいる。もっともだとは思うが、このはげしさがあったればこそ、先人未発の地域は開かれたのである。柳さんは、よい意味での教祖的存在であった。」

 宗悦に師事し、長くその傍らにあった水尾比呂志(みずお・ひろし 1930‐ )は、宗悦の仕事・研究の全体を、「柳山宗悦寺とも呼ぶべき壮大な伽藍に譬え」て紹介している。『評伝 柳宗悦』(ちくま学芸文庫 2004)より引用する。宗悦本のブックガイドとして読める文章でもあるので、長めではあるが紹介したい。

 「柳宗悦初期の時代では、探究の基礎となるべき哲学と宗教と藝術の各分野における、緊密な関聯を持った思索が積重ねられた。宗悦寺へと私たちを導く参道の端には、初めての著作『科学と人生』という記念碑も立っているが、山門ともいうべき位置に置かれるのが、爽やかな「哲学におけるテンペラメントに就て」をはじめとする諸論攷である。「哲学は畢竟個性の深い直接経験の学」という確信を、彼は「直観」という行為によって遂行して行き、それを以後の柳学の唯一絶対の方法論とする。
 この方法論で把握し、直接体験の情熱的な研究を成功させた、驚異的な『ヰリアム・ブレーク』は、宗教性と藝術性の濃厚な統合体であるこの宗教的藝術家をわがものとすることで、宗悦自身の哲学に宗教と藝術を同化せしめた。「肯定の二詩人」でウォルト・ホイットマンとともに論じた「肯定」とは、自然のありのままの姿に対する肯定、相対立する精神の諸々の性格への肯定である。対立する概念を解き放ち、それらが合一する自由な世界への讃美を謳う二人の詩の苑は、はるか宗悦寺奥の院の、二元的超越不二の世界を予感させ、『ヰリアム・ブレーク』を壮麗な寺門として浮かび上らせている。
 そのかなたの寺院には、宗悦初期の宗教哲学の著作群の堂宇が連なる。「肯定神学」から「否定神学」へ進み、さらに「神秘神学」に入った、と彼みずから述べるその宗教哲学の探究の歩みは、しかしキリスト教神学のみに止まるものではなく、宗教宗派を超えた遍歴であった。そしていかなる場合にも、目指すところは宗教における究竟の相であって、そこに迫るさまざまな思索によって建立したのが、これらの堂宇なのだ。たとえば『宗教とその真理』や『神に就て』は、この寺域の美しい記念の塔と言い得よう。
 ここを下ノ院とすれば、中ノ院は、朝鮮李朝の陶磁と木喰佛とを阿呍に配した門構の内に、工藝の美と性とを探究した、柳宗悦中期活動を物語る本坊の諸堂宇が聳え立つ。『陶磁器の美』を玄関とし、『雑器の美』『工藝の道』『初期大津絵』『工藝文化』『手仕事の日本』などをはじめとする数多の伽藍が、それぞれに無数の論考の調度什器を充満させた広間小間を擁して、相接し立並び、その間は巧みに渡廊下で連結されている。伽藍相互間の調和や、各室を飾る種々の新古の作物の美しさは言うまでもなく、河井・濱田・芹澤・棟方らの独自の個性を輝かせた堂宇がこの寺域の美観に寄与し、リーチの東西融合の亭の美観はとりわけ好ましい。あらゆる工藝の諸相や諸問題を具体化したその部屋々々の確かな構造もさることながら、全伽藍を綜合する工藝美学の宗教性が、この中ノ院の世界無比の浄域を形成しているのである。中心に位置する法堂では、他力門と自力門の工藝の説法が常時聞かれ、庭の茶亭では新たな茶衣と茶器による新たな茶事も試みられている。これらの中にあって、とくに際立った大厦こそは、「日本民藝館」と称される宝蔵であって、その蔵品と展観のみごとさは、宗悦寺が世界に誇るに足るものだ。
 さて、工藝美の大厦を出た巡礼の人びとの足は、そのまま清々しい木立を縫う山道を、柳山の頂近くにある奥の院へと導かれる。道の両側には、妙好人の語録を刻んだ石碑が立並ぶ。それらは、本坊の大伽藍の建立の頃から、雲霧におおわれたこの山岳の深奥に心を馳せていた宗悦が、やがて美の法門の建立に着手して山道を登り降りする度に配した記念碑である。彼はそこに、無数の無名の工人たちや器物への供養と、彼等を美の浄土へ迎接し給うた佛の慈悲への、限りない讃仰をこめている。
 この奥の院は、柳の晩期に到達した信と美を一如とする浄域である。『美の法門』『無有好醜の願』『美の浄土』『法と美』の四宇を中心に、「佛教美学の悲願」をはじめとする多くの小宇に囲繞されている。さらに人びとは、『南無阿弥陀佛』『一遍上人』『因幡の源左』などの諸室を擁する別院が建てられているのも見ることができるであろう。ここが柳山宗悦寺の究竟であり、はるか麓の山門から続く他力の道の極まる所、そしてもう一筋の自力の道もまた到達する不二の境なのだ。
 自筆自装の偈の書軸に心を託して、そこには宗悦自身も姿もなく、木ノ葉を渡る風が名号の如くに唱和しているだけである。」

 水尾も文中に触れている、宗悦の「直観」についての記述を、別の評伝から引用しておこう。阿満利麿『柳宗悦 美の菩薩』(リブロポート 1987)中の「眼の人」より。「鈴木繁男は、昭和十年二十二歳のとき柳宗悦のもとへ書生として入って以来、柳宗悦に親しく師事してきた。その鈴木に柳宗悦はどのように映ったか。」
 鈴木繁男(すずき・しげお 1914 - 2003)は語る。

 「朝の食事をいただきます。私は田舎育ちですから先生のすぐわきで食事をいただくということは、行儀のいい家庭ですからね、非常に私は緊張しました。御飯がのどへ入っていかないと思うこともありましたけれども。食事がすんだあとですね、「鈴木君、あの包みをちょっともってきてくれ」というんです。で私はその包みを先生の前におきます。先生がそれをほどきましてね、そのなかから私のみたこともない焼物を出して先生、ごらんになってね、私の前に置いてーー私は指つきを覚えています。こういう指つきをします(人指しゆびを親ゆびと結ぶ)。ズ―とおすんです。私のところへズーとおしてよこすのです。無言でおしてよこします。
 私は見ろということだろうと思って見ているのです。何をいったよいかわからないのです。そのときにね、「君はね、反応がおそいよ」といわれるのです。到着したあくる朝からです。「君、毎日これからやるからね、ぼくがこれはどうだといえば、即座に、わからない、いいなり、よくないなり、自分の意見をいいなさい」といわれるんです。なんのためにこのような訓練をされるのかですね、三年目に私はノイローゼになりました。
 とにかく、あれくらい強い直観力というか、するどい観察力をもった人はちょっと今までにない。ほとんど眼がなかったら先生の深い思索もうまれなかったんだろうと。先生のお書きになったもろもろの論説というのは、ほとんど眼でみたことを、ぼくからいわせるとどのようにいいあてるか、いいあてる。それは、過去の経典や東洋に伝わった言葉を用いますけれどもね、それでもって自分で見たことをいいあてる、それが先生の仕事ですね。
 それからもう一つは、自分のみたものの本質というものの同類を、証拠を集めてくる。それが先生が民芸館をつくったきっかけになっていると思います。(一九七九年八月二十九日「テレビ評伝・柳宗悦」から) 」

 阿満利麿(あま・としまろ 1939 - )は綴る。

 「柳宗悦に「どうしたら美しさが分るか」(『全集』第九巻所収)という一文がある。それによると、美しさが分るためには、自分を虚しくしていなければならない。自分が何かを主張しようとするのではなく、「凡てを受けとろうとする心」になりきることが大切なのだ。それは「印象」といってもよい。そして、「印象」は鮮やかであればあるほどよい。あくまでも第一印象が、美をつかみとるためには肝要なのだ。そして、鮮やかな「印象」とはとりもなおさず、「早い反射運動」にほかならない。鈴木繁男氏が「即座に」反応せよと求められた理由である。それは、さらに言葉をかえれば、「直観」にほかならない。
 そして、柳宗悦によれば、「直観」とは、物と眼の間になんらの介在物をさしはさまず、物そのものに「ぢかに触れる」ことなのである。文字通り、直にみる、のである。もしその間になにものかを介在させるならば、つまり、先入観にとらわれてものを見るとすれば、それはもはや「直観」ではなく、独断となる。柳宗悦は、独断をきらった。直観に即することこそなによりも大切だと考えたのである。柳宗悦はいう。

 直観とは物を素直に受け取る力です。迷はず汲み取る力です。ものにぢかに交る力です。活き活きとした印象を心に刻むことです。  (「どうしたら美しさが分るか」、『全集』第九巻)」

 鈴木繁男氏の言葉でいえば、まず見るのであり、そののちにそれに表現(言葉)を与える。もし、言葉がさきであれば、それは独断にほかならない。もちろん柳宗悦は、言葉を否定はしない。しかし、美をつかむためには、言葉は二次的な役割りしかもっていない。見たことをいいあてるとは、柳宗悦の本質をあらわしていて妙である。」


「妙好人」柳兼子
 こうしてみると、柳宗悦の仕事は、現在の定評通り唯一無二の偉大なものであり、宗悦その人格もまた高潔で、欠点などないかのように思われてくる。しかし、宗悦に関する伝記を読めば読むほど、身内ではない男性が描く宗悦の姿と、家族肉親や女性(特に兼子の側により近くいた)が記述する宗悦の姿に、大きなギャップを感じるようになってくる。
 そのギャップの一例として、宗悦・兼子夫妻の長子柳宗理(やなぎ・そうり(本名むねみち) 1915 – 2011)が、両親の死後に、その夫婦関係について主に兼子の立場に立って書いた文章の一部を紹介する。『柳宗理 エッセイ』(平凡社ライブラリー 2011)より。

 「音楽学校に入って間もなく、兼子は将来の夫となる柳宗悦と知りあった。兼子が十八歳、宗悦が二一歳の時であった。大学生になったばかりの宗悦は、間もなく彼女を慕うようになった。思想的に大変早熟であった哲学者宗悦は、既に最年少にして白樺同人の中心人物の一人になっていた。そしてその思想は他の白樺同人と同じように、すこぶる理想主義的で、藝術至上主義的なロマンチシズムに富むものであった。そして宗悦は純粋な憧れを以て約四年間、彼女に恋文を何百通となく書き続けたのである。私は母兼子が死に近づきつつある時、彼女が大事に蔵っていたその手紙を、初めて開いてみて、その驚くべき量と、その切々たる純粋の思慕に、息子ながらも、この世にかくも純粋な恋心があるものかとびっくりして息を弾ませた。
 宗悦は初め兼子の歌に感銘することによって、心から彼女を慕い始めたことは確かだと思うが、彼は彼女への恋文の中に、絶えず彼女の歌についての意見と希望とを述べて彼女を鼓舞した。特に興味あることは、宗悦は彼女の藝術家としての行為と、家庭人としての女の務めが、両立することの可能性を、彼女の将来の中に見出し得ることを、確信を以て述べていたことだった。しかしこの問題は結婚後、彼女が現実として味わった最も困難な問題として、幾度か躓きそうになって苦しむこととなったのである。宗悦の兼子への思慕は、宗悦の思想にこの上ない活力を与えた。と同時に、兼子は宗悦に慕われることによって、その歌に一段と人間味の潤いのある豊かさを増したことは、疑いない事実だろう。」(「素晴らしい苦闘の生涯」)

 「私たち兄弟の入学のため、大正一〇年頃、東京に引っ越した。しかし大正一二年関東大震災があり、父の兄悦多(よしさわ)が死んだり、その他色々な不幸な事情から、宗悦は無一文になってしまった。しかし経済的頭をほとんど持たない宗悦は、家計の苦しいのにもかかわらず、どんどん自分の好きな物を買い漁るのに夢中であった。従って、以後は母兼子が音楽で稼いで、父宗悦に貢ぐ恰好になってしまったのである。」(「宗悦の蒐集」)

 「結婚前には宗悦は、音楽の修業のために外国に行かねばならないと薦めていたが、結婚後はそんな余裕は些かも兼子に訪れてはこなかった。そして初めて外国ドイツに行ったのは四〇近くになってからであった。それも半年余りで家庭のために帰らざるを得なかった。ピアノも長い間、がたがたのアプライトを使っており、やっとグランドピアノを手に入れたのは五〇歳を過ぎてからだと思う。
(中略)
 母兼子は夫宗悦の我儘な気難しさに、不平を言いながらも、矢張り宗悦の仕事に共感し、一生懸命夫についていった。又、宗悦も妻兼子の歌には感心していたらしく、最初のうちは必ず彼女の音楽会に出掛けて神妙にその歌を聞いていた。母兼子は夫宗悦の影響を受けて、色んな美しい物を見付けては喜んでいた。二人は激しく喧嘩をしながらも、矢張り美の喜びを共に頒つことによって、その仲が保たれていたような気がする。勿論、私達子供が父と母との間の絆になっていたことも事実であろう。
 戦後やっと世間が平和になると、父宗悦は母の音楽会には殆ど行かなくなってしまった。そして母の父に対する不服は段々と大きくなって来たようだった。夫婦喧嘩も愈々激しくなり、険悪になったことも屢々あった。しかし、その頃は私も弟宗玄も大きくなっていて、父母の喧嘩の間に入ることも屢々あった。勿論、父親の勝手な振舞いに抗して母に味方する時が多かったような気がする。そしてそれほどまでに喧嘩しながらも、何故父と母がまだ一緒にいるのかということが、子供としてでさえも不思議に思えたことがあった。しかし母は最後まで辛抱した。そして父が亡くなった時、さぞかしほっとしたに違いない。しかし反面、父の死後、夫宗悦の偉大なる真価をあらためて身に感じ、絶えず夫を追慕していたことも本当だと思う。そして夫に従って身を挺した民藝館のことを何時も心配していた。
 最初、母の藝は父宗悦によって磨かれたことは言うまでもない。結婚後母の藝術は、家事の繁雑さ、特に気難しい父宗悦の横暴によって、勉強の時間が中々とれなかったことは事実だろう。母が父から離れて自由になれば、母の藝術はもっと開かれ進歩しただろうと言う人がいるが、私は必ずしもそうとも思わない。なるほど、家庭の主婦としての務めの繁雑さは、彼女の藝術の才能を自由に振舞うことを或程度制限はしただろうが、気難し屋の父のもとで、主婦としての苦労に耐え得たことは、それだけ人間を大きく深くしていたに違いない。」(「素晴らしい苦闘の生涯」)

 次男柳宗玄(やなぎ・むねもと 1917 - )の証言もある。

 「民芸館は、日支事変の始まる直前のころ、父が友人たちの援助を得て設立したもので、財団法人になっていたが、その維持はなかなか大変であったようである。父を中心とする民芸運動に対しては、世間は冷たく、戦後になっても、民芸館はいつも人影がまばらであった。訪問者はむしろ外人の方が多かった。日本の庶民社会の伝統のすばらしさには、外人の方が遥かに理解があった。
 ともかく民芸館は、いわば父の最愛の「息子」であった。実の息子は三人とも、どうやら一人立ちする見通しがついた。しかし民芸館は先々どうなるか。そんな心配もあったろう。
 それに、私たち家族から見ると、民芸館と隣接して建てられた我が家は、すでに半ば民芸館なのであった。我が家の入口に建てられた長屋門は、できて間もなく民芸館のものとなった。我が家で日常使っている食器などが、ふと消えると、それが知らぬまに民芸館に陳列されていたりした。もちろんそういうものはもう我が家には戻ってこなかった。ふだんから(民芸館ができる前から)、父は、自分の収入(たいしてなかったようだが)は家庭の方にはほとんど廻さず、専ら民芸館の仕事に使っていたようである。一家(父を含めて)の生活は、母の方が支えていたようだった。父は次から次へと立派な仕事をし、民芸館を育て上げたが、私から見れば、それらは半ば母の蔭の力に負うものであった。」(『回想の柳宗悦』所収「父宗悦と朝鮮」)

 さらに、民芸とは縁の薄い声楽の側から「兼子の生涯とその夫宗悦」を描くことになった松橋桂子の『楷書の絶唱 柳兼子伝』(水曜社 1999)に登場する宗悦は、ついに「専制君主」になぞらえられてしまう。

 「二人が結婚してから丸四年経った。「結婚前に柳が言っていたことと、結婚後の現実の姿があまりにも違うのでびっくりしました。こんな怖い人ではないと思って結婚したのに、本当に怖い人でしたよ」と兼子は語る。その違いと怖さの実態はどうあったのだろう。
 宗悦が結婚前に掲げた「理想の愛」は、現実にまみれて変貌をとげたのであろうか。観念的に描いていた芸術家の夫としての自らの役割と、その精神性はすっぽり抜け落ちたかのようで、実生活者としての宗悦は専制君主そのものであった。宗悦は兼子に、一個の自立した芸術家である以前に妻であり母であることを要求した。家に籠って思索にふける宗悦は、わが子の泣き声や遊びまわる騒音にも我慢ならない。そういた神経の過敏さから、夫婦の間によく揉め事が起きた。居候をしているリーチの兼子に対する挨拶は「ヤナギーオコッテルカ」であった。
 志賀直哉武者小路実篤の従妹康子と結婚したのは、兼子の結婚した同じ年の十二月だから、我孫子では共に新婚家庭といえる。しかし直哉と康子がその家庭の基盤を築くうえで、夫唱婦随の中に夫婦としての調和を獲得していったのとは異なり、兼子と宗悦は出発から五分五分の対等であった。むしろ社会的評価では、自立した表現者として兼子の方が勝っていた。当然二人は志賀夫妻の調和よりも、互いに競い高めあう夫婦の関係になる。この点は、宗悦の「共に勉励しあい何ものかを世に残す」と掲げた「理想の愛」の体現である。というところまでは理想的でありうる夫婦関係ということになるが、現実には、それだけではすまない時代の制約の中の、男と女の関係が影を落とす。とりわけ宗悦の中に隠されてある封建的な男性気質と、自立した音楽家でもある兼子の勝ち気で激しい気性がぶつかれば……。
 (中略)
 宗悦の掲げた「理想の愛」は、経済面からも夫婦のあり方からも変質を迫らざれるを得なかった。それは宗悦にとって大きな痛手だったに違いないが、兼子は婚約中に、宗悦の要求する理想の音楽と日本音楽界の現実との板ばさみに苦しみぬき、理想の音楽家の実現を結婚後に委ねていたから、宗悦以上の失望を味わっていた。」

 兼子さんご自身の語りも引用しておくべきだろう。
 竹西寛子(たけにし・ひろこ 1929‐ )『人と軌跡』(中公文庫 1993)より。

 「帝国劇場の東京フィルハーモニーの演奏会で「ハバネラ」を歌い(大正三年)、本郷の青年会館で独唱会を開いた(大正七年)柳氏は、我孫子では井戸端でおむつを洗う若い主婦だった。「風光明媚」だけれども不自由な土地だった我孫子で、ランプをつけて風呂を焚き、子どもをおぶって歌の稽古をした。車井戸の水汲みも、「腰を鍛える体操のつもりで、この時とばかり一生懸命やりました。」
 足かけ八年をその土地で過し、東京にもどった柳一家は震災に遭うが、志賀氏の誘いもあって翌年京都に移っている。京都在住約十年で帰京、やがて民芸館の開館となる。
 ――柳は、一口に言うと外面のいい人で、表ではにこにこして抑えているんでしょうけれども、玄関を入るといいも悪いもない、あたくしが爆発の引受所なんです。反対だといいなと思うことがよくござんしたよ。なかなか細かくて厳しい人でしたが、めんどうくさいことは、お前よきにはからえ、なんです。まるでお殿さまでした。決して頭を下げない人ですからね、衝突してもこっちは途中で黙ってしまう。だってしようがないんですもの。考えようによってはあたくしがのんき者だから、怒られたり、叱られたりしながらも続いたんでしょうね。」

 「家庭をもつなら歌よりもまずいい妻に、と言う柳氏は、「歌うことを知っていてほんとうによかったと思います。自分が打ち込んだ歌ってものがなかったら、柳が亡くなったあとはもぬけのからですわね。自分は柳のためにばかり生きてきたような気がするでしょう」と言い、また「あたくしは結婚していなかったら、歌でももっと思いきり仕事をしたかもしれない」とも語る柳氏である。
 「よく歌の道一筋に」と言う。恩賜賞受賞を祝う記事にも、そうした言葉をみかけたものだが、柳氏の場合はちょっとニュアンスが違うようである。「歌を捨てるつもりじゃなかったら結婚はするな」、この反語的な色合をもった言葉には、長い間声楽家と家庭人との両立困難に苦しみ、同時にまた、かけがえのないよろこびをも温めてきた柳氏の人生観がこめられているように思う。過程を軽視するような人の歌には魅力はない。素質な能力のある人なら、歌を捨てるつもりで結婚してもいつかは歌わずにはいられなくなるだろうし、そういう歌こそ養い、鍛え磨くにふさわしい、そんなふくみをもった言葉なのであろう。」

 『評伝 柳宗悦』文庫版の巻末には、著者水尾比呂志による、兼子へのロングインタビューが収録されている。

 「――その我慢してらっしゃるっていうのは、ご自分で抑えていらっしゃるんですか。
 柳 できるんです、抑えていれば。だって、人間っていうのはみんな違いますものね、心が。だから、こちらでもって嬉しいときだって、向うは悲しいこともあるでしょう。そんなこと、いちいち察していられませんからね。それが私の歌になったんでしょう、あるところ考えてみるとね。
 ――そういうふうにお思いになったのは、いつ頃からでしょうか。
 柳 自然にそういうことを考えるようになりました。それで、悲しいときに悲しい歌を歌って、悲しい心を歌えばそれで済むんです。嬉しいときには嬉しく、すぐ変えることができますし、そういうことに私はわりあい慣れているんですね。」

 自信家・負けず嫌いである宗悦は、自分自身の兼子に対する姿勢や立場を無意識のうちに正当化し、兼子の協力・忍従を当然のものとしたのではないか。外面は良いものの、身内に対しては強くあたる夫・父は一定数存在するが、宗悦もまたその典型だったように見える。それは、幸福な結婚であると同時に、不幸な結婚でもあったのかもしれない(ほとんどの結婚がそういうものだとも言えようが)。
 宗悦の直観は兼子という才能を認めたが、宗悦の才能とはまた違った種類のその才能は、宗悦が制御できる性質・範疇のものでも、制御できる範囲に収まる大きさでもなかったのだろう。兼子もまた、宗悦という巨人の傍らにいて、その踏み台として一生を終えることを良しとせず、踏み台にされる恐怖と戦いつつ、良人を愛し続け、自己を実現していった。
 極論すれば、宗悦にとって兼子は、その才能を認めざるを得ない、自分の制御下に置けない、厄介な存在だったのではないか。嫉妬の対象にさえなりかねないような。宗悦にとってみれば、自分にはない才能を持った人間が、無邪気に逞しく健康にもっとも身近にいたのである。そんな二人の間に、葛藤が生まれないわけがない。
 宗悦の兼子の本質を捉える直観は正しかったが、宗悦の兼子への振舞いが正しかったとはいい難い。逆に、兼子の宗悦の本質を捉える直観が正しかったとはいいにくいが、兼子の宗悦に対する振舞いはほとんど間違ったところがない、という印象である。宗悦の運動は、兼子という人間を併吞することなしには発展えなかった側面があることは否定できない。一方、兼子は、宗悦にもその運動にも完全には吞み込まれることなく、逆にそれを糧として、一個の個性として成長・成熟したのだろう。
 柳宗悦は「妙好人」について書き、柳兼子は「妙好人」そのものであった、ということか。身近な「妙好人」の存在に気付けなかった「眼の人」宗悦の「眼」のあり方について、今一度考えて見るのも面白いかもしれない。一方「妙好人」柳兼子は、「妙好人」としてではなく、柳兼子その人として、生を全うし世を去ったのだろう。

 鶴見俊輔(つるみ・しゅんすけ 1922 - 2015)の著書『柳宗悦』(平凡社ライブラリー 1994)からの引用で、この小文の終わりとしたい。

 「その思想を生きる生き方という一点で人を見るならば、こどもの眼には、父親よりも母親のほうが自分の思想を忠実に生きているように見えるだろう。それは、父親の方が母親よりも遠大の理想を語り、それをほうりっぱなしにする確率も高いだろうと思われるからだ。母親の方が、すくなく語り、その理想も、日常生活からそれほど離れるものではなく、またその少なく語ったことを父親よりも実行する場合が多いだろう。しかし、そういう一般条件(これは日本の息子・娘が父母について語る場合に統計的に真だと思うのだが)からはなれて、柳兼子という人は、人間の大きさを感じさせる稀有の人だということができる。宗理氏の意見を、息子の偏見として私はきくことができない。
 一九二七年(昭和二年)生れの四男宗民氏は、母の兼子氏が土いじりが好きだったことから影響をうけて園芸に入って行ったそうだが、この人は、父母のことを次のように書いている。

父は、民芸の研究をし、美の研究をする根源として、仏教の研究を終生続けていた。仏の教えについて、私は父の書いたものを読むことによってよく理解出来た。私が父から教えを受け影響されたことといえば、この仏の教えについてである。しかし、息子の私から見ていると、教えを説いたのは父であったが、身をもって実践したのは母に他ならない。 (柳宗民「芸の道は心の道――母柳兼子のこと」、『婦人の友』一九六二年十月号)

 私は三十年来の読者として柳宗悦の著作だけを追って来たが、今度はじめて伝記にわたることをしらべて、こうした肉親の回想を読み、面白い問題に出会ったという気がしている。私の理解しているかぎりでの柳宗悦の思想から見て、家庭の中に自分よりも大きな存在があるということは喜ぶべきことではなかったか。」

 (文中敬称略)



柳家の人びと(一) 「宗悦と兼子」 ブックガイド
凡例 『書名』著者・編者名(出版社名 初版刊行年) / [田原のコメント]
[随時、追加・追記・修整します]

本文中に登場する本
回想の柳宗悦』蝦名則 編(八潮書店 1979)
評伝 柳宗悦』水尾比呂志(筑摩書房 1992/ちくま学芸文庫 2004)
柳宗悦 美の菩薩 シリーズ民間日本学者』阿満利麿(リブロポート 1987)
柳宗理 エッセイ』柳宗理(平凡社ライブラリー 2011)
楷書の絶唱 柳兼子伝』松橋桂子(水曜社 2003)
人と軌跡』竹西寛子(中公文庫 1993)
柳宗悦』鶴見俊輔(平凡社ライブラリー 1994)

ブレイクとホヰットマン
「白樺」

科学と人生』柳宗悦(籾山書店 1911)
ヰリアム・ブレーク
宗教とその真理』柳宗悦 (叢文閣 1919)
『神に就て』
陶磁器の美
『雑器の美』
工藝の道
『初期大津絵』
工藝文化
手仕事の日本
美の法門
無有好醜の願 不二美の願 仏教美学の悲願』(日本民芸館 1957)
『美の浄土』
『法と美』
南無阿弥陀佛
『一遍上人』
妙好人 因幡の源左

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