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10月14日 エディット・ピアフ

大学では人類学の講義(4科目)の他に、フランス文化の講義(2科目)も受講しているんですが、
先週、そのうちの1つの「フランス歌謡」«Chanson Française» の授業でエディット・ピアフ Edith Piaf の生涯を扱いました。

彼女の人生はまさに「波乱万丈」。
歌手としての世界的な成功とは裏腹に、悲しみに満ちた一生だったのです。

ということで、
今回は授業で扱ったプリントの翻訳も兼ねて
エディット・ピアフについてまとめます!

Edith Piaf

本名: エディット • ジョヴァンナ • ガション
Édith Giovanna Gassion

幼少期

1915年12月19日、ピアフはパリ20区の貧しい家庭に生まれた。両親は離婚、父はサーカスで働き、娼館を営む祖母のもとで育てられるなど、恵まれた生活では無かったといえる。

17歳のとき、ルイ•デュポンという少年と恋に落ち、妊娠、女児を出産、マルセルと名付ける。

家族を持ち、幸せに思えた彼女に最初の不幸が訪れる。2歳になったマルセルが髄膜炎で死去したのだった。悲しみに暮れ、ルイとも別れたピアフは貧困、薬物、売春などの落ちぶれた生活を送る。

転機、そして転落

ピアフが20歳になった1935年、転機が訪れる。
それはナイトクラブのオーナー、ルイ•ルプレーとの出会いだった。彼はピアフの歌手としての才能を見出し、「ちっちゃな雀」(Môme Piaf) という芸名を与える。さらにピアフにとって初めてのレコーディングを支援したのも彼であった。

ついに成功を手にしたかのようであったピアフに、再び不幸が訪れる。
1936年4月、ルイが殺害されたのだ。ピアフの売春相手による犯行とされているが定かではない。警察の度重なる尋問など、ピアフは再び辛い日々を送ることとなる。

復活

1937年、レイモンド•アッソとの出会いが彼女を救う。ピアフはレイモンドの愛人となり、彼とともに録音したMon Légionnaireをきっかけに歌手として本格的に活動し始める。
1939年、ヨーロッパツアーを行う中、軍人ミシェル•エメがピアフにL'accordéonisteを楽曲提供する。これを気に入ったピアフは曲を買取り、ミシェルは作曲家として成功、さらに彼らは愛人関係を結ぶのだった。

このように著名なピアフに楽曲提供することで、その名をあげようとする作曲家はその後も数多く現れる。

YouTube: L'accordéoniste

戦時中の活躍

第二次世界大戦中、パリがドイツに占領された際にもピアフはコンサートを続けた。ドイツ人将校と仲を深めることでフランス人捕虜との接触を行い、フランス国内のレジスタンス運動を活発化させた。

1944年、イヴ•モンタンを弟子に取る。ピアフは師匠としてイヴを立派なシャンソン歌手に育て上げる一方、恋人としても関係を持った。1946年に発表された La Vie en Rose は彼との熱い恋を歌っているとされている。

ピアフの代名詞ともいえるこの曲、
知ってる人は多いのではないでしょうか?

YouTube: La Vie en Rose

大恋愛

1947年、ニューヨークへと向かう船でピアフは1人の男性に出会う。プロボクサーの世界チャンピオン、マルセル•セルダンであった。二人の恋は「至上の大恋愛」とされ、愛人関係ではあったもののその愛情はとても強いものであった。

しかしながら悲劇が再びピアフを襲う。
1949年10月27日、マルセルが飛行機事故で亡くなったのだった。
彼を失った悲しみから書かれたのが L'Hymne à l'Amour とされており、その歌詞からもピアフがいかに深く彼を愛していたのかを読み取ることができる。

この曲は日本語版もあり、「愛の讃歌」という邦題がつけられています。美輪明宏さんが歌う「愛の讃歌」が有名なのではないでしょうか。

YouTube: L'Hymne à l'Amour

YouTube: 愛の讃歌
(前半セリフつき、歌は2:20あたりから。)

薬物依存

病や事故などの様々な要因からピアフはモルヒネ中毒に陥る。薬物依存に陥りながらも、舞台上での活躍はとどまることを知らず、さらに新たな愛人を複数もうけるなど、相変わらず大きな影響力を持っていた。
1953年頃から薬物依存治療を行う傍ら、並行してワールドツアーを行うなど、精力的に活動を続けた。一方で新たな才能の教育も怠らなかった。1958年にはジョルジュ•ムスタキが書いた Milord を採用し、彼を世に送り出した。
しかしながらムスタキとドライブ中、交通事故にあい、ピアフは薬物依存をさらに深めることとなってしまう。

終末

1959年初め、ニューヨークでのコンサートの最中、ピアフは舞台上で倒れてしまう。緊急手術が行われるも、彼女の健康状態は最悪のものであった。

一方で、立つのがやっとの体力でもピアフはコンサートを続ける。
1961年、パリで行われたコンサートで Je Ne Regrette Rien を披露し、大成功を収めた。

この曲は、2010年の映画 「インセプション」で使用されています。ピンとくる人も多いのでは?

2010年 「インセプション」クリストファー•ノーラン監督, レオナルド•ディカプリオ主演

YouTube: Je Ne Regrette Rien

1962年10月9日には駆け出しの歌手だったテオ•サラポと結婚する。このときピアフは46歳、テオは26歳だった。

しかしながらこの結婚生活も長く続くことはなく、翌年1963年10月10日、ピアフはその生涯に幕を閉じた。

ピアフは10月10日にフランス南東部の都市グラースで息を引き取った。翌日その遺体はパリに運ばれ、公式には10月11日パリで死去したとして発表された。

あとがき

エディット・ピアフは歌と愛に生きた偉大な女性だったんですね。
彼女の人生に関する概要は以上ですが、

ここで1つ、映画の紹介を。

2007年公開の「エディット・ピアフ 愛の讃歌」はエディット・ピアフの波乱に満ちた一生を描いています。

2時間半と少し長めですが、
是非!ご覧ください!

2007 "La Môme" Olivier Dahan, Marion Cotillard

今回は長めの投稿になりましたが、読んで下さりありがとうございました!

また次回もお楽しみに!

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